麻布には麻布台ヒルズ。銀座には、東急プラザ銀座…。

東京を彩る様々な街は、それぞれその街を象徴する場所がある。

洗練されたビルや流行の店、心癒やされる憩いの場から生み出される、街の魅力。

これは、そんな街に集う大人の男女のストーリー。

▶前回:「結婚はムリかも…」34歳女が、6年付き合った年収4,000万の外銀男との別れを決断したワケ




Vol.13 『必要のない人/東急プラザ銀座』孝一(38歳)


『アカリちゃん、来週ここでご飯どうかな』

残業を終えて丸の内のオフィスを出た孝一は、すぐにスマホを取り出し、LINEでアカリに来週のデート先を提案した。

自宅へと帰るタクシーに乗り込み、ソワソワしながら返事を待つ。

こんな気持ちになるのは、一体いつぶりのことだろうか…。少なくとも、同棲中の彼女・直子とはしばらく共有していない感情だ。

アカリにデートの店として提案したのは、東急プラザ銀座にあるモダンギリシャレストラン『THE APOLLO』だ。

― 味も雰囲気もグルメな同僚のお墨付き。アカリの職場からも近いし、銀座なら二軒目の選択肢も豊富だろう…。

レストランの提案は、いつもドキドキしてしまう。食事の美味しさはもちろん、どこかにサプライズがあって、思わず笑顔になれるような店にアカリを連れていきたい。

及第点はNG。毎回のデートで満点を更新しにいかなくては…。そんな気持ちが根底にある。

なにせ38歳の孝一は、アカリより15歳も年上なのだ。

昨年の秋、孝一は早稲田大学の金融セミナーにOBゲストスピーカーとして呼ばれた。そこで出会ったのが、セミナー事務局を務めていたアカリだ。

新卒・OG1期目として司会進行を任されていたアカリに当日挨拶をされ、ここ数年触れていなかった真摯さ、初々しさがとても鮮やかに感じた。

セミナーの翌朝、渡した名刺を見たアカリからお礼のメールがあったのは、事務局のアカリからしたら当然のマナーだろう。

しかし孝一の方は、シンプルにもう一度アカリに会ってみたかった。

そしてよく考えもせず、社交辞令半分・期待半分で「よかったら今度食事でも行きましょう」などと返信をしたのだ。

― それがまさか、こんなふうに週一で会う仲になるなんて…。


翌週の金曜日。18時半ぴったりに孝一が『THE APOLLO』へ到着すると、アカリがすでに着席している。

「孝一さん!今日はお誘いありがとうございます。ここ前から気になってて…素敵ですね」

「よかった。おしゃれな店だよね。うちの会社欧米人が結構いるんだけど、地中海料理ってヘルシーなイメージでみんな好きらしくて。何人かに勧められたんだ」

「グリークパイにムサカ…ハムスもある!私、ハムスを『CICADA』で食べてから大好きなんです。嬉しいな〜」

瞳を輝かせながら喜ぶアカリの様子に、孝一の自尊心が満たされていく。

美しい料理のプレゼンテーションに小さく歓声をあげ、めずらしい料理の登場に好奇心に満ちた表情を見せる彼女に、年甲斐もなく惹かれてしまう。

― あぁ。このままずっと、アカリを失いたくない…!




バツイチの孝一は4歳年下の直子と6年交際を続けており、現在同棲中の身だ。

ここ数年、直子からの結婚に向けた圧は強くなり、同棲を始めてからはより顕著になっていた。

帰宅して寝るまでの間や、たまの休日。直子と顔を合わせていると、何の話をしていようと、いつのまにか将来設計の話に持っていかれてしまう。

ゆっくり休みたい時ですら「将来、将来」と急かしてくる直子に対し、孝一は苦々しい想いを抱き始めているのだった。

前妻との間に子どもはいないし、互いの両親にも何度か会っている。

直子と結婚しない理由は、これといって見当たらない。その気になれば明日にでも籍を入れることは可能だ。

― でも俺はもう、結婚そのものに興味がないんだよなぁ…。

結婚生活が死ぬまで順調ならいい。でも、またうまくいかなくなったら?

籍を入れて、相手の家族ごと人生を背負って、抑圧の中でじりじりと心をすり減らせ、しまいには弁護士まで立てて縁を切る…。そんな面倒なことを、二度としたくないのだ。

「今の生活が幸せ」

その一言を免罪符にして、孝一は結婚をせがむ直子から逃げ続けている。

そんなタイミングで孝一の前に現れたのが、アカリだった。

6年も一緒にいる直子と比べるのは酷だとわかっている。でも孝一は、自分の行動や言葉ひとつひとつに新鮮で瑞々しい反応をしてくれるアカリが、可愛くて仕方ない。

― 直子の存在について、アカリには一切言っていない。この楽しい関係に水を注したくないし、アカリには関係のないことだ。

そんなことを考えている間に、メインのラムショルダーを食べ終え、赤ワインが1本空いた。アカリはもうほろ酔いの様子だ。

「アカリちゃん。下の階に『GRANNY SMITH』があるから寄ってみない?前に世田谷公園の近くで見かけたアップルパイのお店」

「あの可愛らしいお店!かなり並んでましたね」

「銀座の店舗は穴場みたいで。覗いてみようよ」

会計を済ませて地下1階まで降りると、カフェ入り口のショーケースに美味しそうなパイが並んでいる。

「どれも美味しそうですね…」

「そうだね。気になるの、全部買っちゃおうか。余った分は明日のアカリちゃんのおやつに」

そう言って孝一がオーダーしたアップルパイの包みを、アカリが受け取る。

ずっしりとした重みを感じるアップルパイの袋をぶら下げて、ふたりは親密な視線を交わした。




食事のあと、まだアカリが飲めそうなら二軒目に行く。もう満足な様子であれば、デザートを買って、ふたりきりでゆっくりする。

いつしかこの流れが、ふたりの定番となっていた。

アップルパイを持っていない方の手で、孝一はアカリの手に触れる。すると今まで絶妙な距離をとっていたアカリが、安心したように孝一の手を握り返す。

そんなふうにして東京の夜景に溶け込んでしまうと孝一は、自分には「直子」という帰るべき場所があることを、すっかり忘れてしまうのだった。




しかしそんな日々は、長くは続かなかった。ある日突然、アカリからのLINEが途絶えたのだ。

いつもと何ら変わらない、孝一からのレストランの提案。だがそのメッセージは、既読にもならなかった。

レストランが及第点以下だったのか?と思い『食べたいものはある?』と聞いてみたが、反応はない。

その後に送った、誕生日祝いや新年度の多忙を気遣うメッセージも虚しく、最後のデートから数ヶ月経った今、画面には緑色の吹き出しばかりが並んでいる。

― 俺は何を失敗したんだろう。もう、アカリの笑顔を見ることはできないのか…?

アカリが去り、色褪せた日常に引き戻された孝一がぼんやりとSNSを眺めていると、おすすめから思わぬ写真が目に入ってくる。

「アカリ…?」




『ついに新拠点、ドバイの地へ!ここまであっという間だったなぁ〜』

林立する超高層ビルを背景に、浜辺に立つ女性。それは確かにアカリだ。

連絡の取れなかった数ヶ月の間に、なんとアカリはドバイへ移住を決めていたのだった。

― どういうことだ?なんでアカリは、何の連絡も相談もしてくれなかったんだ?

気になった孝一は、食い入るようにしてキャプションを読み進める。

『ずっと夢だった、CA生活が始まります。大好きな東京の街を離れることに、後ろ髪を引かれる想いもありましたが…ある出来事が背中を押しました』

― ある出来事…?

そして、次の一文に孝一は衝撃を受けた。

『前職の旅行会社での勤務中に、たまたま当時好きだった人のハネムーンの予約記録を見つけてしまって…。何も知らなかったとはいえ、道から外れるようなことをしてしまっていたことに気づき、落ち込みました』

― これってまさか…俺と直子のカンクン旅行のことだろうか。

はっきりと誰とは書いていないし、直子との旅行はハネムーンではない。そもそもこんな偶然、そうそうあるわけはないのだ。

俺はうまくやっていた。バレるわけがない。孝一の頭は、そんな想いでいっぱいになる。

しかし、アカリが自分以外の男と親密にしている気配は一切なかった。

さらに言えば、恋人同士のカンクン旅行を直子がハネムーンとして予約した可能性だってありうる。だが…そんなことはわからない。

それだけ最近の孝一は、直子に無関心だったのだ。

アカリの言葉は、次のように続いていた。

『彼の面影をそこかしこに感じる東京の街から、離れたい。誰も私のことを知らない街で。自分のための人生を生きたい。

そういった決意と、幼い頃からのCAへの憧れ。そして、旅行・サービス業での経験が身を結びました。心機一転、がんばります!』




なぜアカリが一切の連絡を断ち、自分のもとを去ったのか。その真相はわからない。

しかし、アカリからの連絡が途絶えたタイミングと、その理由を考えてみればみるほど…。

この文面は、孝一のことを指していると考えるのが自然だった。

「…アカリ、幸せそうだな」

ドバイにいるアカリの弾けるような笑顔に孝一は、アカリの人生に自分は不要、と言い渡されたような気がした。

暗い気分を紛らわそうと、ウイスキーを取りに立ち上がる。

すると、落ち込んだ自分の気持ちが反映されているのだろうか。慣れ親しんだ自分の家が、寂しい印象を持っているようにふと感じた。

― そういえば、直子…この時間に帰ってないんだ。

孝一自身は夜に不在にすることが多かったものの、直子も家にいない今の状況は予想外だった。いつもの直子ならば、この時間は家で孝一の帰りを待ってくれている。

― 酒も控えていると言っていたのに、どこに出かけてるんだ…?

そう訝しがったのを見計らったように、孝一のスマホが着信を告げた。画面には、「直子」の名前が煌々と光っている。

「もしもし、直子。どこにいるの」

慌てて電話に出ると、聞こえてきたのは妙に明るい直子の声だった。なにか吹っ切れたような、サバサバとした声。

「あれ?孝一、今家なの?めずらしいね。てっきりまだ残業中かと…。本当は直接話したかったけど、全然会えないからせめて電話で」

「何…あらたまって」

孝一の背筋に、ヒヤリと嫌な予感が走る。

「あのね、カンクン旅行キャンセルした。あと新しい家も見つけたから。私、来月には引っ越すね」

「え、ちょっと…どういうこと」

「だって、もう私たち一緒にいる意味ないじゃない。同じ将来を見ることができない、物理的に時間を共にすることもない、向き合うこともできない」

「ごめん、待って。一度話そう」

「何度も話そうとしたよ、この6年間。十分待った。孝一はとっくにそうだったのかもしれないけど、私にももう孝一は必要ないってわかったから…別れよう」

あとは家で話そう、と言って、直子の電話は切れた。

直子との通話の画面が消えた今。スマホの画面には、たった今見ていたアカリの笑顔の写真が、再び浮かび上がるのだった。

目の前の誘惑…アカリとの逢瀬と引き換えに、長年自分を必要としてくれていた直子をも失った。

― 直子も、こんな笑顔を俺のいないところで見せているのかな。

思い起こせば、直子との初デートは東急プラザ銀座だった。まだオープンしたばかりの話題の場所へ、直子を誘ったのだ。

日本初上陸のショップや緑たっぷりの屋上庭園。銀座の新ランドマークを舞台に、膨らむ新たな恋への期待…。

一日中、孝一と直子は笑い合っていた。

しかし…直子はどんな顔で笑っていた?

直子の笑顔だけが、どうしても思い出せない。

― 俺はいつから、直子の笑顔を見ていないんだろう。

直子の帰りを待つ夜。孝一はただ、自分の浅はかさを悔やむのだった。

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