東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:元彼が忘れられない。思い出の場所で感傷的になった37歳女は思わず勢いで…




Vol.7 <カフェ・コン・セルベッサ> テオ・クルース(27)の場合


8月に東京公演を控えた舞台の稽古は、まるで東京の夏そのもののように、日に日に熱を帯びてきている。

けれど、ほんの端役としての出番しかないテオは、通し稽古のない今日はまるっきりやることがなく、すっかり休日を持て余していた。

「あ〜。せっかくの東京なのに、暇すぎる…。リサはすっかり仕事モードだし」

10歳年上の恋人であるリサは、テオの舞台の共演者だ。

といっても、テオは末端にかろうじて名前が載る程度の端役なのに対し、リサはメインキャスト。

その責任の重さは比べものにもならないのだろう。リサは東京に来てからというもの、来る日も来る日も稽古に魂をぶつけ続けている。

いつでも全身全霊で仕事に挑むリサは、10歳年上とは思えないほど輝いている。そんなひた向きなリサを、テオは心から美しいと思っていた。

― それにしても、リサってほんと真面目だよな。多分あれは、“ヤマトダマシイ”ってやつだ。日本人の血が俺よりずっと濃い。

ホテルのバーでリサが過去の過ちを悔やんで悶絶していたのは、1週間前のことになる。

若い時にプロデューサーと寝たことがある…なんて、テオにとっては本当に取るに足らない過去にすぎない。

だからこそリサのあの落ち込みぶりには、あまりの感覚の違いに心底驚かされた。

あの夜のいじらしいリサの姿を思い出しながら、テオはシティホテルの狭いシャワーを浴びて考える。

― だいたいリサは、心がキレイすぎるんだ。そんなことを言いだしたら、俺だって…リサを利用してるのに。


リサとの出会いは、2人が暮らすニューヨークで開かれたあるパーティーだった。

アメリカとスペインと国は違えども、お互いに日本とのハーフ同士ということで意気投合し、あっという間に恋人になった。

けれど、テオが「リサと特別な関係になりたい」とまず思ったのは──相手がほかでもない“リサ・ミヤタ”だったから、ということもある。

アジア人ハーフでありながら、ブロードウェイで一目置かれる実力派女優。

そんなリサのそばに居れば学ぶことも大きいだけでなく、あわよくばチャンスを掴めるのではないか…という野心が、テオには少なからずあったのだ。




今回、端役ではあるものの海外公演まである舞台にキャストとして登用されたのは、テオの実力だけではない。

コネがものを言う演劇界の話だ。メインキャストのリサに口添えしてもらったことが、一番の理由と言っていいだろう。

けれど、それが何だというのか?

チャンスはチャンス。役を手に入れないことには、スタートラインにも立てないのだから仕方がない。あとはそれに恥じないような実力を見せて、観客を唸らせることができれば文句はないはず。

こういう考え方をするところが、リサに「若者らしい合理主義で、信じられないほどドライ」と言われる所以なのだろうか。

― いや。でもどう考えても、こういうふうに生きた方が楽だろ。

しばらくモヤモヤと考えていたテオだったが、シャワー後の肌に化粧水を叩き込みながらそう結論を出すと、シャツを羽織って品川のホテルを後にする。

外に出るなりむわっとした湿度を帯びた暑さに襲われ、テオはそれ以上小難しいことを考えるのをやめた。




品川駅から山手線に乗りテオが向かったのは、昼下がりの原宿だ。

人生のほとんどをニューヨークで過ごしているテオだが、原宿には特別な思い入れがある。

母の両親…つまり、テオの祖父母の家はかつて千駄ヶ谷にあった。幼少期のサマーブレイクの時期には、そこに長期滞在して原宿までよく遊びにいった。

「ふーん、あの頃とはずいぶん様子が変わっちゃったんだな…」

目の前に広がる原宿の景色は、20年近く昔の記憶とはすっかり変わっている。

けれど、そうは言ってもごちゃごちゃとユニークな店舗がひしめき合う様子は少年の頃と変わらず、まるでおもちゃ箱のようにテオの好奇心を刺激するのだった。

カラフルでポップなアパレル。

道路を走るゲームから飛び出てきたようなゴーカート。

ゆるキャラのような小動物とのふれあいスポットに、アニメみたいにキュートなお菓子と女の子たち。

カッティングエッジとノスタルジーの狭間でキョロキョロと目移りしながら散策していたテオだったが、東京特有のむせ返るような暑さの中では、一日中フラフラとうろつき続けるのは難しい。

喉の渇きはとっくに限界。そのうえ少し陽の翳り始めた原宿のはずれは、幼い頃の心細さを呼び起こそうとしているかのようだ。

ふいに妙な心細さに襲われたテオは、敢えて小さく声に出してみる。

「どっか入って、なんか飲むか…」

シャツの襟を引っ張ってパタパタとあおぎながらあたりを見回すと、ちょうどテオの目に飛び込んできたものがある。

それは、ギラギラとした西陽に負けないほど明るいネオンを掲げた、ミュージックバーの看板なのだった。

― へえ、ミュージックバーね。いいじゃん。俺、日本のミュージックわりと好き。

網膜に焼き付くような明るいネオンと、無機質なコンクリートの建物。

軽い思いつきで店に入ることを決めたテオだったが、重たい金属の扉を押し開けた途端、押し寄せる津波のような重量のある音に圧倒させられた。

どうやらこのバーは、クラブの要素を大いに盛り込んだ類の店らしい。

店の奥に構えられたDJブースには人だかりができており、アメリカでも知名度の高いジャパニーズシティポップをドリルと融合させた音楽に、多くの若者たちが体を揺らしながら陶酔していた。

「いいね…!」

にわかにワクワクとした気持ちを取り戻したテオは、そのうねりに身を投じる前にバーカウンターへと立ち寄る。

「ビールください!」

大音量の音楽に負けないように聞き取りやすい日本語で声を張り上げるが、カウンターの中の女性バーテンダーから返ってきたのは「Sure, right away!」というアメリカンイングリッシュだ。

キャッシュオンデリバリーで、ハートランドビールのボトルを受け取る。

乾いた喉に泡の刺激を流し込むと、さっきまでの心細さのことはもう考えずに済むのだった。




「おいテオ〜!お前はマジで最高なやつだな〜!」

「you, too. カイリ!」

何杯かのボトルとグラスを空にし、音楽に身を任せきったテオは、いつのまにかその場にいた数人の日本人の若者たちとすっかり打ち解けていた。

特にこの「カイリ」という男は、英語は全く話せないというのに、まるで昔からの幼馴染みであったかのようにウマが合う。

表参道のアパレル店員だというカイリは、同じブランドのスタッフ数人とこのミュージックバーに来ており、テオはもはやそのグループの一員となってにぎやかな夜を楽しんでいるのだった。

しかし…。


「てかテオ、お前もうグラス空じゃん!次何飲む?」

テオの空のグラスを見て、カイリがラミネートされた小さなメニューを放り投げてくる。

たった今までメニューの存在に気づいてすらいなかったテオは、お礼を言いながらメニューに目を通し、そして「Oh…」と小さく声を上げた。

ズラリと並んだ『Cocktail』の欄の、一番下。

誰も気づかないようなメニューの片隅に、「カフェ・コン・セルベッサ」と書いてある。

「カフェ・コン・セルベッサだ!」

カフェ・コン・セルベッサは、テオにとって日本以外のもう一つのアイデンティティーのある国・スペインのカクテルだ。

冷えたビールとブラックコーヒーを1対1の割合で注いだ、スペインのバルではお馴染みのカクテル。

ニューヨークでもお目にかかれることは少なく、早くに亡くなったテオの父が自宅で好んで作っては美味しそうに飲んでいたことを思い出す。

予期せぬ一杯を見つけて嬉しくなったテオは、瞳を輝かせながら意気揚々とカフェ・コン・セルベッサをオーダーする。

女性バーテンダーは手早くコーヒーとビールをグラスに注ぐと、「Enjoy!」とまたもや流暢な発音の英語でテオにグラスを手渡した。




キンと冷えたピルスナーグラスを引き寄せ、ドキドキしながら一口味わう。

くっきりとした苦味と切れ味が乾いた体に染み渡り、テオは思わず喉の奥から唸り声を絞り出した。

と、その時だった。

カイリの同僚が、不思議そうな顔でテオの手元を覗き込む。

「なにそれ?何飲んでるの?」

「カフェ・コン・セルベッサだよ、スペインでは人気のカクテルなんだ」

「ふーん…。どんなカクテル?」

「コーヒーとビールを半分ずつ混ぜたカクテルだよ」

ウキウキしながら伝えたものの、そこまで言った途端、男の顔が奇妙に歪んだ。

そして、眉根が寄るのを隠そうともしないまま吐き捨てたのだ。

「ゲェー、マジで?なんか…混ざってるなんて気持ち悪りぃな。コーヒーなのかビールなのかはっきりしろよ…」

「What…?」




『混ざってるなんて、気持ち悪りぃな』

面と向かって言われたそのセリフに、テオは衝撃を受けた。

胸にナイフが刺さっている。自分でも信じられないほどに傷ついている。

もちろん、テオのことを指したのではないことくらいわかっている。

それでも──。

スペインと日本のハーフとして生きてきたテオにとってその言葉は、我が身を重ねずにはいられない、辛い言葉だったのだ。

― ああ、俺…。なんでさっきまであんなに心細かったのか、完全に思い出した。

舌に残るコーヒーとビールの苦味が、そのまま苦い思い出と共鳴する。

アメリカにいても、スペインに帰っても、その国の人間にはなりきれない孤独に、テオはずっと悩まされてきた。

それは当然、日本も例外ではない。

『お前、何人?』

『なんで日本語下手なの?』

原宿での夏の思い出の中には、少年時代に投げられたそんな心無い言葉の数々も紛れている。

おもちゃ箱の中の、ガラス片のようなガラクタ。

その残酷な鋭利さから心を守るため、テオはいつのまにか「合理主義的で、信じられないほどドライ」な多国籍人としてのアイデンティティーを確立してしまっていたのだ。




― やっぱり俺みたいなやつには、どこにも居場所なんてないんだな。

たったの一撃で打ちのめされてしまったテオだったが、そんなテオの様子など意にも介さず言葉をかけてくる男がいた。

「テオ、結局何にした?」

明るい声の主は、カイリだ。皮肉にも、先ほどの男と同じセリフを投げかけられ、テオはがっくりとうなだれた。

「…カフェ・コン・セルベッサだよ、スペインでは人気のカクテルなんだ」

「へぇ〜、どんなカクテルなの?」

「…コーヒーとビールが、半分ずつ混ざってる…」

― はいはい、どうせその後に続く言葉は「気持ち悪い」ってとこだろ…。

けれど、身を固くして身構えるテオに、カイリは意外な言葉を投げかけた。

「へぇ〜!?なにそれ、めっちゃ最高じゃん!俺もそれ頼んでみるわ!」

言うや否や、カイリはあっというまにカフェ・コン・セルベッサを注文し、テオに向かってグラスを高く掲げる。

「イェーイ、カンパーイ!あっ、スペインのカクテルなら、サルー?ここは日本だし、融合してサルパイとか?まあなんでもいっか!」

そして、目にも留まらぬ速さで一気にグラスの中身を飲み干すと、「くぅ〜」と唸り声をあげながら弾けるような笑顔を向けるのだった。

「げぇ〜カイリ、気持ち悪くねぇのかよー」

「なーにが気持ち悪いんだよ!コーヒー、うまい。ビール、うまい。

うまいものとうまいものが合わさるなんてサイコーだろーが!」

先ほどの男からの苦々しい言葉にもあっけらかんと返すカイリの姿は、不思議とテオの心を晴らすだけでなく…ほんの少しの恥ずかしさを呼び起こすのだった。

― …そうだ。俺が、俺自信が自分を誇れなくて、どうするんだよ。

ふと、初めてリサの舞台を見た日のことを思い出した。

自分と同じ立場であるにもかかわらず、自分のアイデンティティーを誇り高く武器にして戦うリサに、一瞬で心を奪われた時のことを。

― せっかく俺に生まれてきたんだ。辛い思い出で、合理的でドライな人間になっちまったかもしれないけど…そんな“俺”という役を掴んだんだ。

あとは、このカクテルみたいに──出会う人たちを実力で唸らせればいい。

少し丸くなっていた背中を、テオは舞台役者らしくまっすぐ伸ばす。

そして、2杯のカフェ・コン・セルベッサを追加でオーダーし、眉をひそめる男に差し出した。

「そう言わず飲んでみてよ、ちょっと苦いけど、2倍うまいぜ。──Salud!(乾杯!)」

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▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト

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思いがけずテオのトラウマを救った快利(カイリ)。快利が一番好きなカクテルは…