ー 東京都港区、会社役員、橋上恵一容疑者(41)を業務上横領で逮捕

仕事を懸命にこなし、家族を思い、夢を追いかけ、

そして私は破滅した。

『人生の一番はじめから記憶を遡って、特に印象に残っている出来事を思いつくままに書いて、私に送ってください』

教育心理学者である飯島の分析のため、刑務所で自分の記憶を手記にする作業を開始した、橋上。

ーいつから間違ってしまったんだろう…?

貴方にはわかるだろうか?
IPOまで果たした優秀な彼は、「いつから狂っていたのか」。




「橋上さん」

「…なんだ?」

「…お兄さんはどこへ行ったんですか?」

笑いながら飯島が言う。

「調べました。あなたは、長男です。お兄さんなんていません」

頭の中で、電灯に蛾が衝突するときの電子音のようなものが響き渡った。

昔、よく聞いた音だ。

手記を書いていて気づいたことがある。

私の記憶に色はあまりないが、音だけは鮮明だ。






ージジ…ジジジジ…バチンッ

ージジジジ…バチンッ

深夜、私はその光景を見ているのが好きだった。

ー理科で教えてもらったことと違うな…

先生は言っていたはずだ。

「蝶は昼間に行動するが、蛾は夜行性だ」と。

…ではなぜ。

なぜ蛾は街灯に群がるのだ。光が大嫌いだから夜行性なはずなのに。

ーバチンッ…バチンッ

何度も体当たりを繰り返し、どんどん弱々しくなり、小刻みに震え、そして、死ぬ。

私は地面に落ちた一匹をつまみ、両面筆箱の消しゴム入れの部分に死骸を収めた。

指の粉をズボンでぬぐう。



翌日の放課後、先生に質問をした。

ー 先生、どうして蛾は電灯に体当たりをするんですか?

「なんだ、橋上は虫が好きか?」
「はい、大好きになりました」

この場合、言い方は”大好きです”より ”大好きになりました”のほうがいい。

教師というものは、自分が教えたことで生徒が興味を持ったことがわかると、よく喋ってくれる。

「それはな、橋上。月と勘違いしてるんだ」

「月?」

「大昔から、蛾は月の光をあてにして飛んでたんだ。方向を間違えないように。

今でも月が大好きだからつい近寄るんだけど、それは月じゃないから、自分が焼かれちゃうんだよ。

でも、やっぱり大好きな気持ちのほうが強いから、わかってても何度も近づいちゃうんだ」

「…近づいちゃダメってわかってるのに、死ぬまでやるんですか?」

「ハハッ、死ぬまではやらないだろ」

なんだ、先生でもそこは知らないんだ。教えてあげなきゃ。

「先生」

「ん?」

「…死ぬよ」

私は筆箱を開けて先生に見せてあげた。

自分が蛾に興味を持った理由がわかった気がした。この筆箱の蛾は、友達だ。

先生が、私を下から上にゆっくりと舐めまわすように見て、微笑む。

「…橋上、ちょっと理科室に行こうか?」

ージジ…ジジジジ…バチンッ

再び音が鳴る。

私は、刑務所の医務室で目を覚ました。


貴方は分かっているか。自分の精神老化が何段階目にあるのかを。




精神老化の5段階(5 Stages of Mental Aging)



5日後。

医療プログラムを終えた私を、受刑者たちが運動場で取り囲む。勤務医から聞いたところ、私は突然気分が悪くなり、その場で倒れてしまったそうだ。

「恵さん、心配したよ」「もう大丈夫なのか?」

面白いことに、彼らは通り一遍の挨拶を済ますと、必ず「長期間気を失った状態」とはどういうものかを聞いてきた。

夢は見る?お腹は空くの?

精神的な年齢が若いのだな、と思った。素晴らしいことだ。

精神の老化段階というのをご存知だろうか。

人間は、『自分の知らないこと』を見聞きしたとき、実年齢には関係なく、以下のいずれかの反応をする。

段階1(幼児期〜少年期):全てを受け入れる
段階2(青年期):「へぇ」と興味をもつ
段階3(成人期):「本当?」と疑う
段階4(中年期):「嘘だ」と断定する
段階5(老齢期):無関心

受刑者は段階1〜2の者が圧倒的に多かった。老化を成熟と呼ぶのであれば、彼らは未成熟だ。さすがは犯罪者である。

彼らをコントロールするのは容易だな、と思った。

ところで、この学術的段階を、実社会において何と呼んでいるかご存知だろうか。

「やる気」だ。

とんだジョークだ。

刑務所の外にはやる気のない大人が満ち、刑務所には、やる気のある大人が満ちている。



若く、色白の受刑者がベンチに座りながら、ずっとこちらを見ている。

確か、代田といった。

犯した犯罪は、受刑者の中で好かれるものと嫌われるものがある。『婦女暴行』は、最悪の類だ。

現代の刑務所が安全だなどというのは、関係者の広報活動に過ぎない。…嘘だ。

通りすがりに彼の目を突く者を見たことがある。器用に反対に折れ曲がった小指は、元に戻ることはないだろう。

皆、離れると妻と娘を想うそうだ。微笑ましいヒューマニズムである。

「橋上さん」

代田が両手を脇に挟んで腕組みをしながら、近づいてきて言った。

彼もまた、学んでいる。

「すごいですねぇ。みんな、橋上さんが大好きだ」

「…おかしなものです。ちょっと気を失っていただけなのに」

私は、自分が何者でもないことを伝える。

すると、代田は思ってもないことをつぶやいた。

「…本当?」

この中に1人、成人段階のものがいた。

人は、恐ろしい速さで中年になってしまう。4段階目の反応を思い出して欲しい。

中年は厄介だ。

早く、早く手記を完成させなければならない。


そして恵一の人生を決定づける出来事が起こる。




通学路


「橋上くん・・・」

下校中、クリーニング屋のあたりで声をかけられた。同じクラスの米倉さんだ。喋ったことは無い。

私にはもう友達はいなかった。あの筆箱があれば十分だ。

「なに?」

今日初めて声を発したため、相手に聞こえたのか少し不安になる。

「今度さ、誕生日会やるんだけど、来てくれないかな?」

驚いた。なぜ私を誘うのか。

母親の顔が浮かぶ。

友達の、特に家族と仲良くすることは絶対に禁止されていた。

逡巡し、私は聞いた。

「…いつ?」

週末であることを期待した。この頃になると、週末の食事が無かった。

平日は給食がでるが、週末は親がいない。塾がないので、電話台の上に命綱の100円を置いてもらえない。

金曜日は、給食を工作袋に詰め込んで持ち帰ったが、献立表を見る限り、しばらく金曜日はパン以外が続いた。

困った、持ち帰れない。

クラスの子供たちは、パンじゃないと喜んだが、私は絶望した。

「日曜日だよ」

素晴らしい。大きな袋をもっていこう。プレゼントを「持って帰る用」の袋を。

一体全体、みんな生まれてきたことの何がそんなに嬉しいのだろうか。

私の「生」についての精神的な関心のレベルは、すでに老齢期に差し掛かっていた。

それでも、お腹は空く。肉体が逆の反応を示すことがおぞましい。

「わかった、行くよ」


やっとわかった。いい子にしていたからダメだったんだ。


お金



日曜日。

人生で、本当のお金持ちを知ったのはこの時だった。親戚も友達もいなかった私は、他人について限られたサンプルしか知らなかったのだ。




米倉さんの家と思わしき場所に着いてから、入口の門をくぐり、家屋まで暫くの時間歩く。

玄関をあけると、天井から吊るされたシャンデリアを庇うようにして、両側から2階への螺旋階段が伸びている。まるで絵本で見たシンデレラのお城のようだ。

ー 階段から誰も降りてこない違和感を除いては。



ジュースを飲んで、適当にファミコンをやって、プレゼント交換をするとばかり思っていた私は面食らった。お金持ちは、大概クラスの人気者になるが、米倉さんはそれを隠していた。

しかし、さらに驚いたのは、誕生日会に呼ばれていたのが私1人だったことだ。

「お母さんがね、『普段仲良くない友達を呼びなさい』って言うから!」

声のトーンが大きい。早口。…嘘だ。

白いテーブルクロスのかかった食卓には、ETの映画の冒頭でみた宅配のピザに、ロッテリアのハンバーガー、それにケンタッキーが並んでいた。

ケンタッキー。クリスマスに見て以来、一度口にいれてみたかった。

不釣り合いな野菜炒めもある。昔学校で教わったのと同じ色だ。

すぐにわかった。

親に愛されていないんだな。

彼女は、私を『仲間』だと思って、必死の思いで呼んでくれたのだろう。

仲間。

…ふざけるな。
冗談じゃない。

お前と俺とは、違うぞ。

お前には、お金があるじゃないか。



大きな疑問が解決した気持ちになった。

そうか、そういうことか。

お金。お金があれば毎日お腹いっぱいになれるんだ。

すっかり勘違いしていた。いい子にしていれば食事がもらえると思っていた。

全く違う。なぜなら僕は、いい子だ。

僕もお金持ちになろう。

それで、白いテーブルクロスいっぱいに、ケンタッキーを並べるんだ。

私は一目散にケンタッキーの箱から、細長い台形の揚げ物のようなものをつまみ、口に運んだ。

「…フライドフィッシュっていうんだよ」

米倉さんが不安げな声で教えてくれた。

ーなんだ、チキンじゃないのか。

私は返事をせずに食べ続ける。

なんて、なんて美味しいんだろう。昨日は何も食べていない。

私は1人で食卓に並ぶ食べ物を一心不乱に口に運び続けた。

「たくさん食べてくれて嬉しい…」

指についた油をズボンでぬぐう。

途中、トイレで何度も吐いた。再び食卓へ戻って食べ続ける。いくらでも食べれた。

「食べないの?」

「ありがとう。私は、もういいの」

トイレで、『ウォシュレット』というものを初めて見た。吐きながらボタンを押すと、顔に水がかかった。心地いい。

顔に水を浴びながら、私は決意した。

ーフライドフィッシュを毎日食べれるように、お金持ちになろう。

夏場に不似合いなフランネルのシャツの袖で顔を拭き、私は再び食卓へ向かった。




食事を終えると、米倉さんは家の中を案内してくれた。嬉しそうだった。子供らしく振舞いたかったのだろう。私はそれに付き合った。

途中にある部屋の前で、彼女は一瞬固まった。

目を伏せて通り過ぎようとするのが、私にはすぐわかった。

だが、無視した。

そんなことに興味はない。環境への理解者を増やすことなど、なんの解決にもならない。

思い切って先生に相談したら、あの理科室のザマだ。

ー米倉さんには、感謝している。彼女は大切なことを教えてくれた。笑顔の綺麗な、優しい女の子だった。

4か月後、「生」について、彼女は精神も肉体も関心を持つことを拒んだ。

ー僕は違うよ。

放課後、私は筆箱から友達を取り出して、米倉さんの机の上に飾られた花瓶の中に、そっと入れてあげた。

もう目標はできた。この友達も、要らない。



「橋上。面会だ。」

刑務官が私を呼ぶ。

おかしい。誰だろうか。あれ以来、手記を送れていないので、飯島は来ないはずだ。


そして恵一は、もう1人の化け物と対峙する。




面会室で弁護士と向き合う。

いつ見ても、つまらない顔だ。貧相な口元が小銭を、腫れた目蓋は性を欲する、典型的な中年の顔相である。

詳しくは知らないが、日本の刑事裁判の有罪率は99.9%とも言われているそうだ。1,000回に1回の勝利を請け負う仕事では、さぞや満たされぬことだろう。

むろん、いかに「適切な刑量となるか」も争点になるが、今度の場合、肝心の私が全く減刑を求めていないため、彼は単なる「手続き屋さん」に過ぎない。

そして、その手続きは、終わったはずだ。

彼についての考察はこれで十分だろう。

では、

その後ろに控えている、薄汚いトレーナーを着て腐りかけた、

この老人は一体誰だ。




弁護士の声がBGMのように流れる。

「面会許可を取るのに長らく時間を要しました。彼の場合、家族でもなく、仕事上の重要な関係者でもなく、出所後の身元引受人にもなり得ないので。橋上さんご理解ください、血縁と家族は違うので・・」

ージジ…ジジジジ…

例の音がする。

まだだ。まだ待ってくれ。もう少し見たい。花瓶にいれてあげただろ?

彼を凝視する。

間違いない。

父だ。


ねえ、見せてあげるよ。




沈黙が続く。

気まずさは無いが、この薄汚れた老人に話すことが思いつかない。

総入れ歯の口をもぞもぞさせて、父が口を開く。

「…恵一か?」

異常な程にかすれた声。蒸留酒の甘い匂いがする。咽頭癌か。
そして30年ぶりの一言が、”名前の確認”であることに多少驚いたが、しかしこの男はこのレベルだろう。

「………」

再び沈黙が続く。

「…話したいことがあるから、会いに来たんじゃないんですか?」

私は弁護士のほうに視線を流しながら喋る。

死に際に息子に会いにくるようなエセヒューマニズムでもまだ持ち合わせていたのか。それとも、報道で私の財産を知り、物乞いしに来たか。

犯罪者の一般財産がすべて没収されるわけではない。私には十分な財産が残っている。とんだマルキシストのエンディングだ。

「………」

喋らない相手と向き合う時間はない。手記を完成させなければならない。

刑務官に、面会を終えることを目で伝える。

弁護士が口を開いた。

「恵一さん、すいませんね。私も正直なところ困っておりまして。お父様のおっしゃられていることが、どうにも理解し難いもので」

「何を言ってるんですか?」

私が聞き返す。

「恵一…」

しゃがれ声の父が再び私の名前を呼ぶ。

「恵一、悪いことをしたな」

再び、予感がした。だが、嫌な気分ではない。

そうか、予感ではない。

これは、「期待」だ。

「大輔を返しに来た」

ーああ、そうだ。

飯島にも言われていたんだった。兄は、どこへ行ったのかと。

会いたかった。

すこし意地悪で、でも怖いときに一緒に寝てくれる優しいお兄ちゃん。

お母さんに、僕のかわりに怒られてくれるお兄ちゃん。

聞いてよ、お兄ちゃんがいなくなってから、僕、大変だったんだよ。

そうだ、お兄ちゃんに、見せてあげるよ。

僕がたくさんご飯を食べられるようになったところを。





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