アート、歴史、エンタメ、英国&欧州カルチャーのライター宮田華子による、連載企画「日本の女性アクティビスト列伝」。ここでは、かつて人権獲得や平等な社会を目指して闘った女性活動家たちを特集。学校の教科書の一行にはとどまらない、彼女たちの功績を深掘りします。

とはいえ、ただ彼女たちの「すごさ」にフォーカスするだけではありません。こんなに素晴らしい女性たちがこれだけ頑張ったのに、多くの場合は、社会が彼女たちに向き合わず、扉は少し動いただけ。そして現在もなお、一部の問題は未解決のまま残されています。

彼女たちが闘った記録は皆さんへの「バトン」で、今は皆さんに託されています。平等な社会を作るための「次の一歩」を、一緒に考えてみませんか?

第一弾として取り上げるのは、明治から昭和にかけて活躍した女性解放運動家の平塚らいてう。つい最近、とある発言をきっかけにSNSで「#わきまえない女」が話題となりましたが、まさにらいてうこそ「元祖わきまえない女」なのです。

【INDEX】


元祖「#わきまえない女」平塚らいてう
『青鞜』創刊号で“吠えた”思いのたけ
唯一女子が通える大学に入学
当事者なのにどこか他人事の「心中未遂事件」
明(はる)ちゃんが「らいてう」になるまで
事実婚・夫婦別姓の先駆者
日本初の女性運動団体「新婦人協会」の創設
戦後のらいてう

元祖「#わきまえない女」平塚らいてう

「平塚らいてう」といえば、「らいてう(旧仮名遣い)」と書いて「らいちょう」と読む名前が印象的。

学校で習った彼女の功績は、1911年に青鞜社を立ち上げ、女性解放を目指した女性による文芸誌『青鞜』を発行したこと。

驚くことに、青鞜社立ち上げ当時、彼女はまだ26歳。『青鞜』は進歩的な女性からは大歓迎され、保守的な男性からはかなりの批判的な意見が寄せられました。当時、らいてうは実家暮らしだったので、平塚家には石が投げられたこともあったそう。

しかしらいてうは世間からの批判を、「気にしないから!」と断ち切って進むことができる女性でした。彼女の本当のすごいところは、100年以上前に「空気を読まないこと」を信念を持って貫き、女性差別や不平等の撤廃を目指して行動したことなのです。

『青鞜』創刊号で“吠えた”思いのたけ

まずは彼女の熱〜い信念を、『青鞜』創刊号(※1)に寄せた有名な文章を抜粋しながら紹介します。

(※1)16Pにわたる長文。原文は旧仮名遣いによるもの。以下は現代仮名遣いに筆者が修正。

元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。さてここに『青鞜』は初声を上げた。現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声を上げた。女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。

冒頭は、「本来は太陽のように自ら光を放ち輝いていた女性が、今や男性の後光を受ける“月”になってしまっている」ことを嘆いています。だからこそ、女性の頭脳と知性をフル稼働して新たな雑誌『青鞜』を発刊し、「『太陽たる女性』を取り戻す!」と高らかに宣言しています。

真の自由、真の解放、私の心身は何等の圧迫も、拘束も、恐怖も、不安も感じない。そして無感覚な右手が筆を執って何事かをなお書きつける。

そして、「私はもう空気なんぞ読まず、プレッシャーも感じず、自由に生きていく」との決意が語られた後…

自由解放! 女性の自由解放という声は随分久しい以前から私共の耳辺にざわめいている。ただしそれが何だろう。思うに自由といい、解放といい意味が甚しく誤解されていはしなかったろうか。

女性解放を力強く訴え、続く部分でかな〜り具体的に現状を叱っています。「女性に高等教育のチャンスや職業選択の自由、参政権を与え、親や夫から解放することも解決策だが、そんな程度では生ぬるい」とビシッと指摘。

さらに、今の世の中が女性にとって「不合理すぎる」と説き、「そんなことは少し考えたら『おかしい』とわかるはずなのに!」と吠え、下記に続きます。

しからば私の希(こいねが)う真の自由解放とは何だろう。言うまでもなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。

「女性の才能を発揮できる社会になることが女性の解放」と結論づけ、「私はそこを目指しますのでよろしく!」ときっぱりと言い切っているわけです。

これを読んで、らいてうを「まぁまぁ強めの女子ってことね」と思った皆さん、ちょっと待ってください。

これ、110年前ですよ。

当時女性は、「一歩下がって男性を立てる」ことが求められる風潮にありました。そんな時代に、「世間体なんぞ気にせず発言し、女性権利を主張しよう」と公的に言い切ることは、常識を覆した驚愕の行動だったはず。

女子が通える大学に入学

らいてうの出生名は、平塚明(はる)。明は1886年2月10日に東京・麹町で誕生しました。会計検査院に勤務する、今でいうキャリア官僚であった父の平塚完二郎と、名家出身の母つやの三女であり、いわゆる良家のお嬢様です。

父は国粋主義に傾倒し、娘にも同様の教育をほどこすようになります。しかし明はその教育にまったく染まらなかったようで、幼少期から「自由」を愛する少女でした。

「女に高等教育は無用」と考える父を何とか説得し、当時唯一、女子が通える大学であった日本女子大学(当時は「大学校」)に入学。しかし日本は日露戦争に突入し、大学も国家主義的、そしてより良妻賢母の教育になっていきます。

彼女のアクティビスト気質は生来のものなのかもしれませんが、親や学校の教育によってその気質が損なわれなかったのは、奇跡とも言えるでしょう。

当事者なのにどこか他人事の「心中未遂事件」

実は明、『青鞜』創刊の前にスキャンダル当事者として世間を賑わせていました。それは、1908年(明治41年)に起こった「塩原事件(または『煤煙事件』)」。明はなんと、心中未遂事件を起こしているのです。

明が当時参加していた文学講座「閨秀文学会」で出会ったのが、東京帝大出身で夏目漱石の門下生であった文学士の森田草平。彼にはすでに妻子がありましたが、二人は惹かれ合うように。

そして、交際して1カ月半が経った1908年3月21日、二人は駆け落ちし、心中するために、雪深い栃木県塩原温泉(現・那須塩原市)に向かったのです。

このとき明は次のような遺書を残しています。

「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」

ん…? 森田と「死んでも一緒になりたい」から心中するんじゃないの!?

その上、心中するはずだった雪の中で月に照らされた雪景色の壮大な風景に大感動。後に「何ともいいようのない有頂天な幸福感にひたっていました」とまで書いています。

おそらく恋愛というよりは、自己との葛藤や「死への興味」からの行動だったのかもしれません。翌朝、捜索隊に発見され無事保護されました。

明本人もどこか他人事の、奇妙な心中未遂事件。インテリとお嬢様が起こした同事件は、「スキャンダル」として新聞で大きく報道されましたが、明はこの事件について後に、「私がやったことは、かつてない大事業」と語っており、「女性解放について考えるきっかけになった」という分析が多くされています。

明が「らいてう」になるまで

事件から3年後、明は『青鞜』を創刊。スキャンダルで叩かれたものの、ただでは起きなかったのです。このときから使い始めた「らいてう」という名は、現在特別天然記念物に指定されている鳥「ライチョウ(雷鳥)」から取ったもの。

ライチョウは高山のみに生息し、「孤高の鳥」とも言われます。らいてうの毅然とした生き様を象徴するような粋なネーミングですね。

事実婚・夫婦別姓の先駆者

1912年、らいてうは5歳下の画家志望の青年、奥村博史(1889〜1964年)に出会います。1914年、二人は法律婚をせず、「共同生活」、つまり事実婚(※2)を選びました。家長と嫡出男子がすべてにおいて優先される従来の家制度や、良妻賢母を重視する結婚制度に疑問を持っていたからです。

らいてうは「平塚」から分家し、戸主として平塚姓を維持。二人の子ども(長男・長女)はらいてうの私生児(※3)として平塚家の戸籍に入りました。

当時、婚外子である私生児は差別の対象でしたが、あえて茨の道を選択し、世の中に婚姻制度や結婚にまつわる慣習の不平等さを問いかけたのです。今だってハードルの高いことを、110年も前にやったのです。よほどの覚悟に加え、「わきまえませんけど、何か?」と世間の批判を蹴散す信念があったのでしょう。

(※2)その後、私生児のままでは長男の兵役が不利になるため、2人は法律婚をし、らいてうの本名(戸籍名)は奥村明になっています。

(※3)民法旧規定。現在は「非摘出子」と呼びます。

日本初の女性運動団体「新婦人協会」の創設

らいてうは『青鞜』時代から活動の幅を広げており、論客としても注目されていました。1919年、市川房江、奥むめおらと共に、日本初の女性運動団体「新婦人協会」を発足。

女性の社会的・政治的権利獲得を“具体的に”求めて活動しました。1922年、同運動は女性の政治集会参加を禁止した治安警察法の修正に繋がっています。

戦後のらいてう

第二次世界大戦を生き抜いた、らいてう。戦後は女性運動に加え、反戦・平和運動にも力を入れました。日本だけでなく、世界に対しても反戦・軍縮を訴えた彼女。記録を見る限り、様々な団体の発起人・会長・委員を務めまくっています。

その数、「こんなに引き受けちゃって大丈夫なの?」というレベル。最後の最後までアクティビストとして生きた人でした。

最晩年まで声をあげ、精力的に執筆も続けたらいてう。胆嚢・胆道がんを患い、1971年5月24日に入院中の病院で死去。享年85歳でした。

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彼女の人生を年表で辿るだけで、闘いの最前線にずっと立ち続けてきた人であることがわかります。苦労もあったでしょうが、どこか飄々とやってのけた印象を受けます。

いまだに、ありとあらゆるところでジェンダーやマイノリティへの不平等が見られる現在の日本社会を、天国のらいてうが見たらどう思うのでしょうか。

自分の身を振り返り、「もう少し頑張らないと、らいてう先生に叱られる」と思ったのは、私だけではないはずです。

【参考文献】


『わたくしの歩いた道』(平塚らいてう・著)
『元始、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝』(平塚らいてう・著)
『わたくしは永遠に失望しない 写真集平塚らいてう人と生涯』(らいてう研究会編、奥村敦史監修)
『日本思想史の名著を読む』(苅部直・著)
『「青鞜」の女たち』(井手文子・著)
<平塚らいてうの会> 通信
その他ニュース記事など多数