「30過ぎてまで、何やってるの?」と、時に人は言う。

東京における平均初婚年齢30.5歳を境にして、身を固める女性が多い一方で、どうしようもない恋愛から抜け出せない人がいるのも事実。

他人には言えない心の葛藤、男女の関係――。

30歳を過ぎた。でも私は、やめられない。

少し痛いけれど、これが東京で生きる女のリアルなのだから。

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Vol.8 ゆり子、31歳。自分より低収入の男が好き。


「ただいま〜!」

土曜日の16時。

昨夜はアンダーズ東京でホテル女子会をして、今日はその帰り。

ヒルトップバーで初々しく仲良く微笑んでいる男女を見て、私も少し彼氏のことが恋しくなった。

私は、乱暴にパンプスを脱ぎ、洗面所へ直行する。

「おかえり、ゆり子ちゃん。雨降りそうだったから洗濯物とりこんでおいたよ」

半同棲している彼氏のトオルが、玄関の鍵を閉めながら言った。

「うん。ありがと」
「あと、シンクと洗面台を磨いておいた。だめだよ、もっと綺麗にしとかなきゃ」

私はトオルの言葉をスルーして、部屋着に着替える。

美容スチーマーの電源を入れ、丁寧にメイクを落とした。

トオルの言葉は華麗に無視したものの、自分の家じゃないのに掃除をし彼女のためにゴハンを作ってくれる、とても有能な彼氏だ。

「ゆり子ちゃん、夕飯何食べたい?」

リビングに戻るとトオルが私に尋ねた。

「昨日も今日も食べすぎたからまだお腹すいてない。それより疲れたからマッサージして?」

私は、ヨガマットを床に敷いて仰向けになった。

「…わかったよ」
「強めでお願いね〜」

トオルはいつも、進んでマッサージをしてくれる。

これは、決して言葉にはしないが、私が密かに楽しみにしている恋人とのスキンシップの時間だ。

だからこの時、彼のかすかなため息が私には聞こえなかった。


歯科医師をしている私とトオルが出会ったのは、8ヶ月前。

私の職場である新宿のクリニックに、患者として来たのだ。

トオルはオフィスホワイトニングを希望していたが、口の中をみると虫歯が10本もあり、呆れたのを覚えている。

デートに誘われたのは、虫歯の治療が終わった日だった。




彼の職業は知らなかったが、身なりや持ち物からそんなにお金はないことが予想できた。

だから、私はその告白を了承した。

もし、お金がある人なら即断っていただろう。

私は低収入の男性としか付き合いたくない。

そもそもそういう男しか好きになれず、社会人になってからの彼氏はみんな、年収が650万円以下だ。

その方が男は調子に乗らないし、お金があるのにケチなところを見つけてしまってイラつくこともない。

私を女王様のように扱ってくれることもクセになっていた。

私は本業の歯科医師の他に不動産投資のリターンがあり、お金にはそれなりに余裕がある。

自分で稼ぐのは気持ちがいい。好きなように使えるし、相手の顔色をうかがう必要がないから。

だから、世の中のお金目当ての女性を見ると恥ずかしくなるのだ。

男に養ってもらう代わりに、あなたは何を提供できているの?と。

「はい、マッサージおわり!じゃあ、僕お風呂入ってくるね」
「ちょっと待って。私もまだ入ってないのよ。半身浴してくるから、その間にごはん作っておいて」
「…うん。わかった」




彼には食費として毎月15万円渡している。家事もやってくれるから、多めに支払っているつもりだ。

しかも私の住む晴海のタワーマンションに、週の半分は寝泊まりできる。

だから、私の多少のワガママは許されるべきなのだ。

私がお風呂から上がると、テーブルの上には綺麗に料理が並んでいた。

「わぁ、おいしそ〜!ワイン開けちゃおっと。トオルも飲む?」
「ううん、僕はいいや」

トオルの作ったビーフシチューは本当に美味しくて、私は目をつぶり、幸せに浸る。


翌日、私はトオルと『西麻布 おにく 玲』でデートをした。

外食の会計はもちろん私。だから、基本的には私が食べたいものを食べることにしている。

この日もおいしいお肉を、思う存分堪能した。




帰りのタクシーで、ふいにトオルが私に聞いた。

「あのさ…、ゆり子ちゃんってさ、僕に興味ある?」
「何よ、突然。あるから付き合ってるんでしょう?」

私は、質問の意味がわからず真顔で答えた。

「どうしたの。らしくないよ」
「らしいって?ゆり子ちゃんは僕の何を知ってるの?知ろうとしてくれたことある?」

ポーカーフェイスを貫こうと思ったのに、核心をつく質問をされ、ドギマギしてしまった。

私は他人に興味がない。

彼氏でも友達でも、どこで何をしていようが何を考えていようが、どうでもいいと思ってしまうところがある。

ただ、トオルは違う。彼に興味がないわけではない。

「僕がなんの仕事しているのか知ってる?」

トオルがまっすぐ見てくるので、思わず目を背けた。

「知ってるよ。会社員でしょ。朝出かけて、夕方帰ってくるもん。私プライベートは詮索したくないのよ」

私は笑顔で言ったが、それでもトオルは納得していないようだった。

― なんなの!トオルのくせに…。

私は強がってみたものの、自分の大切な人が離れて行ってしまいそうで、少し怖くなった。




それから数日後。

トオルが自らうちに泊まりに来ないので、不安になり、彼を家に呼んだ。

「ただいま」
「おかえりなさい」

私は仕事を終えた20時に帰宅したのだが、キッチンからはごはんの匂いがせず、何も用意していないのがわかる。

― ストライキですか?…お腹すいた。

私は、ソファに座るトオルの横でUber Eatsのアプリをタップし、スクロールしていった。

「何食べる?トオルが食べたいもの頼もうよ」

私は優しさを見せ、この不穏な空気を乗り切ろうとした。争いごとは嫌いなのだ。

トオルは綺麗好きでマメだし温和な性格をしている。料理もできるし見た目もタイプだ。

お金を持っていないところに惹かれて付き合ったが、いつしかそれは恋に変わっていった。

彼がいるから私も仕事を頑張れる。だから、できればずっと一緒にいたい。

「ねぇってば。食べなくていいの?」

私は黙っているトオルにイライラしながら答えた。

「僕は、ゆり子ちゃんの召使いなのかな?彼氏だと思っていたけど、違うみたいだね」

トオルは私とケンカしたいようだ。

ついさっきまで仕事をしてきて疲れているのに、彼は私に対しての不満を言い始めた。

「あのさ、ネチネチうるさいよ。結論から言ってくれない?」

私はイライラしながら言った。なんだかんだ文句を言っても、結局、彼は私のそばに留まるはずだ。

トオルには度胸がない。だから、この可能性しかない東京で、サラリーマンなんかやっているのだ。




「僕と別れてほしい」

― え…。今なんて?

予想外の申し出に鳥肌が立った。

「それと、僕は会社員じゃないよ。俳優なんだ。まだ全然仕事ないけど」

― あぁ、それで歯のホワイトニング…。

そう言われてみたら、顔も垢抜けていてかっこいいし、年齢もまだ25歳と若い。嘘じゃないだろう。

“職業は俳優”と聞き、私はトオルをますます手放したくなくなった。

「ごめん。これからはもっとあなたに興味持つようにするね」

私はプライドを捨てて頭を下げた。しかし、トオルは自分の話をやめない。

「気になる人ができたんだ。前から知ってる子だったけど、最近相談に乗ってもらってて…」
「だからなんなの?」

トオルがモゴモゴと言いにくそうにしているのが腹立たしい。

私は、冷蔵庫からシャンパンを取り出しグラスに注いだ。

キッチンで一気に飲んでからトオルを見ると、彼は立ち上がってから言う。

「その子と関係を持ちました」

その時、私の中で何かが大きな音を立てて崩れた。

目の前にいるトオルが別人に見え、ただただ遠くに感じた。

「出て行って。今すぐ!」

私は彼の目を見ずに言い放ち、玄関が閉まる音が聞こえたあとで泣き崩れた。

それからしばらくして、インターホンが鳴る。

― もしかして、トオルが戻ってきた…?

しかし、画面に映っていたのはUberEATSの配達員だった。

私は解錠すると、ヘナヘナとその場に座り込む。

トオル。

いつからこんなに惹かれていたのか、いつからこんなに好きになっていたのか。

自分の感情に驚いた。

― もしかして、これが恋ってやつ?

自分の本当の気持ちに気づくのが遅すぎた。

私は自分のことを鼻で笑いながら、トオルの連絡先を消した。

もう二度と、同じ過ちは繰り返さないと誓いながら。

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