◆前回のあらすじ

退屈な日常を送っていた奈那は、会社の同じ部署に異動してきた小嶋に個性的な魅力を感じる。急速に距離を縮め、ランチを共にする仲になった。スパイスからカレーを作っているという小嶋に「ウチに食べにくる?」と誘われた奈那は…。

▶前回:「次は、俺の部屋で…」カレー店でデートしたら、女子を部屋に呼ぶことに成功したワケ




カレーをスパイスから作る男/奈那(28歳)の場合【後編】


土曜日の昼下がり。

奈那はひとり、小嶋が暮らす最寄り駅に降り立った。

「ここに小嶋さんが住んでいるんだ…」

実家暮らしの奈那が暮らす二子玉川とは、明らかに違った空気の街。奈那がやってきたのは、どこか自由で退廃的な空気が漂っている、中央線の高円寺だった。

彼が醸し出す雰囲気と似たものを街に感じながら、「男性の家に行く」という行動の意味を、奈那はじっくりとかみしめる。

小嶋は、ひとり暮らしだ。

彼の家に、お手製のカレーを食べに行くということは──。

後輩の美月や他の同僚に声をかけることも、初めは考えた。

しかし、結局は誰にも言わなかったのは、目的以外の“何か”を奈那自身が期待しているから。

― フィーリングが合うって、こういうことなんだろうな…。

小嶋も誰かを呼ぶ提案をしてこなかったことを考えると、気持ちはおそらく同じはずだ。

奈那は前を向いて歩き出す。手土産のケーキを携え、彼の家がある商店街のその先へ…。



「いらっしゃい」

部屋に到着しドアを開くなり、小嶋の笑顔と刺激的なスパイスの香りが奈那を迎え入れた。

「うわ、すごい香り……今日は、お邪魔します」

食欲と期待が、一気に高まる。小嶋のカレーが楽しみすぎて、奈那は朝からおにぎりひとつしか食べていなかった。

「昨日から仕込んでたんだ。まだ少し時間がかかりそうだから、DVDでも見ながらリビングでくつろいで待っていて。ケーキもありがとうね」

彼が住むのは、コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションだ。案内されたリビングの壁にはずらっと鮮やかなスパイスが並べられている。インテリアと称しても遜色ないほどの華やかさだった。

そのこだわり具合に圧倒されていると、キッチンからフライパンをゆする音と、パチパチとスパイスがはじける音が聞こえてきた。

― あれ?

そこでふと、ある疑問が浮かぶ。

― もしかして今、テンパリングをしているの…?


テンパリングとは、スパイスの香りを油に移す初期工程だ。仕上げに行うこともあるが、キッチンには今小嶋がゆすっているフライパン以外にカレーの鍋は見当たらない。

嫌な予感を抱きながらも、奈那は静かにソファに座って時を待つことにした。



― まだかな…昨日から仕込んでいたって言っていたけど。

日が高いうちに家を訪れたにもかかわらず、気がつけば窓の外は薄暗くなっていた。小嶋に渡されて観始めた映画『バーフバリ 王の凱旋』も、すでに見終えてしまっている。

部屋の中に充満するスパイスの食欲をそそる香りが、空腹に痛い。もはや拷問に近い時間だ。

「小嶋さん。持ってきたケーキ、食べていいですか…」

失礼を承知で、奈那は彼に申し出た。もちろん、密かに催促の意味も兼ねている。

「あと10分でできるから、もうちょっとだけ待って」

手元を覗くと、赤褐色のカレーがぐつぐつ煮込まれていた。ターメリックライスも炊き上がっている。

そして、鍋を真剣に見守る小嶋の横顔…。この姿が目に入ってしまったら、もう待つしかない。




いまにも爆音で鳴り響きそうなおなかの音を必死で抑えながら、奈那はもうしばらく待つことにした。

そして、それからさらに1時間後──。

やっとのことで、小嶋お手製スパイスカレーが出来上がった。

「すごい、美味しそう!!」

「ありがとう。遠慮せずにどうぞ」

小さなガラステーブルに所狭しと並べられた品の数々を、奈那はまず眺めた。

メインはもちろん、カレーライス。

ターリー風の丸い大皿プレートに乗せられたボウルには、鶏肉をほろほろ状態まで煮込んだサラサラのカレーが入っている。いくつもの粒や葉の欠片が混沌として、見るからにたくさんのスパイスを投入してあるということがわかった。

横には鮮やかな黄色いターメリックライスがこんもりと。付け合わせでマッシュポテトが添えられている。アツアツの湯気からはほんのり甘さとバターの香りが漂う。これもとても美味しそうだ。

自家製だという青唐辛子のアチャールも小皿に用意されていた。

カレーの赤。ターメリックライスの黄色。マッシュポテトの白。アチャールの緑…。

鮮やかで、見た目も意識した小嶋の完璧主義の精神も感じられた。副菜まで仕込んでいたら、昨日から今に至るまで時間がかかっても無理はない。

…と、奈那は無理やり思うことにした。




「いただきます」

まずはカレールゥを味わいたいと、満を持してスプーンでルゥをすくった。

― 念願の食事にありつける…!

奈那はそれしか考えられず、一直線に口元へとスプーンを運ぶ。

と、その瞬間だった。

「ちょっと待って!!!」

「…な、なに?」

小嶋が奈那の手をぎゅっと握った。ときめく暇も与えないほどの強引さと、激しい口調だった。

「まずはマッシュポテトとルゥとライスを、じっくりかき混ぜるの!」

「かき混ぜる?」

「そう、ぐちゃぐちゃに!三位一体ね。これが一番美味しい食べ方だから」

確かに小嶋は、ダルバートやミールスを食べるとき、いつもぐちゃぐちゃに混ぜて食べていた。現地の人の食べ方だというが、奈那はどこか抵抗がある。それ以前に、まずは空腹を満たしたかった。

「あ、あの…最初のひとくちだけでも、ルゥを味わっていいですか」

「だめだめ!騙されたつもりで混ぜてみてよ。ミールスも混ぜて食べるのが絶対にうまいから!」

お腹の減りは、とっくに限界を突破している。しかし、そうしなければ食べさせないような圧があったため、しぶしぶ彼の言う通りに全てを混ぜ合わせて食べてみた。

― 正直、イマイチ…。

熱に押され、口では「美味しい」と迎合すると、小嶋は得意げな表情で喜ぶ。

「だろー?」

普段の精神状態と空腹度合いの中で食べたら、美味しく思えたかもしれない。

結局、終始小嶋に作法を強要されながら料理を食べ切ることになった奈那は、お腹は満たされたものの、消化できない何かが胸の奥に残るのを感じた。


「ごちそうさまでした。美味しかったです…」

「納得いくまで作った甲斐があったよ。ねぇ、どこが良かった?」

食事の後、小嶋はご機嫌にインドビールを飲みながら奈那に尋ねた。

「ええと、個性的な風味とか…」

形容する言葉が見当たらず、奈那はしどろもどろになる。不本意にも独立した色々な味が混ざった状態で食べたため、表現のしようがなかった。

― …ん?

肩のあたりに何かが触れる。隣に並んだ小嶋の距離が、じわじわ自分に近づいてきている感覚があった。

逃げるように時計に目をやると、いつのまにか夜は更け、終電が迫っている。食べ始めたのが21時近い時間だったから当然だ。奈那は立ち上がり、鞄を手に取った。

「あ、もうこんな時間!」

「え、ケーキは食べていかないの?」

「それは…小嶋さんへの手土産ですから。今日は遅いので失礼します。本当にありがとうございました」

正直に言えば、ケーキは一緒に食べるつもりでセレクトしてきたはずだった。それでも今の奈那は、この場から立ち去りたい気持ちの方が強かった。




週明け。

小嶋と顔をあわせる気がおきなかった奈那は、午前中は外回りに出かけた。帰社後も、昼食は外に行く小嶋から逃げるように社員食堂に向かった。

彼が来ないことを祈りながら、食券機の前に並ぶ。だが、背後からその名前が聞こえてきた。

「小嶋さん…」

ビクッと肩を揺らし、おそるおそる声の元に目をやると…幸いなことに、見知らぬ面々だった。

「…って、いまどこでしたっけ?前、うちの部にいた」

おそらく、小嶋が前に所属していた法人営業部の若手社員たちなのだろう。奈那は気配を消し、会話に耳をそばだてる。

「小嶋さんね。確か、金融事業部だったはず。噂では、自分の好きなネパール料理店を勝手に予約して、歓迎会をしてもらったみたいだよ」

「らしい!相変わらずですね」

「一部を除いて大不評だったって噂だよ。仕事でも迷惑かけてなきゃいいけど」

「時間の問題だと思いますよ。彼、段取り悪いし、自分ルールの押し付けが半端ないですからね」

「にもかかわらず、結局ご自慢のカレーのレシピも、有名人の受け売りなんですよね。最近はサウナにもハマりかけてるって聞きましたよ」

背中で会話を聞きながら、奈那は心の中で静かに頷いた。




奈那は社員食堂のカレーセットを食べながら、その優しい美味しさをかみしめた。

誰にでも口に合う、その味…。

― 個性的な男性は、一緒にいて面白い。だけど私は、一緒にいて安心できる男性のほうがいいのかもしれない…。

スプーンを置いた奈那は、スマホを手に取り、お役所勤めの元カレの電話番号を検索する。

その時、ありきたりな普通の日々が、穏やかで幸せな想い出になっていることに気づいたのだった。

▶前回:「次は、俺の部屋で…」カレー店でデートしたら、女子を部屋に呼ぶことに成功したワケ

▶1話目はこちら:富山から上京して中目黒に住む女。年上のカメラマン彼氏に夢中になるが…

▶Next:7月23日 火曜更新予定
地味な理系女子がアプローチされたのは、なんとキラキラ笑顔の有名人で…