2021年に開催された東京パラリンピックにおいて、パラサイクリング女子個人ロードレースで金メダルを獲得した杉浦佳子さん。趣味で始めたロードレースで大事故に遭い、一時は深刻な脳損傷を負いました。「もう薬剤師には戻れません」と医師に宣告されるも「絶対に戻る」と決意したという杉浦さんには、並々ならぬ思いがありました。

【写真】障害をまったく感じさせない現在55歳の杉浦さんの艶やかな着物姿 ほか(全11枚)

体型崩れを指摘されマラソンを始めたら才能が開花

── 薬剤師として調剤薬局に勤務するかたわら、20代後半にマラソン、30代後半にトライアスロン、40代で自転車のロードレースを始められたそうですね。

子育てをしながら調剤薬局で勤務していた35歳ごろの杉浦さん

杉浦さん:子どもが小学校に入学して自分の時間が少し作れるようになった20代後半、夫から「体型が崩れてきたんじゃない?」と指摘されたのが最初のきっかけでした。自分でも気になり始めて、休みの日にスポーツジムに通うようになったんです。あるとき、そのジムで「フルマラソンに参加しませんか?」というポスターを見かけて。「これって普通の人でもできるんですか?」ってジムの方に聞いたら「誰でも練習をすれば参加できますよ」って言うんです。それで、20代最後の記念に出場してみようと思いました。

── いきなりフルマラソンに挑戦しようと考えられたことがまず驚きです。

杉浦さん:トレーニングは29歳から始めました。30歳になる3週間前にレースに出てフルマラソンをどうにか完走できて、ものすごい達成感がありました。元々目標を掲げて達成するのが好きなタイプだったから、30代はもっとすごいことがやりたいと考えて。近所にできた自転車ショップで初めてトライアスロンバイクを見てひと目惚れし、次はこれをやろうと思いつきました。

ちょうど第2子を出産したあとだったので、育児をしながら合間にトレーニングをして。宮古島トライアスロンに出たいと目標を設定しました。最初に水泳を3キロ、次にバイクで157キロ、最後にマラソンで42.195キロ。フルマラソンは完走したことがあったので、あとは水泳とバイクができれば出られると単純に考えたんです。

── 有言実行で、38歳で初めてトライアスロンに出場されたそうですね。

杉浦さん:完走できたときは本当に感動しました。フルマラソンを完走したとき以上に達成感がありました。夜に花火が上がるなかをゴールするんです。『あと少し頑張ろう』って知らない人同士、声をかけ合って頑張る。それがすごく楽しくて。30代のいい記念になったので、40代でも何か大きな目標に挑戦したいと考えていたとき、自転車競技をやっている実業団から声がかかって。たまたまいくつかのトライアスロンのレースに出場していたのが目にとまったようでした。

40代で始めたロードレースで大事故、重度の脳損傷を

── 普通の会社員だったのに、趣味で始めた自転車でそこまでステップアップされるとは。ものすごい才能ですね。ところが、そのロードレース中に事故に遭われたと…。

杉浦さん:当時は『アイアンマンレース』というトライアスロンの世界選手権への出場を目標にしていました。フルタイムで働きながら、競技の練習もしていたので、効率よく練習するメニューをマネージャーに作ってもらっていて、その練習の一環で出場したロードレースで、事故に遭いました。

そのときの記憶はまったくないんです。当時の状況を目撃した方によると、下り坂を集団で走行中に、突然、吹っ飛んでいったそうで。下り坂なので50~60キロのスピードは出ていたと思います。頭から落下したようですが、気づいたら病院のベッドの上でした。

── 事故の瞬間は覚えていないほど、強い衝撃だったのでしょうね…。

杉浦さん:頭から地面に激突し、重度の脳損傷を負いました。しかも、事故の後遺症で、右半身にまひが残り、高次脳機能障害も併発してしまって。私は特に記憶と言語に異常が出て、10分しか記憶が継続しない状態が続きました。主治医の先生には「初めまして」と毎日のように言っていたそうです。

当時は病院から渡されたノートに、その日あったことを書き留めることを習慣にしていて。あとで読み返したら「友達の名前を思い出したって先生に言ったら『それは明日には忘れちゃうんですよ』と言われた」などと書いていました。しばらくは書き留めていたことを読み直してもすぐに思い出せない状態でしたが、「こんなことがあったんだな」とノートを読んで毎日振り返っていたようです。

── それはきっと不安だったでしょうね…。入院生活はどれくらい続いたのですか?

杉浦さん:病院側が想定していたより回復が早かったようで、2か月で退院しました。でも最初は「退院ができないし、これまでと同じように日常生活を送るのは難しいかもしれない。薬剤師には戻れないだろう」と告げられていました。ケガの具合はそれくらい深刻で、いったんリハビリ専門病院に入院した後は、自宅ではなく別の施設に移ることになっていたそうで。リハビリ専門病院は車いすの準備もしてくれていたんです。

歩けないのに立ち上がり「仕事に行かなくちゃ」と

── 車いすが必要なほどの後遺症を負ったとなれば、自宅に帰るのもだいぶ時間がかかったのでは。

杉浦さん:それが、リハビリ病院を退院したあとは普通に家に戻れました。私、歩いたんですよ。車いすが用意されていたのに。病院の先生たちもびっくりしていました。最初の病院では車いすがないと動けないくらいの状況だったのに、勝手にベッドから立ち上がって歩こうとしては転んでいたと後で聞きました。危ないからベッドに拘束せざるを得なかったみたいです。それでも「仕事に行かなくちゃ」と言って拘束を自分で外して外に出ようとしたり…周囲の人にはたくさん心配と迷惑をかけました。

── どうしても「仕事に戻りたい」という気持ちが強かったのでしょうか。

杉浦さん:そうだと思います。「薬剤師には戻れない」と医師に言われたときの記憶はないけれど、「いや、戻ります」と言ったと思うし、実際「戻ろう」と思っていたはずです。

もともと私は、大学1年で妊娠し出産を決意したため、1年たらずで大学を中退した経験があります。大学で学び直して資格を取ることを目標に、子育てと大学生活を必死に両立した末、国家試験に合格し、薬剤師になりました。このときにがむしゃらに勉強して掴んだ資格を簡単には手放せない気持ちが、記憶障害になってもどこかにずっとあったのかもしれません。私にとって、学んで知識を得るということは、人生を切り開くために何より必要なもの。だから、この状況も克服できたのかなという気がします。

最初は10分程度しかもたなかった記憶も取り戻そうと、赤ちゃんが読むような絵本を使って、1個1個の単語を言語聴覚士さんに教えてもらうことから始めて。あとは漢字ドリルや計算ドリルを解き続けました。それが一つひとつできるようになっていくのが嬉しかった。薬剤師の勉強も趣味の自転車もそうですが、できることが増えていく達成感が、私にとっては何よりのご褒美なんですよね。結局、退院前に知能テストを受けたら、IQがすごく高くなっていて。担当医から「薬剤師にも戻れますね」と太鼓判を押されたときは本当に嬉しかったです。

「2026 全日本自転車競技選手権大会 トラック・レース(パラサイクリング)」での杉浦さん。2024年、パラリンピック金メダル獲得以後も、挑戦し続けている

── にわかには信じがたいほどの、ものすごい回復力だと思います。

杉浦さん:今でも、初めて私の脳のCT画像を見た脳外科の医師は「杉浦さん、お話しできますか?私が言っていることがわかりますか?」って、まるで幼子に話しかけるように接してくるんです。パラスポーツ大会に出場する際は、障がい者かどうかを判断するための診察が必要なのですが、そこでCTやMRIを見た医師からも「この状態で自転車に乗れるの!?」と驚かれます。だから、今も脳は確実に損傷している状態なのだと思います。

── 今お話をお聞きしていても、まったく違和感はないです。すべて杉浦さんの努力の成果なのですね。現在の記憶力は、どのような状況なのでしょうか?

杉浦さん:徐々に長期記憶が普通レベルに戻りつつあります。数年前のことは、日記を読み返すと思い出せるくらいになっています。私は実質、認知症の状態から回復した例と言えるんじゃないかと思います。

そんな私がみなさんにお伝えしたいのが、記憶障害があって具体的な状況の記憶は残っていないとしても、つらいとか悲しいという感情は消えずに残っている、ということです。何があってどんな気持ちになったのか、全部忘れてしまうわけではない。そういう意味では、普通の人間のままなんです。それを忘れないで接してほしいと思います。

でもきっと、世の中には認知症患者との接し方がわからず困っている家族は多いでしょう。だからこれからは、そういった方々に認知症患者の方への接し方を伝えていけたらと思っています。自分が記憶障害になった経験を認知症を患っている方の家族に共有して、少しでも役に立てたら嬉しいです。

取材・文:池守りぜね 写真:杉浦佳子