都庁ストリートピアノ、“演奏者の苦言”がSNSで炎上。なぜトラブルなくならない?日本人に欠けている感覚とは
◆演奏を邪魔されたと訴える投稿に賛否
きっかけは、あるXユーザー男性による投稿です。投稿内容だけでは一連の経緯や詳しい事実関係は確認できませんが、男性は都庁のストリートピアノ「都庁おもいでピアノ」を演奏した際、ピアノのそばで大声を出す集団に我慢がならず、目線を投げかけたと訴えています。演奏の妨げになるほどの声量で、都庁の職員も注意するほどだったそう。
こうした反応を見ていると、それぞれの許容量によって認識が変わる、非常に繊細な問題であることがうかがえます。
投稿主の義憤も理解できるし、それも含めて「ストリートだろう」という反論にも一理ある。
◆加古川では“ガンガン演奏”、南港では“練習”が問題に
これまでにもストリートピアノをめぐっては大きなニュースになってきました。2023年、兵庫県のJR加古川駅では長時間の占有や大音量での演奏などルール違反が絶えず、わずか半年でピアノが撤去された。2025年には大阪市の大型商業施設内に設置された「南港ストリートピアノ」で、運営側が「練習は家でしてほしい」と利用者に注意喚起したことがSNSで物議を醸し、最終的に撤去される事態に。そして、都庁でのトラブルがここに加わった格好です。
こうしてまとめると、そこには共通点があることがわかります。それは、ストリートピアノと公共性の問題です。さまざまな価値観を持つ人たちが集まる場において、それぞれがそれなりに納得できる作法やプロトコルが、日本にはあるのかどうか。果たして、日本人はパブリックスペースを有効に活用し、そこで見知らぬ他者との交流を自然に楽しめる感性を持ち合わせているのだろうか、という問題です。
たとえば、加古川のケースでは、独りよがりな演奏が問題になりました。「ピアノをガンガンと叩きつけるように弾いていてうるさい」「不快な音を奏でる人がいる」といった苦情が寄せられたといい、背景には近年増えている、派手な演奏で人目を引く「弾いてみた」系のピアノYouTuberの存在を指摘する声もあります。
これとは逆に、南港の場合には、人に聞かせる以前の練習をしにくる人たちによる、曲として成立していない雑音がきっかけとなりました。
◆上手くても下手でも「自己完結」?日本のストリートピアノに欠けているもの
腕自慢と未熟さ。一見すると両者は真逆に思われますが、いずれも他者の目が存在していないことは同じです。技術を見せびらかすのも、納得いくまで練習したいのも、根底にあるのは、公共の場をどうとらえるかという視点の不在だからです。
だから日本のストリートピアノには見知らぬ他者との意外な交流が生むグルーヴが皆無なのです。
上手かろうが下手だろうが、自己完結の世界。自宅で弾いているのと何ら変わらないのに、わざわざ出掛けてきているような不自然さが漂うのです。
では、今回の都庁のケースはどうでしょう。投稿主の演奏する動画からは、彼が真剣にピアノに向き合っていることが伝わってきます。そこには、アマチュアだからこそ大事にする神聖さがある。
筆者は、そのように音楽に接することは尊いと思うし、そうした市民が増えることは社会的安全のセーフティーネットとなり得るとも考えます。
一方で、それもひとつの価値観に過ぎないという視点を失ってはいけません。みんながみんな、ストリートピアノの演奏を黙って見守ることを前提にしてしまえば、それがいかに美しい理念であっても、傲慢になってしまうからです。
◆「それがストリートなのでは?」都庁の騒動から考えること
もっとも、都庁の職員が雑談の声量に注意したと書かれているもののそれが意図して演奏の邪魔を目的としたものだったと断定するのは難しい。
自分が演奏するときは必ずおしゃべりされるというのならばわかりますが、たまたまそういう人たちと遭遇してしまうことだってあるでしょう。それがストリートなのではないか。
そう考えたときに、公共の場で自分の納得いかない環境で演奏ができなかったと不服を訴えることは、果たして正当なことなのかという疑問も浮かんできます。
簡単にいうと、お互い様という観念のないところに、公共性はあり得るのかという話なのです。
それは、ピアノの上手い下手以上に、もっと大切な心掛けなのではないでしょうか。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4

