「児童養護施設ではまるで透明人間のように扱われました」。母親からの虐待、施設や学校でのいじめに直面し、生きる意味すら見失ったという松尾知枝さん。過酷な環境でも自分の人生を諦めず、未来を切り開いたのは、周囲の「当たり前」に疑問を抱き、常に自問自答して答えを導き出してきたからだったそうです。

【写真】児童養護施設に入る前、ご両親と一緒に写る幼いころの松尾さん(5枚目/全14枚)

母からの虐待で小学5年で児童養護施設に入った

現在は婚活コンサルタントとして活躍中の松尾さん

── CA、タレントを経て起業し、現在、婚活・コミュニケーションコンサルタントとして活躍中の松尾さんですが、小学校5年生から8年間、児童養護施設で生活されていたそうですね。施設に入った経緯についてお聞かせください。

松尾さん:虐待ですね。母が精神的な病気を患っていて、普段から機嫌が悪くなると暴言を吐かれたり、髪を引っ張られたり、手をあげられることもありました。ある日、母から電気コードで叩かれ家を飛び出し、助けを求めたところ、隣りの家の人が保護してくれました。「さすがにこのまま家に帰らせるのは危ないだろう」と学校に連絡がいったようです。

その日は担任の先生の家にひと晩泊めてもらって、学校から児童相談所に通報がいきました。私の処遇について話し合いが行われた結果、児童相談所で2週間ほど過ごした後、そのまま養護施設に連れられてそこで暮らすことになり、学校も転校することになりました。ただ、私には何も説明がないまま環境が急に変わったので、何がどうなっているのか、混乱や不安が大きかったです。

── ご両親はどうなったのでしょうか。

松尾さん:母は私が施設に入ると同時に精神病院に入院となり、私が養護施設に入っている間は会うことはありませんでした。父は酒とギャンブルの問題を抱えていましたが、ときどき面会に来てくれました。

── 養護施設には何人くらいが暮らしていましたか。

松尾さん:ひとつの建物に、100~200人くらいの子どもがいたと思います。男女別・年齢別に部屋やフロアがわかれている、都内でも最大級のキリスト教系養護施設でした。私はその中の大部屋で、同年代の子たち12人と一緒に暮らすことになったのですが、ひとりっ子で人見知りだった私にとって、突然の集団生活はかなり過酷なものでした。

施設の居心地がよかったかと聞かれると複雑ですが、家に帰りたくても帰れない、居場所を失ったら大変だというのは子ども心に感じていたので、どうにかやり過ごすしかなかったと思います。

ただ、実家がかなり貧しく、しっかりした食事は学校の給食だけだったので、施設のほうが栄養のある食事が常にできました。洋服も、好きなものは買えませんが、きちんと支給されました。

── 子どもながらに自分が置かれた環境を察していたのですね。生活の指導には職員の先生が当たられるのですか。

松尾さん:はい。職員の方々を「シスター」と呼んでいましたが、日常のルールは非常に厳格でした。放課後の寄り道も許されず、駄菓子屋に行くだけでも外出申請が必要なほど。また、シスターは問題行動を起こす子にどうしても目が向くため、私のようなおとなしいタイプは「手のかからない子」として透明人間のように扱われていました。

他の子と比べて、私は先生やシスターとの距離感は少し遠いのかなと感じました。でも新しい環境になじむのに必死だったので、それ以上にもっといい対応をして欲しいと思うことすら私にはワガママすぎる理想だと思ったので、意図的に感じないようにフタをしていたと思います。

いじめからの唯一の逃げ場所は日記の中だけだった

子ども時代は施設も学校も居心地が良い場所ではなかったと語る松尾さん

── 施設内でいじめとかはなかったですか。

松尾さん:残念ながらありました。私のように目立たない子は、気の強い子やリーダー格の子たちの「虫の居所」が悪いと、標的にされやすかったんです。暴言を浴びせられたり、爪で引っかかれたり…。やり返さないとエスカレートするので必死に抵抗もしましたが、状況が収まることはありませんでした。

理由なんてないんです。感情が抑えられない子が多かったし、グレる子がカッコいいような雰囲気が施設内にあったのかもしれません。逆に、悪いことができない子は「勇気のない弱い奴」と認定される雰囲気があって、地味に真面目に生きている私のほうが変なのかなと、ずっと思っていました。

── 学校でのいじめは?施設暮らしだからといって、差別されることはありましたか。

松尾さん:当時、私の通っていた中学校にはこの児童養護施設からたくさんの子が通学していたので、学校側も同級生もそれなりに理解があり、施設暮らしだからといって差別されることはされなかったです。ただ、施設暮らしとは関係なく、私はおとなしかったから学校でもターゲットにされやすいのでしょう。「死ね」と書かれたメモ紙を丸めて投げられるとか、ハードないじめも受けました。

── そうしたツラい状況のなかで、心の拠り所はありましたか。

松尾さん:唯一の心の逃げ場所は日記を書くこと。あるとき施設のボランティアの方にディズニーランドに連れて行っていただき、滅多にない素晴らしい体験・思い出を残したいと思って、鍵付きのノートを購入したのが始まりでした。

日記を書いているときは素直に自分を吐き出せる。鍵を自分で持っていればほかの人に見られることもないので、人に言えないこと、つらいこと、学校の愚痴をいっぱい書いていました。10歳から書き始めた日記は36年経った今もなお続けていて、何十冊にもなります。

また、小学校6年生のとき、施設の吹奏楽部に入ってトランペットを始めたことで、かなりプラス志向になりました。実家も施設も私にとっては地獄でしたが、トランペットを吹いているときは別でした。「ひとつの曲を練習して練習してちゃんと吹けるようになりたい」といった小さな目標ができ、そこに向かってひたすらまっしぐら。夢中になりました。

「高卒で就職すれば」に抱いた違和感「問い」が支えに

── 勉強も熱心にされていたそうですね。

松尾さん:周囲からは「なぜそんなに勉強するの?」と不思議がられました。「施設の子なんだから無理しなくていいよ」という言葉には違和感がありましたし、シスターから「高卒で就職すればいいじゃない」と言われても、「本当にそうなの?」と疑問を抱いていました。施設育ちだからこの程度でいい、という決めつけを受け入れることができず、自分の人生は自分で選びたいと強く思っていたんです。

ただ、すごく虚しさを感じたことはありました。普通の家庭だと成績が上がれば、両親から褒められたり評価されたりするのでしょうが、私は誰にも褒めてもらえない。酷いことをしても誰も怒ってくれない。「それなら生きていても意味ないんじゃないか。このまま車道に飛び出したほうが楽なのかな」と思ったこともあります。なんとか踏みとどまったのは、私がここで死んでも誰も悲しむ人がいないんじゃないかって思ったから。死んでも死に損じゃないかって。だったら生きたほうがいいと思いなおしました。

勉強に精を出したのも、自分の人生を自分で切り開くには進学するしかないと思ったから。だから頑張って勉強をしたんだと思います。

── 幼い頃から常に自分と向き合っていたのですね。

松尾さん:そうだと思います。「私にとっての居場所ってなんだろう」「自分はどうしたいんだろう」と常に自問自答しながら、自分と対話してきました。日記にも、つらいことがあれば「今日もよく乗りきったね」と記し、自分自身に声をかけてきました。親がいなくても、せめて自分だけは自分の味方でいたかったんだと思います。

── そして最終的には大学に見事合格されました。

松尾さん:周りに流されそうになったり、自分が押しつぶされそうになっても、常に「問い」を立てることを辞めなかったことが、人生を切り開くうえで大きな支えになったと思います。

取材:文 岡粼優子 写真:松尾知枝