−“女”の幸せとは、結婚し、子どもを産み育てることである。

そんな固定概念は、とうの昔に薄れ始めた。

女たちは社会進出によって力をつけ、経済的にも精神的にも、男に頼らなくてもいい人生を送れるようになったのだ。

しかし人生の選択肢が増えるのは、果たして幸せなことだろうか。

選択に結果には常に自己責任が伴い、実際は、その重みで歪む女は少なくない。

この連載では様々な女たちの、その選択の“結果”をご紹介する。結婚願望が強い美香(34歳)、不本意にデートを繰り返す人妻・真弓(32歳)、産後鬱に陥った由里子(33歳)、育児と仕事の両立に悩む会社役員の麻里に続き、今回はキャリアを逃した高学歴女・佳代(33歳)のお話。




「一番の関心ごとですか…?それはもちろん、子どもたちの教育です」

ブラックコーヒーを一口飲んで、佳代ははっきりとそう断言した。

ネイビーのジャケットに綺麗な折り目のついたホワイトパンツ。ブラックのケリーバッグを小脇に携えた彼女は都心のセレブママそのもの。一分の隙も見当たらない。

現在33歳の佳代には、8歳の男の子がいる。

その完璧な装いからは想像もできないが、今朝も早朝から息つく暇なく動き回り、子どもをサマースクールへ送り届けてきたという。

午後になり、お迎えの時間がくれば今度はサッカーの練習に連れて行く。さらにはその合間の隙間時間に、宿題も見てあげなくてはならない。

子どもが学校や習い事に行っている間さえ、完全に自由になるわけではない。

週1でハウスクリーニングを頼んでいるとはいえ家はすぐに散らかるし、洗濯だって、食材の買い出しだってある。

佳代の毎日はこうして、朝から晩まで息子に振り回されて終わるのだ。

時々、つかの間のひとり時間に、青山一丁目の自宅マンション下にある『スターバックスコーヒー』でブラックを啜る。

この、ほんの一瞬だけが、現在の佳代にとって一息つける時間。

「…8年前は、まさか自分がこんな風になるとは思ってもみませんでした。私はむしろ、子どもなんて欲しくなかったから」


子どもを産むつもりなどなかった女が、教育ママと化した経緯とは


茨城県の進学校を卒業した佳代は、東京大学文IIにストレート合格。

帰国子女でもなければ留学経験もない彼女だったが、独学でネイティブ並の英語力を身につけ、第一志望だった外資系投資銀行の内定を掴んだのがおよそ10年前のことである。

「当時は“働き方改革”なんて言葉は存在しないし、深夜早朝問わずの呼び出しも当たり前。呼び出されたらすぐオフィスに出向かないとならないし、はっきり言って狂ったように働いていましたね。でもそれが当たり前だった。そんな時代だったんです」

人間らしい生活などできやしない。そんな過酷な状況に置かれながらも、佳代は仕事を楽しんでいたという。

「若かったし、体力もありましたから。それに1年目から1,000万円を超える年収はやはり魅力的でしたね。しかも、上には上がいる。元来負けず嫌いな性格ですし、もっともっと…貪欲に、必死で食らいついていました」

しかしそんな佳代を不運が襲った。

入社2年目の夏のこと。彼女は突如、解雇の対象になってしまったのだ。




「ショックでした。長年努力し続け、やっと手に入れた輝かしいキャリアが一瞬で砕け散ったわけですから。人生初の挫折、と言っていいかもしれません」

佳代はどこか落ち着かない様子で、二、三度瞬きをする。

当時の記憶が蘇ったのだろうか。暗澹とした表情で明後日の方向を見つめ、暫し黙り込んでしまった。そしてゆっくりと、言葉を続ける。

「そんなとき、私をそばで支えてくれたのが今の夫・毅(たけし)です。東大の同級生でもあり、別の会社ですが同業のバンクに努める彼は、ずっと私のよき理解者でした」

毅と佳代は、大学卒業後、外資系投資銀行で働くようになってからぐっと距離が近くなったのだという。

外銀の世界に身を置くと、その他業界のサラリーマンとは金銭感覚がずれてしまう。行く店や話題も違ってしまうため、自然と同業同士で集まるようになるのだ。

「とはいえ毅とは、“そういう”関係ではなかったんです。大変さを分かち合える同士というか、戦友というか。…けれど急に解雇を宣告され、私も相当弱っていた。毅と男女の仲になったのは自然な流れだったと思います」

そしてこの時、佳代の身にもう一つ予想外の出来事が起きた。

毅との間に、子どもができたのだ。


外銀ウーマンのキャリアを失った途端、今度は妊娠が発覚。そして、女の人生は一変した。


「…ひどい女だと思われるでしょうが」と前置きをした上で、佳代は本音を語り始めた。

「私、妊娠がわかって呆然としたんです。正直、まったく望んでいなかった。前職は解雇されてしまい同業に復帰するのは難しいかもしれないけど、それでも何かしら仕事をして、再びキャリアを築いていくことしか私の頭にはなかったから」

しかし現実問題、佳代は妊娠した。

毅に相談すると、彼は驚きはしたものの一切の迷いなく「結婚しよう」と言ってくれた。

「結局…私は毅と結婚しました。お互いの両親や毅の意向もあって半ば渋々、専業主婦になったんです。だけど不思議なものですね。お腹が少しずつ大きくなり、胎動を感じるようになったら急に…母性が溢れてくるというか。

仕事で認められたいという承認欲求がすーっと消え、愛しい命を守ることこそが自分の使命なんだと思うようになったんです」

…ところがそれから8年経ち、33歳となった今。

佳代の中で再び、承認欲求がムクムクと顔をのぞかせるようになってしまったという。




「このくらいの歳になると、かつての同級生たちも組織の中でそれなりに出世し始めたりするわけです。特に、独身を貫きキャリア街道をひた走ってきた女友達が活躍していたり、DINKSの同級生が起業で成功し、メディアに取り上げられているのを目にしたりすると…なんとも言えない焦燥を感じてしまって」

−私だって、ただの主婦じゃない。社会に出れば、その辺の男なんかよりずっと稼ぐ力のある才女なのよ…!

同級生たちのSNSを眺めるとき、佳代は心の中でそんな風に叫んでしまうという。

「自分も何かビジネスを始めてみようかと考えたこともあります。でも…子どもが大きくなればなったで、今度は教育に手がかかる。私、どちらも中途半端になるようなことだけはしたくないんです。…それで、覚悟を決めることにしました」

すでに飲み終えたブラックコーヒーのカップを、強く握りしめる佳代。そしてまっすぐに前を見据えると、低く唸るような声でこう宣言するのだった。

「私、息子をスーパーエリートにしてみせます」

佳代は子どもをインターナショナルスクールに通わせている。

「日本の義務教育って、ひと昔どころかふた昔も前のままでしょう。平均点の子どもを量産するシステムなんて、これからの時代にまったくそぐわないのに。息子には、イノベーションを起こせる一握りの人材になってもらわなくちゃ。そのために才能を見極め、最適な環境を整えてあげることこそが親の役目だと思うんです」

子どもの教育について語る佳代の語気は荒い。

自分には能力がある。勉強も仕事も、これまでにできなかったことなどない。子育てだって、きっと同じはずだ−。

愛息の教育に全身全霊をかける佳代。

凛としたその強気な横顔からは、そんな心の声が漏れ聞こえるようだった。

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「結婚だけが、女の幸せじゃない」29歳女の決断