さて、こうした事情を踏まえて、まず指摘すべきは、キムラ緑子が自身のSNSで何をどのように表明しようと、それが公序良俗に反するものでない限り、何もとがめられることはないという点です。

 その上で、彼女を批判するやり口が姑息なのは、ドラマの役柄とリンクさせているからです。つまり、本来は「思想的に許せない」とだけ言いたいものを「それはプロの役者として好ましくない」という、オブラートに包んだ技術論でキムラの政治思想に釘を刺そうとしているところが、本当にセコいのです。

 正々堂々と表明したキムラ氏に対して、「プロの役者としてどうなのか?」というクッションを挟まなければ、政治的に対峙できない。

 今回、彼女を一斉に攻撃した人たちは、その意味で弱さを露呈してしまったと言えるのです。

◆主張をかえって弱めた「山上くん」という一言

 ただし、キムラ氏にも考慮すべき点はありました。それは山上徹也被告を「くん」と呼んだことです。ここは、同情したいという気持ちをぐっとこらえて、客観性に徹するべき事柄だからです。

「無期懲役判決には納得いかない」というメッセージの時点で、すでに彼女の立場は明確なのですから、そこをさらに「くん」付けで念押しする必要などどこにもないのです。

 それは、不必要に感情的な対立を煽る蛇足であり、むしろ、安倍晋三という人間を冷徹に裁きたい気持ちがあるのであれば、山上徹也という人物をとことん事務的に扱わないと、彼女の訴えたいメッセージは逆に薄れてしまう。

 それは、芝居という台本に書かれた言葉を扱うプロとして、厳しい言い方をすれば迂闊であったと言わざるを得ない失点でしょう。

 というわけで、キムラ緑子を巡る騒動は、またしても日本においては政治的な討論が噛み合わないわびしい現実を映し出してしまったとも言えます。
 
 エモーションに屈してしまうことは、思想の立場を超えて、大きな課題となっているのです。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4