「一刻も早く家を出たかった」。子どもの頃は機能不全家族で育ったと語る清水あいりさん。父の多額の借金や母と祖母の激しい対立など家庭のなかに安らぎを感じることができず、15歳で上京する頃には、感情を抑圧していたそうで──。

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怒鳴り合う両親、泣きながら園児が公園に家出し

子ども時代は家に帰るのが苦痛だったという

── 15歳で大阪を離れ、単身で上京して芸能界に飛び込んだ清水あいりさん。夢を追う華やかな一歩に見えますが、その背景には「一刻も早く家を出たい」という切実な思いがあったそうですね。なぜ、それほどまでに家を離れたかったのでしょう。

清水さん:物心ついた頃から、両親の激しいケンカが毎日のように続いていたんです。怒鳴り声を聞きたくなくて、部屋に鍵をかけて、じっと身を縮めていました。両親から「もし離婚したらどっちについてきたい?」「どっちのほうが好き?」と何度も聞かれて。でも、ふたりとも好きだったから、どちらかなんて選べない。聞かれてもつらいだけでした。

ある時、夜中まで響く怒鳴り合いに耐えられず、家出をすることにしたんです。家出というものがそもそもどんなものかあまりわかっていなかったけど、とにかく家を出たくて泣きながら、真っ暗な道を歩いて近所の公園に向かいました。でもしばらくして母にすぐ見つかって連れ戻されて。まだ幼稚園くらいの頃でした。

── 本来なら、幼い子どもにとって家は一番の安全地帯のはずなのに、清水さんにとっては、常に緊張を強いられる場所だったと。苦しいときに「つらい」と言える相手や逃げ込める場所はあったのですか。

清水さん:なかったですね。もともと自分のなかに溜め込むタイプだったこともあって、感情を殺す癖がだんだんついてしまいました。大人になった今でも感情を表に出すことが苦手で、楽しく過ごしているのに「大丈夫?楽しんでる?」と聞かれることも。子どもの頃の環境で身につけた防衛本能のせいなのかもしれません。

── その後、ご両親が不仲なまま、父方のおばあさんの家に身を寄せたことで、状況はさらに過酷になっていったそうですね。

清水さん:小学3年生のとき、父が作った多額の借金が原因で、父方の祖母の家に家族全員で居候することになったんです。そこでも両親のケンカは絶えないうえに、今度は祖母と母の激しい対立まで始まってしまって。

それまで私には天使みたいに優しかった祖母が、母をひどく傷つける姿を見るようになりました。しかも母を傷つけた直後に私と目が合うと、急に笑顔を作って何事もなかったようにご飯の支度を始めるんです。その豹変ぶりが本当に怖くて…。祖母の敵意は日に日に激しくなり、やっと身を寄せたはずの家なのに、私の居場所はよりいっそうなくなっていきました。

── お父さんに助けを求めることはできなかったのでしょうか。

清水さん:当時の父は祖母をかばうばかりで、母を守ろうとはしてくれませんでした。さらにある日、学校から帰ってきて家の前につくくらいのときに、私がお守りのように部屋に飾って大切にしていた姉のギターやCDを100枚ほど、2階の私の部屋の窓から祖母が地面に叩きつけるように投げ捨てていたんです。「他人のものはこのうちにいらんねや!」と言って。祖母は血の繋がりを異常に大切にしていました。実は、私には12歳年上の異父姉妹の姉がいて、私のことを本当にかわいがってくれました。姉が実家を出て残していったものは、私にとって宝物だったんです。なんだか守ってくれているような感覚でした。でも祖母にとっては血のつながりのない他人のもの。近所の人に見られるなか、外に投げ出された大切な宝物を泣きながら拾い集めました。そんな日々が続いていました。

母は祖母から攻撃されるようになり、警察沙汰にもなりました。「お父さんはお母さんのことを守ってもくれないし、お父さんといるだけでお母さんはおばあちゃんに苦しめられ続ける、だから、お願いやからお父さんと離婚して欲しい」と母に頼みましたが、「あんたが20歳になるまでは離婚せえへん」と聞き入れてもらえませんでした。

その後、母がストレスから体を壊し、ようやく祖母の家を出ることになりました。

姉の言葉が息苦しい状況から脱する救いに思えた

親の借金や両親の不和は幼かった清水さんに大きな影を落とした

── お母さんを守りたいのに、子どもの自分には何もできない。幼い清水さんが抱えるには、あまりに過酷な状況です。

清水さん:母が血を吐いて倒れたことで、ようやく両親も「ここから離れなきゃいけない」と本気で思ってくれて。母はずっとひとりで頑張って働いていましたが、父も真面目に働き始め、小学4年の後半に祖母の家を出て、家族3人で暮らすことになったんです。私も転校し、その後はしばらく平穏な日々を過ごせました。でも、中学に上がる頃、またしても借金事情で祖母の家に戻らざるを得なくなったんです。もう絶望的でした。そこからはまた同じことの繰り返し。

思春期に入って心も繊細になっていて、祖母や父に対して憎しみすら抱いてしまうようになっていました。両親は相変わらずケンカ、母と祖母もケンカの日々で、私はストレスから胃液を吐くようになりました。どうしても家に帰りたくなくなり、自分を守るために、友達と公園で時間を潰し、家族が寝静まった夜中に帰る。誰もケンカをしていない、静まり返った真夜中だけが、家の中で唯一息ができる時間でした。

── そこから抜け出すきっかけになったのは、お姉さんの言葉だったそうですね。

清水さん:あるとき、東京で暮らす姉に夜行バスで会いに行ったら、渋谷の109の前で芸能事務所にスカウトされたんです。そしたら姉が「あんたも東京に来たらええやん」と言ってくれて。私にはそのひと言が、この息苦しい家から抜け出す唯一の救いのように聞こえたんです。

それまでは、子どもの頃から続けていた空手の師範になりたくて、大阪の強豪校への進学を真剣に考えていました。でも姉の言葉を聞いた瞬間、「一刻も早くこの家から離れたい」という思いが湧いてきて、そのまま上京を決意しました。

ただ唯一の心残りは、置いていく母のことです。家を出る前、祖母に対して初めて真剣に「お母さんを傷つけたら一生許さない」と伝えました。祖母は血の繋がりのある私に対しては優しかったので「わかった」と素直に頷いてくれて。上京後も定期的に祖母と母へ電話をかけ、母が無事か確かめるようにしていました。

── そして15歳で上京。息苦しい環境から抜け出し、ようやく心休まる日々が訪れたのでしょうか。

清水さん:上京後は、姉と同じアパートでひとり暮らしをしながら高校に通い始めました。そこで出会った友達は、本当にみんな心優しくいい子たちだったんです。でも、複雑な家庭環境で育ち、泥水をすすってきたような生き方をしていた私にとって、周りとの家庭環境の差や、金銭感覚の違い、関西、関東の違い、いろいろなことに違和感を感じてしまい、なんだか汚れた鼠が「綺麗な夢の国」に迷い込んだような居心地の悪さ、恥ずかしさがありました。

当たり前のように家族旅行の話をする友人たちに「いいな」と思ってしまう。家族全員で出かけた経験すらなかった私にとって、私が持っていないものをすべて持っているみんなに引け目を感じていたんだと思います。

さらに、昔から抱えていた自分の大きすぎる胸へのコンプレックスが深刻化していた時期も重なり、心のバランスが悪化。学校へも次第に行けなくなりました。精神科に行くと、うつ病だと診断され、しばらく薬を飲みながら生活していました。

「強いですね」と人に言われるけれど

── 壮絶な幼少期から上京後の挫折まで、さまざまな苦しさに直面されてきました。それでも、こうして歩き出せたのはなぜだったのでしょう。

清水さん:幼い頃から厳しく叩き込まれた、空手の館長の教えが大きかったと思います。館長からは「どれだけ悔しいことや悲しいことがあっても、その怒りをそのまま他人にぶつけるな」と教わってきました。「だったら、このやり場のない怒りも悲しみも、全部かみしめて、生きる力に変えていこう。そうできたら、私は強くなれるんじゃないか」。そんな思いが根っこにあります。

こう話すと「強いですね」と言われることもありますが、そんなことはないんです。弱い部分もたくさんありますし「本当の強さって何だろう」と立ち止まって考えることも。それでも誰にも頼れず息を潜めていたあの頃の自分に比べれば、少しずつ自分の足で立てるようになったのかなと思います。

── かつては「一刻も早く離れたい」とまで思い詰めていたご家族との関係にも、変化があったのでしょうか。

清水さん:母が倒れたことをきっかけに、父も真面目に働くようになってくれて、あれから祖母からも離れることができて、今はふたりで仲良く暮らしてるみたいです。私も今ではすごくいい関係を築けています。私の活動もすごく応援してくれているんです。過去の出来事が全部帳消しになるわけではないですけど、あの頃はみんな心に余裕がなかったんだと思っています。あのまま憎み合って終わらなくてよかったなと。今は父と笑い合えるようになったので、それだけでもすごく救われていますね。

取材・文:西尾英子 写真:清水あいり