東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

静かなバー。賑やかなバー。大規模なバーに、隠れ家のようなバー。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。




Vol.1 <ネグローニ> 小松早紀子(22)の場合


例年にないほどの暖かな春とはいっても、やはり夜は少し冷え込む。

手持ちのワードローブのなかで一番大人っぽいブラックのワンピース。

そのワンピースから剥き出しになっている二の腕をさすったあと、早紀子はバッグからスマホを取り出し、食い入るようにして画面を見つめた。

「えーっと…身だしなみは、大丈夫なはず。会話の声は静かに。席は勝手に座っちゃだめでしょ。それから、ボトルやグラスにはむやみに触らない…」

水曜日の20時。

いつもであれば、仕事を済ませてすぐに帰宅し、Netflixで映画を見ながらダラダラと過ごしている時間だ。

けれど今夜の早紀子は、三軒茶屋の路上でスマホを見ながら立ち尽くしている。

目の前にあるのは、バーの扉だ。

内向的な性格で、趣味は映画鑑賞という生粋のインドア派である早紀子にとっては、「東京のバー」なんてものは、その字面を見ただけで気後れしてしまう。

けれど、スマホの画面に映し出された『初めてバーに行く人ガイド』を何度も繰り返し読みながら、早紀子はゴクリと唾を飲み込む。

そして、ついこの前の金曜日に起きた苦い体験を思い起こす。

― 私、今夜は絶対に、ひとりバーデビューするんだ…!




「えー!小松さん、クラブ行ったことないんだ?」

「うん。私、映画とか好きなインドア派で…」

「でも、長野にだってクラブぐらいあるでしょ?あ、わかった。クラブじゃなくてバーとかの方が好き?」

「えっと…バーも行ったことないかも。居酒屋とか、ファミレスには行ってたけど」

「え〜うける!小松さん、高校生みたいでなんかかわいいねー」

信州大学を卒業し、メガバンクへの就職を機に上京してひと月。

大勢いる同期たちとは金曜日が来るたびに飲みに行く流れになるものの、毎回毎回、早紀子は圧倒されてばかりだ。

― クラブにバーかぁ、みんな大人っぽいなぁ。

東京で華やかな大学時代を過ごした同期たちは、信州大の農学部で研究に明け暮れていた早紀子とは違い、飲みに行く場所ひとつとってもあか抜けている。

いや、それだけではない。見た目も、仕草も、交友関係も、早紀子はまだどこか東京に馴染めずにいる。

そして先週の金曜。同じ部署の同期数人がシーシャバーに行くという会に、早紀子は声をかけてもらえなかった。






― シーシャバーにひとりで行くのはちょっとハードル高いけど、近所にあるバーになら、行ってみてもいいのかなぁ…。

少なからずショックを受けたその日から数日、早紀子はそんなふうに思いながら、小さなバーの看板をチラチラと横目で見る日々を過ごしてきた。

三軒茶屋の駅から一人暮らしをしているマンションの途中にある、落ち着いた雰囲気のバーだ。

そしてついに今日。早紀子はこうして、そのバーの前に立っている。

綿密に下調べをしたうえで。仕事を終えたあとにわざわざ一度帰宅して、スーツからワンピースへと着替えを済ませて。

― どうしよう。初めてのバー、ドキドキするけど…。でも、私も早くみんなみたいな大人の女性になりたい。

早紀子は小さく「よしっ」と気合を入れると、高鳴る胸を抑えながら深呼吸をし、真鍮のひんやりとしたドアノブに手をかける。

そしてずっしりと重たいドアを押し開くと、早紀子の目の前に広がっていたのは──思い描いていた“バー”のイメージどおり、薄明かりに照らされた、シンプルで洗練された空間なのだった。

― うわぁ、素敵。

モダンなデザインの照明。小さく流れる、心地よいコンテンポラリージャズ。

木製でありながらグラスを反射するほど艶めいたカウンターには、おそらく早紀子とそう年の離れていない男性が、ひとり静かにロックグラスを傾けている。

「いらっしゃいませ」

雰囲気にのまれて腰が引けそうな早紀子に対し、カウンターの中に立つ小柄で若い男性バーテンダーが穏やかに声をかける。

促されるままにカウンターの中ほどに腰を下ろした早紀子は、ドキドキとした期待に胸を膨らませながら、確信した。

― こういう大人っぽいバーで、ひとりでお酒を飲めるようになれば…オトナの女性として一人前になれるはず…!




「何にいたしましょうか?」

ソワソワと浮き足立っていることを気取られないようにしている早紀子に、バーテンダーが声をかける。

「あ、えーっと…」

早紀子は決してお酒に弱いわけではない。友人と通った気軽なダイニングバーや居酒屋では、むしろ他の女子よりもペース良く飲んでいた方だ。

けれど、来たこともないカウンターのバーとなると、一体何を頼んでいいのか見当もつかない。

そこで早紀子は、マナーや服装と合わせて事前にしっかりと調べておいた渾身の“オトナ”な一杯を、虚勢を張りながら注文するのだった。

「ウォッカ・マティーニを。ステアせずシェイクで!」

― よし、上手に言えた!

ウォッカ・マティーニを。ステアせずシェイクで。

3桁の数字をコードネームに持つ世界一有名なスパイが注文するこの一杯は、映画が好きな早紀子が調べた限りでは、バーにおいてもっともスマートな注文のはずだった。

けれど、鼻息荒く早紀子が注文を済ませた、その瞬間。

カウンターにもうひとりいたあの男性客が、こらえきれない様子でグラスのウイスキーを吹き出してしまうのだった。


「ちょ…お姉さん、MI6のスパイなの?」

「え?へ、変ですか?」

「いや、全然変じゃないよ。映画好きだから、カッコ良くてビックリしちゃって。急に笑っちゃってごめんね」

そう弁明する男性の笑顔に、嘲笑のニュアンスはない。

けれど早紀子は、渾身の注文がどうやら適切ではなかったことを知り、顔を真っ赤にしてうつむく。

― やだ。私、変な注文しちゃったんだ。どうしよう。やっぱりバーなんて、今の私には似合わなかったんだ…!




「すみません…私、バーは初めてて。何を頼んだらいいかわからなくて…」

身を縮めながらボソボソと呟く早紀子は、恥ずかしさのあまり店から駆け出してしまいたい衝動に駆られる。

けれど、そんな早紀子にバーテンダーがかけたのは、まるで何事もなかったかのように飄々としていながらも優しい声だった。

「バーは初めてなんですね。そんなに緊張しなくて大丈夫。本当にウォッカ・マティーニがお好きならお作りしますけど、お客様のお好みを教えていただくおまかせでもいいんですよ。

バーにはいろんな一杯がありますからね。マティーニのほかにも」

「そうなんですか?じゃあ、お任せでお願いします」

バーテンダーの一言に救われた早紀子は、頬を真っ赤に染めたまま、たどたどしく好みを伝えた。

お酒には比較的強いこと。サッパリしていながらも甘めのものが飲みたいこと。

そして何より、バーという背伸びした場所で、はじめの一杯として注文するのに恥ずかしくないものを知りたいこと…。

「わかりました。では、こんなのはいかがでしょう?<ネグローニ>でございます」




程なくして早紀子の前に出されたのは、バカラのロックグラスに満たされた、真っ赤なカクテルだった。

まるで夜の東京タワーのような、美しい赤色。

「わ、綺麗…!」

「ネグローニは、カンパリとベルモット、ドライジンを使ったカクテルで、世界中で最も飲まれている人気の一杯です。

どんなバーに行っても、ネグローニなら絶対に笑われることはありませんよ。…そもそも、人の注文を笑う方が100%マナー違反ですけどね。翔平さん?」

バーテンダーはそう言って、先ほどのマティーニを笑った男性をジロリと睨む。

翔平と呼ばれた男性は心から申し訳なさそうに、何度も早紀子に向かって頭を下げるのだった。

恐縮しながらも翔平からの謝罪を受け入れた早紀子は、ネグローニのグラスを恐る恐る手に取る。

「いただきます」

そっと唇に近づけると、ふわっとオレンジの爽やかな香りが早紀子の鼻をくすぐった。

ドライでありながらも甘くほろ苦く奥深い複雑な味わいが、舌を滑り落ち体の中心へと流れ込む。

その言い得ない美味しさに、思わず早紀子はうわずった声を上げた。

「おいしい!私これ、絶対おかわりします」

初めて口にする本格的なカクテルに感動した早紀子は、焦りに駆られてグビグビとグラスを傾ける。

ネグローニが美味しかったことはもちろんだが、この5日間バイブルよろしく熟読してきた『初めてバーに行く人ガイド』には、「バーに失礼なので、必ず2〜3杯は頼むこと」とあったからだ。

明日も出社を控えているため、もしも3杯頼むのならばペースを上げなければいけない。

けれどそんな早紀子の焦りを見抜いてか、バーテンダーはまたしても柔らかな口調で早紀子を落ち着かせるのだった。

「ゆっくり飲んでいただいて大丈夫ですよ。ネグローニは、ロングカクテルです。

ロングカクテルの“ロング”は、グラスの長さではなく時間の長さ。グラスに氷が入ってるでしょう?しばらく冷たいままなので、焦らず時間をかけて味わってください。

もちろん、ご注文は1杯だけでも大丈夫ですからね」

「そうなんですか…」

早紀子は、宝石のようなネグローニのグラスを改めてゆっくりと傾ける。

26度と強めのアルコールが、時間をかけて早紀子の心をほどいていく。

まだ慣れない仕事。どこか馴染めない同僚。

東京に来てから知らないうちに感じていた焦りが、だんだんと消えていくような気がした。

気がつけば、先ほどまで肌寒さを感じていた体が、ほんのりと温かい。

ほろ酔いの心地よさに身を任せた早紀子はふと、つい先ほどまで緊張でガチガチになっていた自分を思い返す。

― そっか、わかった気がする。バーって、忙しい毎日の中で、本当の自分自身に向き合える場所なんだ。

ゆったりとした時間を楽しむ早紀子だったが、深呼吸のようにネグローニの柑橘の香りを深く吸い込んだ拍子に、ふと気配を感じた。

視線をあげると、先ほどの翔平がこちらを見ている。

しばらく視線が絡んだあと、翔平はおずおずと声をかけてきた。

「あの…さっきは本当に失礼しちゃって、ごめんなさい。良かったらそれ、ご馳走させてください」

「そんな、いいんです!あの、映画お好きっておっしゃってましたよね?実は私も映画が好きで…」

ぽつぽつと行き交う会話が熱を帯びて、ネグローニの氷を溶かしていく。

バーの心地よい雰囲気の中、早紀子は思うのだった。

― それから、バーってもしかしたら…。新しい自分に出会える場所でもあるのかも…?

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