振られて悲しいはずなのに、心の隅ではホッとしてる…。複雑な思いを抱えた女の事情とは
買い物は、魔法だ。
女は買い物という魔法を使って、“なりたい自分”を手に入れる。
ならば、どれだけ買っても満たされない女は一体何を求めているのだろう―?
32歳にして年収1,200万円を稼ぐ紗枝は、稼いだお金を存分に買い物に使う「カッコイイ女」のはずだった。
しかし、紗枝の向上心にも似た物欲は恋人・慎吾とのいさかいをキッカケに徐々に歪み始める。
カードが停止するまで買い物をしてしまった紗枝は、ついに慎吾に禁断の借金の申し込みをしてしまい、浪費をやめることを決意する。
紗枝の欲望の、行き着く先は?
喜多川とザ・リッツ・カールトン東京で会ってから1週間が経ち、紗枝の生活は平穏を取り戻しつつあった。再び押し付けられた形になったあの腕時計が、クローゼットの奥深くに隠してあることを除けば。
―明日はまた日曜。もう一度だけ喜多川さんに会いに行って…今度こそあの時計を、有無を言わさず突き返すんだ。
キッチンでマグカップを洗いながら固く決意する紗枝に、慎吾が呑気な声で話しかける。
「ねえ、今日の最高気温19度だって!公園日和だな〜」
「そうだね!ラーメンフェス、楽しみ!」
一時は危ぶまれた慎吾との関係も、紗枝が浪費をやめてからはすこぶる上手く行っている。2人で休日デートを楽しめるくらい関係性が修復できたことに、紗枝は改めて安堵の吐息を漏らした。
このまま、平穏な時が続きますように。そう願って目を閉じた時、寝室に向かった慎吾から大きな声で呼びかけられた。
「ねぇ、俺のあの春物のパーカーどこにしまったっけ!?」
「あ、それならクローゼットの奥の方に…」
とそこまで言いかけた時、紗枝の体に戦慄が走った。
―クローゼットの奥には…あの時計が…!
「ダメッ!!!!」
慌ててキッチングローブを脱ぎ捨てると、紗枝は寝室へと駆け付ける。
勢いよくドアを開けた紗枝の目に映ったのは、あの赤いショッパーを手にしている慎吾の姿だった。
真実は言えない。言い淀む紗枝に、慎吾が下した決断。
ついに訪れてしまった、決別の時
「慎吾、違うの…それは…」
「…また買ったの?」
紗枝の言葉に被せるように、慎吾が質問を投げかけた。
買ってない。本当に買ってない。浪費をやめると慎吾に誓ってからは、すっかり生活を改めたのだ。
だが…本当のことを言えるわけがない。
「その時計は、偶然出会った見知らぬお金持ちに買ってもらった」なんて、誰が信じるだろう?
たとえ信じたとしてもその男性は今、紗枝に「彼氏と別れて僕と付き合え」と言ってきているのだ。真実を伝えればさらに慎吾の信頼を失ってしまうであろうことは、容易に想像がついた。
「違うの…、本当に違うの…。明日絶対返しに行くつもりだったの。お願い。信じて…」
そう繰り返すしかない紗枝に、慎吾は大きなため息をついた。そして、全く怒気をはらまない乾いた声でポツリと呟く。
「俺たち…もう、ダメだね…」
最愛の恋人の口からこぼれた残酷な言葉に、紗枝は取り乱した。
「うそ。うそ。聞いて慎吾!それは私が買ったんじゃなくて」
「ごめん!もうこれ以上、言い訳を聴く気になれないんだ!」
部屋に響き渡る慎吾の悲痛な声に、紗枝の体は金縛りにあったかのように凍りつく。
「俺、今夜からしばらく他所で寝泊まりするよ…。荷物は後で取りに来る」
慎吾は小さな声で紗枝に告げると、時計と一緒に発見したパーカーを羽織って出て行ってしまった。
バタン、と玄関のドアが閉じる。後にはただ突き刺すような静寂と、憧れの時計が残されるばかりだった。
喪失感を抱えきれずソファに崩れ落ちた紗枝は、とめどなく溢れる涙を袖で拭う。薄いグレーの袖口にマスカラとファンデの汚れがついてしまったのを見て、ぼんやりと考えた。
―これ、高かったのに…。もう買い直せないのに…
そして、そんなことを考えた自分自身に笑ってしまう。浪費を制止していた慎吾をたった今失ったことに、改めて気づいたからだ。
―浪費をやめたのに、結局慎吾はいなくなっちゃった。もう誰にも怒られない。私が、どれだけ浪費しても…。
心臓が破裂しそうな悲しみの渦から、ほんの一欠片の開放感が顔を覗かせる。
紗枝はふと、これと全く同じ気持ちを感じた経験があることを思い出した。
欲望を押さえ込み、歪められ続けた憂鬱な過去
元凶となった男に、ぶちまけた心の声
「またそんなもの買ってもったいない…」
「チャラチャラ着飾るくらいなら貯金しときなさい」
「服なんて着られればいいのよ」
紗枝が自分のお小遣いでオシャレなものを買うと、いつもそう言って水を差してきた母。
自身の容姿に無頓着で、化粧もろくにせずみすぼらしいボロばかり着ていた母。
節約家の母の下で育った紗枝は、いつも従姉妹のお下がりを着せられていた。「紗枝ちゃん、ダサい」と学校で嗤われたことは、一度や二度ではない。
就職1年目の春に母を乳がんで亡くした時には、あまりに早く訪れた別離に心がついて行かず、体中の水分が干からびるほど泣いた。
だが…どこかでほっとする気持ちがあったことを、紗枝は否定できない。
―買い物って、本当に悪いことなの?綺麗になりたい。かっこいいって思われたい。もっと素敵な自分になりたい。そんな気持ちで買い物をすることの、どこに罪があるというの?
子供の頃からくすぶっていた思いが、再び頭をもたげる。気がつくと紗枝は、ソファの角に置かれた赤いショッパーに手を伸ばしていた。
我慢していたが、本当は喉から手が出るほど欲しかった時計だ。何かが吹っ切れた紗枝は、箱を取り出そうとショッパーの中に手を入れる。
だが紗枝の指にまず伝わったのは、重厚な箱のわきに添えられた薄い紙片の感触だった。
保証書にしては薄すぎる。不思議に思い取り出してみると、それは携帯の番号が殴り書きされたメモ用紙だった。頑なに開封せずにいたために気づかなかったが、喜多川が入れたものだろう。
途端に、紗枝の胸にふつふつと怒りがこみ上げる。元はと言えば、喜多川がこんなものを押し付けてきたのが事の発端だったのだ。
私は返そうとしたのに。
私は浪費をやめようとしたのに。
私は、私は、私は…自分を抑えて頑張っていたのに!
怒鳴りつけてやらないと気が済まない。紗枝はスマホを取り出すと、メモ用紙に書いてある番号に電話をかける。
5回ほどコール音が鳴ったところで、喜多川の「はい」という声が聞こえた。
一言いってやりたい。そう思ってかけたはずの電話だった。だが、いざ喜多川が出てみると、叩きつける言葉が思いつかない。口から漏れるのは、こらえきれなかった嗚咽だけだった。
電話の向こうでじっと聞き耳をたてていた喜多川が、優しく囁いた。
「紗枝ちゃん。やっと開けてくれたんだね、電話待ってたよ」
優しい声が、不覚にも心に染みる。紗枝の震える唇から、ようやく言葉が紡がれた。
「喜多川さんなら…」
だが、続いて出てきたのは、思っていたような罵倒の台詞ではなかった。
「喜多川さんなら、私を認めてくれますか…?」
きっと楽になれる。「浪費は悪くない」と言ってくれる男となら
押さえつけていた欲望の、鎖が外される
呼び出されるままに再び、ザ・リッツ・カールトン東京に向かった紗枝は、喜多川が住んでいるというレジデンスの部屋へと招かれた。
紗枝が渡した赤いショッパーを、喜多川はやっと受け取る。そしてゆっくりとした動作で中の箱を開けると、取り出した腕時計を紗枝の左手首につけてくれた。
「とっても似合うよ、紗枝ちゃん。君はこの腕時計にふさわしい、素敵な女性だ」
スクエアの文字盤のダイヤが、紗枝の細い手首の上できらめく。喜多川はそのまま左手を持ち上げると、ヨーロッパの騎士のようにキスをした。
紗枝は思わず体を固くする。求愛してくれている男性の部屋で、高価なプレゼントを受け取るのは…つまり、交際が始まったと考えるべきだろう。
喜多川のもとへ来ることを決めた時、恋人らしく過ごすことを覚悟しないわけではなかった。
だが、慎吾と別れたのはついさっきのことなのだ。気持ちの切り替えが追いつかない紗枝は、この後のことを思って身構える。
しかし、そんな紗枝の心中はお見通しなのだろう。喜多川は優しく左手を離すと、それ以上紗枝に触れようとはしなかった。意外にも紳士的な喜多川の態度に、紗枝は拍子抜けする。
「誰も取って食おうだなんて思ってないよ」と笑いながら、喜多川はゆったりとした足取りで机に向かった。
そして、引き出しの中から取り出したルームキーを紗枝に手渡して言う。
「ホテルの方に部屋をとっといたから、ここに泊まるといいよ。同棲してた部屋に戻るのも、そこに泊まるのも嫌でしょ?いつまででもどうぞ。それから…」
そう言いながら喜多川は、ポケットから財布を取り出した。中から1枚のカードを抜いて差し出す。
「好きなだけ使っていいよ。バラへの水やりはケチらないんだ、僕」
個人投資家として大成功を収めている喜多川の総資産は、100億以上あるという。紗枝はもう、「貰えません」とは言わなかった。
喜多川の言葉に乗ろう。喜多川は、浪費する私が好きだと言うのだから。
我慢する必要はどこにもない。
好きなだけ、買うのだ。
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いくらでも、好きなだけ買える。紗枝の欲望に再び火がつけられる