美男美女カップル、ハイスペ夫、港区のタワマン。

上には上がいるものの、周囲が羨むものを手に入れ、仕事も結婚生活も絶好調だったあずさ・30歳。

まさに順風満帆な人生を謳歌するあずさは、この幸せが永遠に続くものと信じていた。

…ところが、夫の非常事態で人生は一変、窮地に立たされる。

幸せな夫婦に、ある日突然訪れた危機。

それは決して、他人事ではないのかもしれない。もしもあなただったら、このピンチをどう乗り越える…?

うつ状態であると診断された雄太は、あずさが目を離した隙に忽然と姿を消した。あずさの精神も日に日にすり減っていくが、このまま二人はどうなってしまうのか…?




-なんで電話に出ないのよ!どこにいるのよ!

あずさの不安と苛立ちは刻々と募っていた。

21時。雄太が姿を消してから5時間が経過している。

あれから何十回と電話しているが全く繋がらないし、LINEも未読のまま雄太は失踪中だ。

-お願い、無事でいて…。

少し前、あずさは、雄太のことを少しでも理解したくてうつ病について調べてみたが、うつには「生きていたくない」とか「自分には価値がない」といった気持ちが芽生えると書いてあった。

その時に見た恐ろしい言葉が頭から離れず、最悪の事態を想像してしまうのだ。

雄太が有給休暇を使って会社を休み始めてから2週間。あずさは雄太のことが心配でいてもたってもいられず、油断すると涙が出そうになるため、仕事では常に気を張っていた。

だけど、まさか家からいなくなってしまうなんて。

雄太が突発的な行動に走ったり、早まったりするのではないかという不安があずさを襲う。

外で救急車のサイレンが聞こえるたびに「まさか…?」と考えてしまい、カタカタと震えが止まらない。

近所のカフェや本屋、スポーツジムなど、心当たりのある場所でも雄太は見つからず、顔なじみの店員やスタッフに夫を見かけなかったか何気なく聞いてみたが、目撃情報も得られなかった。

ーこのまま見つからなかったら、どうしよう。早めに警察に届け出るべきかな…。

次なる策を悩んでいたその時、玄関の鍵がガチャリと開く音が聞こえた。

「ただいま」

「ゆうちゃん…!」

リビングを飛び出したあずさは、雄太のところへ駆け寄り、そのまま泣き崩れた。

「どこ行ってたの…心配したんだから…」


崩壊寸前のあずさの精神。現実を受け入れられない雄太に、怒りを爆発させる。


「私たち、共倒れになるよ」。


-5時間前-

「ゲストルーム空いてますか?」

マンションのコンシェルジュに聞いてみると、運良く一部屋空いているという。ダブルベッドに横になった雄太は、大きく深呼吸をした。

-ふぅ…落ち着く。

あずさには内緒だが、このゲストルームは雄太の秘密基地。

一人になりたい時、考え事をしたい時なんかにこっそりと予約し、この部屋でくつろいでいる。

部屋にいると、忙しそうに家事をするあずさを手伝わないと悪い気がしてしまうし、おしゃべり好きなあずさは「聞いてよぉ」と話しかけてくるため、少々面倒だ。

この部屋では、自分の世界に没頭出来る。誰にも邪魔されないように、スマホの電源を落とすことも必須だ。

-どうすっかな…。

雄太は天井を仰ぎながら、今後について考えを巡らせていた。

会社の規定上、休職するのか、復帰するのか、そろそろ選択しなければいけないことは分かっている。

問題は、休職する場合の事由である。さっき受診した内科医には「うつ状態が見られる」と言われたが、うつだなんて、口が裂けても言いたくない。

これまで築き上げて来た、華やかで完璧なキャリアに傷がついてしまうではないか。

それに、大黒柱である自分が倒れてしまっては、和田家存続の危機に瀕する。あずさに惨めな思いをさせるなんて、男としてみっともない。

「インフルエンザだった」とでも嘘ついて仕事に復帰したいところだが、朝になると汗が止まらないし、体が鉛のように重くて起きられないのが現状だ。

-俺はどうしたらいいんだ…。

頭を抱えているうちに、雄太はすっかり眠ってしまっていた。




泣き崩れた妻を支え、雄太はリビングに戻ってソファに座らせた。

あずさは、肩を震わせながらシクシクと泣き続けている。

「ごめん、あずさ。とりあえず落ち着いて」

背中をトントンとさすりながら、雄太はあずさが落ち着くのを待った。呼吸が整ってきたのを見計らってお茶を入れてあげると、あずさはそれを一口飲んだあとで、雄太に抱きついた。

そして、泣きはらした顔を上げ、細い声で訴える。

「ゆうちゃん…現実を見て」

あずさは、雄太の手をしっかりと握りしめながら続けた。

「私ね、お医者さんに言われて調べてみたの。うつって、心の風邪って言われててね、誰でもなる可能性があるんだって…」

「そんなわけないだろ。あれは、メンタルも身体も弱い人間のなるものだ。俺は違う」

雄太が冷たく答えると、あずさは突然雄太の腕を強く掴み、堰を切ったようにまくし立てた。

「いつまで現実から逃げる気なの!?ゆうちゃんが体調悪くなってから、ずっと心配でたまらなかったんだよ。

それなのにゆうちゃんは自分のプライドばっかり気にして。私の心がすり減っていくことなんかどうでも良いんでしょ!?」

妻の精神も限界にきているのかもしれない、と雄太は悟った。

家でも、雄太を不安にさせないように妻がわざと明るく振る舞い、サポートしてくれていることにも気がついていた。だけど、自分ではどうすることも出来ないのだ。

「ゆうちゃん、自分だけが辛いって思ってるかもしれないけど、私だって辛いの!いい加減、現実を見て。このままじゃ私たち共倒れだよ!!」

あずさは、涙を溜めた瞳をこちらに向けながら、そう叫んだ。思わず雄太も言い返す。

「あずさは、俺がうつ病だって認めるのか!?そんなみっともない男が旦那で恥ずかしくないのか?」

「みっともなくなんかない!現実から逃げる、今のゆうちゃんの方がよっぽど嫌だよ!」


ついに爆発したあずさ。夫は受け入れるのか、それとも…?


知らぬ間に蝕まれていた心身


「…ごめん」

雄太はあずさに深々と頭を下げる。そのとき、目から大きな涙がこぼれ落ちた。

「こんなにあずさが辛い思いしていたなんて…考えてもみなかった。無理させてほんとごめん…」

そう言いながら、涙がどんどん溢れてきて、次第に止められなくなっていく。気がつけば雄太は、妻にすがりつくようにして、ものすごい轟音を立てながら泣いていた。

無言で背中をさすり続けてくれる妻の手の温かさを感じながら、雄太は鼻をすすって顔を上げると、こう言ったのだった。

「…分かった。ちゃんと心療内科で診てもらうよ」




-こんなに混んでるのか…。

土曜日。

『ブーランジェリー ア・ラ・ドゥマンド』でモーニングをした後、雄太はあずさと一緒にメンタルクリニックを受診していた。

待合室に入るなり、その人の多さに驚いた。

これまで、メンタルクリニックというのは、そもそも自分とは無縁の場所だと思っていたし、正直に言うと少しネガティブなイメージを抱いていた。

しかし、周りを見渡すと、どう見ても自分と変わらないようなビジネスマンや主婦、学生が座っており、スマホをいじったり、雑誌をペラペラとめくっている。

そのことに雄太は、少しだけホッとしていた。

それでも、どんな診断が下されるのかという不安と緊張で、せっかく持って来た本もまともに読めないまま1時間以上をやり過ごした。

-13番、14番…。

刻一刻と自分の番号が近づいてくる。

病院側の気遣いなのか、ここでは自分の名前ではなく、受付で渡された番号で呼ばれる仕組みのようだ。

あずさが見つけて来たクリニックは、この界隈では比較的有名らしく、知り合いがいる可能性もないとは言えない。自分の名前を晒され、知り合いにでも見つかったら最悪だ。

「15番の方、中へどうぞ」

ついに番号を呼ばれた雄太が、恐る恐る診察室の中へと足を踏み入れると、仏のような顔をした中年の女性医師がニコリと微笑み「初めまして」と挨拶した。

「今日は天気が良いですね」

そんな雑談から始まり、徐々に質問は雄太自身についての内容に移っていく。

先日の内科の冷たい医師とは打って変わり、雄太の話に「うんうん」と頷きながら丁寧にヒアリングしてくれたため、雄太もリラックスして話すことが出来た。

そうして全ての話を聞き終えた医師は、最後に優しい口調でこう言ったのだった。

「少しお休みされた方が良いと思います」

下された診断は、「抑うつ状態」。医師によると、原因はおそらく過労ではないかという。雄太は、屈強な自分の身体には疲れなど無縁だと思っていたが、知らぬ間に心身ともに蝕まれていたようだ。

会社に提出するために頼んでおいた診断書には「抑うつ状態。就労困難のため、3ヶ月の休養を必要とする」と記されている。

診察室を出た雄太は、動揺を隠しきれずに呟いた。

「どうしよう、休職3ヶ月って」

「ゆうちゃん…」

普段なら「大丈夫だよ」と明るく声をかけてくれる妻も、今日ばかりは何も反応出来ずにいるようだ。

言いようのない絶望感が二人を襲うのだった。

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ついに休職することになった夫・雄太。夫婦は再び分裂の危機へ…。