◆前回までのあらすじ

元恋人に「スキがない」とフラれた大手ディベロッパーに勤める美姫は、半ば自棄になって外資系コンサル勤務の拓海とビアバーで出会い一夜を共にする。多忙な二人だが、お互いの価値観や性格が妙に合い、すぐに交際に発展するも…。

▶前回:バーで相席したコンサル男子と一夜のあやまち。後悔する32歳女に、男がかけた言葉とは…




コンサルの男/美姫(32歳)の場合【後編】


毎週金曜、学芸大学の『Another8 Corner』。

その夜も美姫は、いつもと同じ時間に拓海と待ち合わせをし、ビールを酌み交わしていた。

「すごいね。同期の出世頭ってこと?」

「ううん、新規プロジェクトのポジションリーダーってだけ。一時的だから役職的にはまだまだよ」

コンサルの拓海と交際しだして、3ヶ月ほどが経つ。その間、美姫の仕事も飛ぶ鳥を落とす勢いで絶好調だった。

「だけど、尊敬するよ。先輩を追い越したんだろう」

「ふふ。拓海に尊敬するって言われるのが一番うれしい」

拓海とは会社も仕事内容も違うため、素直に成果を報告ができ、称え合うことができる。すなわち、高めあえる関係だ。

しかも、お互い忙しいもの同士、気を使わずに仕事に没頭することもできる。拓海との交際が、何もかもうまくいっている要因のひとつであることは明らかだった。

拓海からの連絡は夜のみで、決まった時間にしかない。だが、美姫も必要連絡以外でのやりとりは苦手のため、むしろそれで十分だ。いまは時間を有意義に使えている実感がある。

― この関係、私にとっては最高かも…。

頑張ったご褒美に、拓海と過ごす金曜の夜と土曜日が存在する。1週間はこの時間のためにあるようなものだ。

「ところで…」

会話が途切れたタイミングで、拓海が美姫に尋ねた。

「なに?」

「この前、行きたいって言っていた旅行の件はどうなった?」

先日、何気なく提案した旅行の希望を、拓海は本気で前向きに考えてくれていたことを嬉しく思う。心弾ませながら美姫は答えた。

「あ、そうだね。ぼんやりとだけど、南の島に行きたいかなと思ったり」

「──え?」

彼の眉間がピクリと動いたような気がした。


「南の島って例えば?軽くっていうから箱根辺りを検討していたけど」

拓海はどこか問い詰めるようなニュアンスで美姫に尋ねた。

「あ…別に箱根でもいいよ」

「いやいや、ダメとは言ってない。コミュニケーションとらず、ヴィジョンを共有できてなかった自分が悪いんだ。じゃあ南の島である理由って何かな。あと、どういう旅程をイメージしてる?」

答えに窮する。冷静に考えればいつもの彼と変わらない口調と内容ではあるが、自分に非があるため、動揺してしまった。

「ごめんなさい。特に理由はないけど…旅程は来週までに考えておくね」

「仕事が忙しいかもしれないけど、頼むよ。あと、日程の案も。それをふまえて僕も何か提案するから」

「うん…」

そう言うや否や、拓海はお手洗いに立つ。美姫は気晴らしに、手元のスタウトビールで喉を潤した。

以前も飲んだことのある銘柄のビール。けれど、前に飲んだ時よりも、苦いような気がしてならなかった。



翌日の土曜。夕方に拓海と解散後したあとは、日曜日の深夜までずっと、数案の旅行プランを練り続けた。また次の金曜に控えた“プレゼン”に備えるためだ。

しかし、週が明けた月曜日──。

眠い目をこすりながら美姫が出社すると、社内は騒然となっていた。

「なんですか、この雰囲気」

デスクで受話器片手に慌てていた直属の上司に尋ねると、顔面蒼白になりながら答える。

「大変だよ、例のプロジェクトが中止になる」




「え!?」

美姫はそのまま、チームメンバーと共にカンファレンスルームに招集された。どうやら、プロジェクトの遂行に重要な影響を与える法令が、改正されることが決まったそうだ。

つまり計画は白紙、あるいは仕切り直し──。

― 信じられない…今まで頑張ってきたのに。

美姫は呆然としながら、報告と今後の方針を聞く。

はじめて美姫がポジションチーフに抜擢されたプロジェクトだった。多忙な日々と思い描いていた未来が全て無になった現実は、絶望という言葉がふさわしかった。

しかし、すでに決まったこと。じたばたしてもどうしようもない。ただただ、やるせなさだけが胸に重くのしかかる。

― 拓海に会いたい…。

ふと思ってしまう。重苦しさのなかで浮かぶ恋人の顔。いますぐに、抱きしめて欲しかった。それだけ、気持ちがどん底に落ちていた。

しかし、今日はまだ月曜だ。約束の金曜まで、1週間近くある。

『今日の晩、会いたいの』

気がつけば美姫は、デスクに戻るなりLINEを開き、彼に連絡をしていた。業務中であることはわかっている。だが、手を付ける仕事もなく、よりどころは拓海しかなかった。

『まだ月曜だけど、今晩少しだけ、時間取れないかな』

『いつもの店で待っている。会いたいの』

『まだ?』

たった一言でもいいから拓海の言葉がほしくて、何通もLINEを連投する。拓海と繋がる。それだけで救われそうな気がしたから…。



『ごめん。今日はムリだね』

既読もつかぬまま、夜を迎えた。いつもの店・『Another8 Corner』で美姫が待っていると、拓海からやっと返ってきたのは予想通りのあっさりとした文面だった。

しかし、それでも彼の温度が欲しかった。

『ごめん…、ちょっと色々あって。電話もダメ?』

無情な返事は矢継ぎ早に届く。

『ダメだよ。これからジムに行ってサウナ』
『明日も仕事だし、こんな慌ただしい状態で会ってもお互い不幸だよ』
『用件ならテキストでお願いできるかな』




端的に発せられる文字の奥から、テキパキとジムに行く準備をしながら、音声認識でLINE入力をしている様子が想像できた。

美姫は大きくため息をつく。

『ならいいです』

それ以上、何も送れなかった。できない圧があった。

― わかっていたことだけど…。

仕事での憂き目に、拓海からの冷たい対応。ダブルのショックに耐えかねて、美姫は肩を落とす。

冷たい態度に見えるが、これが拓海の通常運転だ。自分が勝手に期待しすぎていただけ。だからこそ、気持ちの行き場がない。

思わず、涙が一筋流れていた。

自分がこんな感情的になるのは久々だ。元カレと不可解な別れ方をして、むしゃくしゃした時以来だろうか。

すると、カウンターの隣の席から、美姫に声がかけられる。

「──お姉さん、お腹減っていませんか?」


隣には、40代後半ほどの女性がひとり座っていた。

この店では、初めて見る顔だった。スタイリッシュなこの店には少々場違いな部屋着のような服装だが、スタッフとも親しげに話していて、明るく華やかな雰囲気がある。

「ねぇねぇ、おイモすき?ちょっと食べない?」

女性の目の前には、いくつもの料理がのったお皿が並んでいた。

「お腹が減っていたからついつい頼みすぎちゃったのよ。あ、まだみんな手を付けていないから、食べるなら今!どうぞ」

赤の他人とひとつの皿をシェアすることには、いまだ抵抗がある。しかし、ポテトをはじめ、自家製の麻婆豆腐、冷製レバーなど、どれも美味しそうだ。

美姫はふと、朝ご飯以来、何も食べていなかったことに気づく。仕事のショックで失われていた食欲が、にわかに刺激された。




「じゃあ、お言葉に甘えて…」

それぞれ一口分ずつ取り皿にとりわけ、まずは麻婆豆腐を味わった。

「美味しいです!」

「どれどれ…あら、本当に美味しいわねえ」

女性は祐天寺に暮らすパート主婦で、ダイエットでウォーキングをしていたらここにたどり着き、ふらりと入ってしまったという。

「ダイエットしているのにビアバーなんて、いいんですか?」

「人間だからね〜。まあいいじゃないの」

女性の適当さに、美姫は思わずププッと吹き出す。彼女のまるくはち切れそうな笑顔を見ていたら、さらにお腹が減ってきた。

「あの…もっと食べてもいいですか」

「どうぞどうぞ。お代とかお礼は考えなくてもいいからね!」

夢中になって食べるなかで、美姫の脳裏には、元カレの捨てゼリフがふたたび蘇ってきていた。

『スキがないんだよ。一緒にいると息がつまるんだ──』

隣の女性と接したせいなのだろうか?それとも、拓海のとりつく島もないような態度のせいなのか。

どちらにせよ、元カレが言っていたことの意味が、美姫は今ならわかる。胸の奥につかえていたものがとれ、心の底から深い呼吸ができているような気がした。

「よかった〜。泣いていたから何事かと思ったけど、元気出てきたみたいね」

女性は涙の理由も聞かず、美姫の背中に手を触れる。嫌な気はしなかった。



お腹も心も満されて、美姫は店を後にした。

月明かりの夜空は、拓海と初めて会った日とまるで同じだ。そんなことを考えながら、美姫はほろ酔いのまま歩き出す。

拓海と会えなかったことなど、どうでもよくなっていた。

けれど…。

「…美姫!」

ふと、聞き覚えのある声に振り向く。




どういうわけなのか、そこに立っていたのは、さっきまで会いたくて会いたくて仕方のなかった人だ。

「あれ、拓海。ジムは?」

「いや、今日は別にいいよ。それより美姫に会いたくなって」

「え、じゃあ連絡してくれればよかったのに。そんな、急に会いたくなったなんて、なぜ…」

美姫は、言葉をとっさにのみこんだ。

そして思い返す。拓海との出会いのきっかけが、むしゃくしゃした感情と、何気ない会話と、自分本位な勢いだったことを。

「…とにかく、よくわからないけど、今行かないとダメな気がしたんだよ。急に顔が見たくなって」

たまにはロジックで説明できないような、感情に身を任せることがあってもいい。それがたとえ非合理な時間であったとしても…。

美姫に会いに来た拓海の顔と声は、衝動そのものだった。

拓海にどんな心の葛藤があったかは分からない。ただ美姫は、自分と共に彼の変化をも実感する。

― きっと私たち、似た者同士なんだろうな。

拓海は何も言わず、美姫の手を握った。

明日も朝が早い。仕事の心労で疲れている。だけど今日だけは、二人並んで歩きたい。美姫はそう思った。

「これから拓海の家、行ってもいい?」

「いいけど…」

そんな美姫の気まぐれにもかかわらず、ひと晩じゅう、拓海はただただ寄り添ってくれたのだった。

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