今や社会人の2人に1人が転職している時代。総務省の労働力調査でも2017年も転職者数は300万人を突破したことはニュースになり、これからも転職人口は増加予測です。

そこで、本連載では、いい転職をした女性と、悪い転職をした女性にお話を伺い、その差は何かを語っていただきます。

田中美和さん(仮名・32歳・東京都出身)

転職回数……1回
転職した年齢……31歳
年収の変化……550万円→150万円
学歴……有名大学経済学部卒業

 イケてるのは自分だけだと思っていた……

私は四国地方出身です。地元の名門高校を出ると東京の有名私立大学の経済学部に進学しました。実家は歯科クリニックで両親ともに歯科医師。兄がクリニックを継ぎました。私は理系の勉強が全くダメだったので、歯科医至上主義の両親にしてみれば、最初から何の期待もしていない“かわいい末っ子”。幼い頃から欲しいものは何でも与えられ、特に勉強しろとも言わないのに成績優秀。ピアノ、作文、絵画……これらは努力しなくても学校代表になっていました。

大学進学を機に上京してびっくりしたのは、東京生まれの女の子がおしゃれなことです。私は正直、自分が一番イケていると思っていたのですが、それは大きな間違いでした。肌の透明感からして全然違うし、選ぶ服の色彩感覚が全然違うんですよね。ウチの両親も地元では“おしゃれな先生夫妻”ですが、東京に来たらただの田舎夫妻。サイズが合わない背広に、これ見よがしにブランドのネクタイを締めた父と、時代遅れのワンピースを着て自分でヘアセットした母は悪い意味で目立っていました。

外資系会社のインターンで世界を知る

父が持っていた品川のマンションに住み、毎月20万円の仕送りをもらっていたので、大学時代はバイトをせず、勉強をがんばりました。仕送りを使って英語スクールに通い、ビジネスの基本会話はできるようになってから、外資系企業の長期インターンに応募。書類選考の後に、英語での面接で、その日のうちに採用の電話をもらいました。入ってからはベトナムやインドネシアでエンジニアを採用する仕事のサポートをして、月10~15万円はもらったかな。それまで、東南アジアの国々に注意を払ったことはなかったのですが、現地の人は多言語が話せて視野が広い。私は18歳まで四国の狭い世界で育っていて、大学に入ってから知り合った友だちは、恋愛と目先の遊びのことしか考えていない。楽しそうに仕事をする東南アジアの同じ年のエンジニアたちと合い、「あ、日本はこれから負けていく」と思ったことを覚えています。

日本はもう遅れている。世界に羽ばたきたいと思うも、本心では大企業に入りたかった……

だからこそ、就職活動では、日本企業は受けず、外資系の名だたる大企業を受けて、撃沈。自信満々だっただけに厳しかったですね。長期インターンをしていた会社からは内定をもらっていたので、とても気持ちは楽だったのですが、本当に入りたかったのは、地元でドヤれる大企業か、才能を生かせるマスコミに入りたかった自分に気が付いてゾッとしました。

結果的に入った中堅企業で9年間頑張る

私は、「東京で誰にも頼らずに生きる、仕事がデキるカッコいい女」になりたかったんです。これは母の影響が大きいかな。“腕一本で生きていける”という自信が欲しかったのかもしれない。長期インターンにで入った会社はチームプレイの会社で、会社の歯車のひとつなら生きられるけれど、1人で社会に放り出されたら何の使い物にもならない。“換金しやすい自分独自の能力”を磨こうと思っても、どうしていいかわからなかった。

結局、新卒時は叔父のコネがあった不動産開発会社に就職しました。ここはショッピングセンターやホテルなどの開発を行なう会社です。地方の案件に関わることが多く、仕事を通じて、これからの時代は“地方創生”だと感じたのです。

この地方創生の専門家になれば、結婚してもしなくても、自分一人で生きて行けるだけのスキルになると思ったのです。新卒時に配属されたのは営業ですが「頑張れば、希望している開発部に行けるかもしれない」と思って、がむしゃらに仕事をしました。

でも、結局は希望の部署には行けませんでした、というのも、開発部は土地の買収などに関わるタフなネゴシエイターの集団。一級建築士や宅建の資格を持っている人も多くく、私にはムリな世界だったのですよ。

彼にフラれたことを機に、独立を決意する

独立を決意した30歳の時に、私は手痛い失恋をしています。3年付き合って、お互いの両親にも顔合わせしていた職場恋愛中の彼が、地元の高校の先輩を妊娠させてしまった。当時は仕事を辞めて、趣味程度に仕事をしようと思ってので、「ごめん、他の女性と結婚しなくてはいけなくなった」と言われたときはショックでした。肺の下あたりが「ヒイッ!」とひきつる感覚は今でも覚えています。

また、その頃、ウチの会社は自治体から仕事をいただくことが増え、私自身も地方自治体と太いパイプができていました。だから、私がずっとやりたかった「自治体のブランディングをする」という仕事のニーズがあることもわかりました。そこで私は、地方創生アドバイザーとして独立しようと決意したのです。

独立してからの本業は、食品のデモンストレーター。その職業を選ぶ複雑な理由があった。

みんなが「いいね、成功するよ!」と拍手で見送るも、腹の中では「バーカ」と舌を出していた〜その2〜に続きます。