レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:早稲田大学を卒業後、院に進学した男と代理店に就職した女。社会人1年目のGWに危機が訪れ…




「大好きな彼は“コンテンツ男”」知子(27歳)/ 六本木一丁目『レストラン ローブ』


「ふう、重たい」

4月も終わりに近づいた木曜日。

三軒茶屋の駅前にあるスーパーマーケットで買いものを終えた知子は、ずっしりとしたビニール袋を2つ、両手に抱えている。

― 19時なのに、まだ少し明るい。日が長くなったなあ。

食事会で出会って交際1年、2つ年上の彼氏・遊真と一緒に住んでいるマンションまで、徒歩10分。

看護師の仕事で疲弊した体を引きずるように、知子はゆっくり歩く。

現在、同棲して3ヶ月。知子はシフト制の仕事なので、毎日遊真と一緒に家で食事をとれるわけではない。

だからこそ、たまに都合が合う日は、彼のために夕食を作ってあげようと決めている。

遊真に尽くすことに、そこはかとない幸せを感じる日々だ。

「あれ、トモちゃん?」

そのとき、背後から大好きな声がした。振り向くと、遊真が立っている。

「やっぱりトモちゃんだ。偶然だね」

「遊真!帰り道一緒になるなんて初めてだね」

嬉しい、と知子が言い終わる前に、遊真は知子が持っていた重いビニール袋をひょいと無言で取り上げた。

その頼もしい動きに、知子は幼い少女のように頬を赤らめる。

背が高くて筋肉質で、顔がめちゃくちゃタイプ、そして長男気質で、守ってくれるタイプ。おまけに、仕事熱心なところも大好きだ。

「イベント、もうすぐでしょう?準備はどう?」

遊真は、小さなイベント企画会社を経営している。

今は、GWに行われる人気週刊漫画誌の大型イベントで忙しいのだ。年末から準備を頑張っていて、あと数日で本番を迎える。

「絶好調だよ。トモちゃんは?」

知子は、今日は先輩がたくさん仕事を手伝ってくれたこと。その先輩の作ってくるお弁当が毎日素晴らしくて尊敬していることを話す。

笑顔で相槌を打ってくれる遊真。風が吹いて、そのちょっと長いパーマヘアが揺れる。

そのときあらわになった、彼の耳。…知子は、一転して複雑な気持ちになる。


彼の耳に、ワイヤレスイヤホンが刺さっているのだ。

同棲を始めてから、遊真はいつもこうだ。一緒にいるときは大抵イヤホンでラジオやポッドキャストを聞いている。

夕食を作って一緒に食べているときだって、脇にスマホを立てておいて、片耳イヤホンでアニメやドラマを垂れ流している。

「これ、流し聞きしてるだけだから気にしないで」と遊真が言う通り、知子が話しかければ、彼は問題なく対応してくれる。

それでも、知子は不満だ。

買い物に行くときも、散歩中もたまの外食中も、たいてい片耳にイヤホンが刺さっているなんて、嫌だった。

― わかってあげているつもりなんだけれど。




遊真は仕事柄、あらゆるジャンルのコンテンツにアンテナを張っている必要がある。

映画、ドラマ、アニメ、漫画、様々なコンテンツが仕事になるからだ。だから、プライベートを犠牲にしながらコンテンツを浴び続けなければいけない。

たゆみない努力のおかげで、彼は世の中のたいていのコンテンツの話に反応するスキルを持っている。すごいことだ、と知子は感嘆する。

でも一方で、さみしくてモヤモヤしてしまうことがある。

三軒茶屋の自宅マンションが見えてきたとき、知子は勇気を出して言った。

「ねえ、今更なんだけどさ」

「ん?」

「同棲してからずっと、一緒にいるとき、いつも何か聞いてるじゃん。それ、ちょっと嫌なんだけど。ないがしろにされてる気分」

遊真は歩みを止める。

「遊真の仕事はもちろん応援してるし、大変なのもわかるけど…たまにでいいから、しっかり私との時間を楽しんで欲しいなって思っちゃうよ」




遊真は驚いた様子でイヤホンを外すと、やや不満げに言った。

「別に、トモちゃんの話はちゃんと聞いてるよ。空返事したことなんて、1回もないだろう。こうやって、ちょっとだけでもコンテンツに触れておかないと仕事に支障が出るんだ」

知子は返す言葉が見つからず、無言で睨むように遊真を見上げる。

すると遊真は、困ったような面倒くさそうな表情で「勘弁してよ」と苦笑いをした。



ゴールデンウィークが終わり、遊真が頑張って準備してきた大型イベントが終わった。

週末、知子は遊真のためにねぎらいの会を開くことにしていた。

予約したのは、遊真の勤務先がある六本木一丁目から近い『レストラン ローブ』。

アークヒルズ 仙石山森タワーにあり、以前から知子も気になっていたレストランだ。

この前、遊真のイヤホンについて苦言を呈してしまってから、少しだけ関係がギクシャクしている。

何とか持ち直そうと、ちょっと奮発をして、今日はご馳走してあげるつもりだ。


同棲してまだ3ヶ月だが、着飾って、素敵なレストランに着席すると気分が上がり、少しだけ緊張する。

「乾杯!」

目の前にいる、ジャケットを羽織った遊真が眩しい。今日は、イヤホンをしていない。

― 良いレストランだからなのか、それともこの前のことを反省してくれたのか。

季節の食材をふんだんに使った、目にも楽しい料理の数々。

美味しくて、会話が弾む。普段よりもずっと遊真の表情が豊かで、お腹だけでなく、心までどっぷり満たされていく。

― ああ、久々にこんなに遊真と話せたなあ。やっぱり、遊真が私にだけ集中してくれると、こんなに楽しいや。

知子の中でまた不満が頭をもたげたとき、苺をつかった美しいデザートが出てきた。

「楽しいなあ。この時間が終わっちゃうの、さみしいなあ」




知子が言ったとき、遊真はデザートスプーンを片手に持ったまま、突然「ごめん」と切り出した。

「GWの前にトモちゃんから指摘されたこと、ずっと考えてた。俺は、コンテンツをずっと流してても、トモちゃんの話は全部完璧に聞いてるつもりだったし、仕事の一環なんだからわかってほしいって、思ってた。

でも今日、こうやって一緒に食事をしてみて、なんだか久々にトモちゃんとまともに話した気がする。トモちゃんとの会話、大事にできてなかったんだなって気づいたよ」

驚いているような、遊真の表情。

「もちろん、仕事で必要だから、完全にやめるのは難しいんだけど…。これからはせめて夕食の時間だけは、トモちゃんとしっかり向き合う時間にするから」



1ヶ月後。

知子は、スーパーで買ってきた食材を、キッチンに並べている。

今日は、遊真の好物であるマカロニグラタンを作ってあげるのだ。

あの日のディナーでの話を、遊真はしっかり有言実行してくれた。

2人で家で食べるときは、それに集中する。

知子が仕事で深夜に帰る日や、遊真が外で飲んで帰ってきた日は、1杯だけ飲みながら、会話の時間を作るのが定番になった。




今日あったこと。これから出かけたい場所。なんでもいいから、真剣に話す。その時間が、知子にとって、慌ただしい暮らしの中でもっとも楽しい時間になった。

おかげで、仲がぐっと深まったように思う。

昨日は、遊真にこんな提案をされた。

「俺、夏前にまとまった休みが取れそうなんだ。もしトモちゃんも休めるんだったら、旅行しない?」

そして照れくさそうにこう付け加えた。

「この旅行では俺、オフラインで過ごそうと思うんだ。トモちゃんと一緒に、目の前のことを楽しむ時間にしたい」

知子は、早くもその旅行が楽しみで、口元が緩む。

― 勇気を出して、不満を伝えてよかった。

何より一番良かったと思うのは、遊真が思っていた以上に素直な人だとわかったことだ。

― 今日はどんな話をしよう。

知子は、遊真の笑顔を思い浮かべながら、バターを溶かし、ホワイトソースを丁寧に愛情を込めて作っていく。

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