夫から漂う、“あの女”の香り。執拗なまでに執着する女が見せた、不気味な笑顔の意味
―この女、何かおかしいー
自分だけがほんの少し感じた、しかし強烈な違和感。
それをもし、未来の家族となる人に感じてしまったら…?
大手化粧品会社で働く美香(32歳)は、公認会計士である夫の譲(35歳)と、平穏で幸せな日々を送っていた。
しかしその日常は、ある日を境に崩れていく…。
譲の弟である太一と婚約者の恵里奈の顔合わせで初めて会った時から、美香は彼女に何か違和感を感じる。
適当に流していると、今度は恵里奈から小包が送られて来た。彼女の執拗なまでの接触に、気持ち悪さが膨らんで行く…
譲:「弟の婚約者は美人で人懐っこくて、すごく気の利く女性だ」
「あ、譲さん?お疲れ様です」
朝晩とすっかり冷え込むようになり、冬の訪れを感じ始めたある夜。仕事から帰宅しようとしていた僕に、彼女が声をかけてきた。
僕には、5歳離れた弟の太一がいる。昔から真面目で優しくて、少し頼りないが本当にいい奴なのだ。
そんな弟が最近婚約者を連れてきた。それも、美人で人懐っこくて、すごく気の利く女性だ。
太一は全くモテないわけではなかったが、押しの弱さや女性に対して引っ込み思案なところがあるから、少し心配していた。
だから太一が婚約者の恵里奈ちゃんを連れてきた時は、心底嬉しかった。
「あれ?恵里奈ちゃん?こんなところでどうしたの?太一ならもうとっくに帰ったけれど…」
「え、あれ…?あ、本当だ…。LINE来てたのに、気がつかなかった…。実はこの近くでたまたま用事があったので、会えないかなと思って待っていたんです。そっか、残念…」
長い睫毛を伏せながら、太一と会えなかったことを悲しむ彼女が、可愛らしく見えた。
「残念だったね。もう遅いし、駅まで送るよ」
僕がそう言うと、彼女は一瞬微笑んだ後、少し考え事をするかのように押し黙った。そして少し迷いながら、ゆっくりと僕に言った。
恵里奈と譲が会ったのは、本当に偶然?それとも…
「あの…、この後少しだけお時間ありませんか?ちょっと、譲さんにしか相談できないことがあって…」
黒目がちな大きな瞳で僕を見上げる。「結婚のことで、何か不安があるのかな?」と思いながら彼女を見ていると、これまでと違う雰囲気だと感じた。
…そうだ、服装や化粧だ。
これまで会った彼女はふんわりと清楚で可愛らしいイメージだったが、今日はパンツスタイルのいわゆる“いい女”風なのだ。どことなく、美香と雰囲気が似ている。
「えーっと、分かった。良かったらウチに来る?美香も相談に乗ってくれるだろうし。ちょっと聞いてみようか?」
そう言ってスマホをポケットから取り出そうとした時、彼女が焦ったように僕の腕を掴んだので、バランスを崩して危うくスマホを落としそうになる。
「あ、ごめんなさい…。でも、できれば美香さんには、私と会ったことを言わないで欲しいんです…」
そのただならぬ空気に、僕はどうしようかと迷った。最近、美香の様子もなんとなく変だったのだ。もしかすると、何か関係があるのだろうか…?
「分かった…。じゃあ、遅くなることだけ伝えて、君と会ったことは言わないよ」
「ありがとうございます」
パッと明るい笑顔を見せる彼女とは裏腹に、僕は複雑な気持ちを覚えながらも、美香に遅くなることをLINEした。
美香:「甘い匂い…女性物の香水…?」
「あ、お帰りなさい…」
恵里奈からの小包を前に呆然としていると、いつの間にか譲が帰って来ていた。
「ただいま。風呂、入って来るわ…」
そう言った譲の顔は疲れているのだろうか、普段より元気がないように見えた。
すれ違った時、僅かにだが譲の背広からある香りがして、美香は嫌な気分に包まれた。
ー甘い匂い…女性物の香水…?
美香も譲も、普段会社に香水は付けない。洗剤や柔軟剤も常に同じものだ。なので、譲からいつもとは違う香りがしたことに驚いた。しかも、その香りがした瞬間、彼女の顔がふっと蘇ったのだ。
ー恵里奈ちゃん…?
彼女の小包を目の前にしていたせいだろうか?人の記憶で匂いが一番最後に残ると聞いたことがあるが…。
美香は譲のシャワーを浴びる音を聞きながら、この嫌な気持ちとどう向き合おうか考えた。
「あー、疲れた。美香、起きてたんだな。もう寝てるかと思ったよ」
「うん…。ちょっと、考え事をしてて…。今日は仕事だったの?」
ー単なる偶然。
ー単なる気のせい。
美香は自分にそう言い聞かせながら、譲にそれとなく探りを入れる。
美香は譲の言葉にさらに苛立ちを覚えることになる…
「あぁ、急に昔のクライアントとばったり会って、ちょっと飲んで来たんだ…」
そう言った表情からは、何も読めない。けれど何だか、美香の方を見ようとしないでいる気がした。
「そっか…お疲れ様。そのクライアントって、女性…?」
「いや、男だけど…?なんで?」
「ううん、なんでもないの。そろそろ、寝ようかな」
クライアントと会って、飲みに行った。特になんてことはない話だ。それにこれまでの譲を見ていても、今日以外で怪しいことなどなかった。
ー気のせいか…。
気を落ち着かせて寝ようとしたら、譲に「これ、どうしたの?」と聞かれ、先ほどの恵里奈からのプレゼントを思い出した。
「あ、それ…なんか恵里奈ちゃんから送られて来て…。なんか風水的に?良いらしいんだって」
「へぇ。こんなことまでしてくれるなんてな。よっぽど美香と仲良くしたいんだよ」
譲が鈍感なのか、それとも美香が疑い過ぎなのか…?能天気にそんなことを言う彼に、美香は少し苛立った。
「そう…かな…?でも、ちょっと変じゃない?いくら風水的に良くたって、急に色々送って来たり…」
「まぁ、普通はそこまではしないだろうけど。でも、家族となる人だし、彼女は彼女で色々と気を遣ってくれてるんだよ」
「だけど…。初めて会ったのに高価な贈り物をしたりとか…。譲だって気がついてたでしょう?彼女が実家に持って来たお土産、何万もするものだって…。普通、そんな高いもの贈ったりしないよ…」
譲が恵里奈を庇っている。そんな風に感じた美香は、苛立ちを隠しきれず、思っていることを吐き出してしまった。
「美香。そんな言い方、するもんじゃないよ。何がそんなに気にくわないの?恵里奈ちゃんと会ってから、美香ずっとイライラしているように見えるけど…」
譲からの思わぬ指摘に、美香はどう答えればいいのか分からず、黙ってしまう。隠していたつもりが、譲に伝わっていたなんて…。何より、この説明のつかない感情を、どう言えば良いのか…?
「美香が何をそんなムキになってるか知らないけど、仲良くしてやってよ。大事な家族になる人なんだから。ちょっと疲れたから、もう寝るわ」
そう言って、結局誤解を解けないまま、譲は一人寝室へと行ってしまった。
◆
「パワーストーンの置物?それがダメだって?」
「うん、なんか他にも色々と言われたんだけど…」
美香と譲はあれから表面上仲直りはしたものの、少しギクシャクした関係が続いている。
あの日以来恵里奈からの接触はなかったが、気になった美香は、風水に詳しい叔母に相談することにした。
「そんなの、聞いたことないけどね…?石によっては良くない物もあるかも知れないけど…?」
「そっか…私も気になって調べてみたけど、特にそう言ったことは載っていなくて…。でも、わざわざ嘘をつく理由もよく分からないし…」
『エンポリオ アルマーニ カフェ青山』でティラミスを堪能した叔母は、急に目に力を入れた。
「で、色々と贈って来たの?いきなり?いくら仲良くしたいからって、それはやっぱり変よね…。確かにカーテンのオレンジは子宝に恵まれるっていう意味もあるけど…」
「けど…?」
「その他にも、良縁とか出会いとか、新しいスタート、みたいな意味もあったのよね…。まぁ、ポジティブな意味ではあるけど…」
ー新しいスタート…。
何か意味があるのだろうか?美香が眉根を寄せて考えていると、叔母が「でもね…」とこぼす。
叔母からの言葉に美香は救われるも、更なる恐怖が襲いかかる…
「なんにしても、占いでも風水でも、人を脅すように駄目なところを指摘するのはご法度なの。彼女にどういう意図があったかは分からないけど、私はやっぱりその子のことを信用できないし、そんな子の言葉に振り回される必要なんてないわ。適当に距離をおいて、堂々としていなさい」
「…。そうだよね…ありがとう…」
彼女の言葉に、美香はやっと救われた気がした。今まで自分だけが疑っている状況で、気持ちを吐露する相手がいなかったのだ。
本当は夫に一番分かって欲しかった。だが、相手は実の弟の婚約者なのだ。彼女の味方をしても仕方がないのかもしれない。
美香は、叔母からのアドバイスを胸に、もう恵里奈のことなど気にしないと決めた。譲ともきちんと仲直りをしようと。
そうしてしばらく経ち、赤い木の葉が茶色く移ろい始めた頃。
…彼女はいつも突然、美香の前に現れるのだった。
「あ、美香さん!こんばんは」
「…恵里奈ちゃん…」
仕事から帰ろうと会社のビルから出てきた所で、恵里奈が駆け寄って来たのだ。
「お疲れ様です、今お仕事終わりですか?」
「…そうだけど…。どうしてここに…?」
「たまたま近くを通りかかったので、美香さんとご飯でも行けたらなーと思って」
他意のない笑顔。それが逆に一層怖さを増す。
「そっか、でもごめんね。今日は帰ってやることがあるの」
「そうなんですか、残念。あ、そういえば前に送ったもの、使ってくれてますか?」
美香は小包が届いた後、一応お礼のメッセージは返した。はじめは贈り物を辞退しようとしたのだが、恵里奈から「一度贈ったものだから」と拒否され、結局そのまま家に眠っている。
「あれね…せっかくだけど、カーテンも他のものも、譲が選んだお気に入りだから、すぐには変えていなくて…。またそのうち使わせてもらうね」
「そうなんですね。でも、譲さんならきっと良いっていうと思いますけどね…」
恵里奈の言い方に、少しカチンと来た。彼女に譲のことが分かるとでも言うのだろうか…?
仕事が忙しく疲れていたこともあり、早々に話を切り上げようとした時、恵里奈のカバンからハンカチが舞い、美香の足元近くに落ちた。
「あっ…」
拾い上げようとした時、恵里奈も同時に屈む。
その瞬間…
あの時と同じ香りが美香の鼻をふわりとくすぐる。
ーこれ…、やっぱり譲の背広から感じた匂いと同じ香り…!?
さらに驚くことに、拾い上げたハンカチは、美香に見覚えのある物だったのだ。
ーえ…?これって、私が譲にあげたエルメスのハンカチと同じ…。
全身の血の気が引いて、少しよろけそうになったが何とか立ち上がる。そして、恵里奈にハンカチを渡しながら、思いを抑えきれずに尋ねた。
「これって、男性もののハンカチよね…?太一君の…?」
すると彼女は、口を横に大きく開け、三日月のような目をして不気味にニタァっと笑う。そしてクスクスと可笑しそうに言った。
「やだ、太一さんはブランド物になんか興味ないですよ。これは、ある大事な人からもらったんです」
「大事な人…?」
美香の問いかけに「えぇ」と意味ありげな顔をして微笑む。その瞬間、美香は全身に悪寒のようなものを感じた。
ーこの子に近づいては、ダメだ…
本能的にそう感じる。恐怖と気持ち悪さで吐き気を覚えた美香は、「じゃあ、電車の時間があるから」と足早にその場を去ろうとする。
すると、恵里奈が後ろから大きな声で呼びかけた。
「美香さん。私の言うこと、聞いた方が良いですよ?風水、結構当たりますから。オレンジのカーテンも、ちゃんと使ってくださいね」
美香は彼女の方を振り向くことなく、一心不乱に走り去った。
この冷たい夜風が、自分にまとわりつく彼女の不気味な空気を一掃してくれないか、と願いながら…
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恵里奈の目的は夫の譲?それとも…?彼女の暴走はエスカレートしていく…