「卒アルの上書き」に思うコト。自己を肯定も否定もしない、ゆる〜い生き方は、どう?
良いことも悪いことも、人生、迷うことばかり。そんな他愛もない日常をゆるゆると綴ったアルム詔子の「日日是迷走」。
今回で最終回となるこのコラム。時期的なモノ、そして最後の私からのメッセージも込めて、クラウドファンディングを活用した「卒アルの上書き」を取り上げた。
何かしら卒アルに対して特別な思いを持っている人は、少なからずいるだろう。
そんな卒アルを上書きするって…。
「一体、卒アルをどうすんだ?」という疑問とともに、大いに戸惑ってしまった私。
「好きな自分」だけでなく、「嫌いな自分」との向き合い方を、最後のコラムで考えてみた。
卒業アルバムへの思い入れはある?
そろそろ3月となる。世間は卒業シーズンだ。
残念ながら、コロナ禍の現在では、以前と異なる新常態(ニューノーマル)での卒業式となるだろう。ただ、変わらないものもある。内容はどうあれ、卒業には欠かせない「卒業アルバム」だ。
この記事を書くために、久しぶりに我が卒業アルバムを手に取って…と思っていたのだが、京都の実家に置いてあるコトを思い出した。私の場合、小・中・高、どれをとっても遥か昔、ウン十年前の写真となる。引っ越しが多い今の生活に、わざわざ昔の写真をお供させるまでもないだろう。
それに、サブ的な理由もある。卒業アルバムの中の「当時の社会の出来事」だ。パートナーの彼とは同じ「昭和」生まれだが、それでも年代が違う。年齢差を改めて実感しなくても…と、そんな私なりの諸事情で、実家に置くことにしたのである。
ただ、私個人に関していえば、「卒アル」自体には、何の不満もない。
もちろん、写真を撮るとその場ですぐに確認できる今と違い、当時は「撮ってなんぼ」のアナログの世界だ。写真からはみ出していたり、ピンボケしたり、逆光で暗かったりと、不確定要素のせいで、出来の悪い写真となることもある。
それに「卒アル」には必須の集合写真にも、かなりの確率で間の悪い人間が現れる。多くの人がニッコリと表情を作っているなか、ストロボのせいで目をつぶった人が…というのも、卒アル「あるある」の1つだ。これも、大多数の人たちの一瞬を「写真」で切り取るため、犠牲が出るのも避けられない。
それでも、そんなアクシデントも含めて一切合切が「思い出」なのだろう。不出来な写真を見て、当時の状況がふいに甦ることがもある。横を向いて写っている写真から、あのとき誰かに名前を呼ばれたな…となって、そこから芋づる式に前後の懐かしい状況を思い出すのである。
だから「卒アル」は、思い出たちとの触媒となる重要な存在なのだ。
卒アルをネタにして、「あんときは〜(笑)」と盛り上がるのです…
「自己肯定感」で苦しむ必要なんてない
そんな「卒アル」を上書きしたいという記事が、2021年9月の日経新聞に掲載された。
上書き? ええっ…作り直すの?
最初はその言葉に戸惑ったが、どうやら自分の写真を納得のいくものに撮影し直し、本来の卒アルの写真の上にシールで貼るという。メイクや着たい服を着て撮影し、卒アルの自分を「好きな自分」に上書きできるサービスのようだ。
考案したのは、大学院に在学中(当時の状況)の女性だ。
2020年9月にクラウドファンディングの活用で、この「卒アル上書きプロジェクト」を立ち上げ、募集金額の20万円を達成した。ちなみに、新しい写真のシールは剥がせるタイプのもので、本来の卒アルの写真は傷つかないとのことである。
なんでも、彼女の高校はメイクが一切禁止だったとか。ただ、大学に進学すると、メイクはマナーとして必須なのだと感じ、その線引きに違和感を抱いたそうだ。メイクをする、しないという選択はもっと自由でいいとの発想を「卒アル」と繋げたという。日経新聞の記事には、高校生はすっぴんが前提のために、卒アル撮影に自己肯定感が生まれないということも書かれていた。
なるほど。様々な視点があるものだと唸ってしまった。
メイクをしたくてもできなかった、好きな自分の写真ではなかった、自己肯定感が生まれない…などなど。「卒アル」に対して、そんな見方があることを知ったのである。
個人的には、その背景に「キレイな自分」至上主義の考え方があるようにも感じた。メイクは「自己表現の手段」だとしても、やはり、その根底には、より自分をキレイに見せたいとの思いがあるのだろう。
「キレイ」でありたいと願う気持ちはわかる。女性男性問わず、それは誰にでもある自然な願望だ。ただ、写真は「点」であり、これまで生きてきた道のりは「線」だ。通過点ともいえる過去の「点」を置き換えても、やはり「線」は変わらない。そんな気がするのである。
振り返れば、「嫌いな自分」「ダメな自分」「消し去りたい自分」と、今までたくさんの「ネガティブな自分」がいた。しかし、驚くことに、これもすべて愛すべき自分なのだと気付いた。そんな自分がいたからこそ、今の自分が形成されたと分かったからだ。
じつは、20代や30代であれば、もっと過去の自分にこだわったかもしれない。けれど、不思議と40代になって、そんな考えが大きく変わった。組織を離れフリーランスとなり、これまでの枠を超えて様々な人と出会えたからだろうか。
「キレイな自分」である必要はないし、なんなら「好きな自分」である必要もない。自己を「肯定」も「否定」もしない。「〜すべき」という前提の呪縛からの解放である。そのままの自分を、そのまま受け止める、そんなゆる〜い生き方もいいのではと思うようになったのだ。
アルムやばくね…? いやいや、書いてる私自身も、ひょっとして死期が近いのでは…と疑うほどだ。
だが、なぜだか年を取ると、過去のすべてがいとおしいと思えてくる。
そろそろ「ネガティブな過去の自分」を赦してもいい頃だろう。
人生の中で、そんな時期に来ているのかもしれない。