誰かに何か頼み事をされた時、その場の空気でつい引き受けてしまったものの、結局負担となって後悔してしまうことはありませんか?

精神科医の名越康文(なこし・やすふみ)先生によると、自分の損にならない「承諾」の基準があるのだそう。断りづらい時、どう判断すればいいの?

親切心が自分を苦しめる原因に

前回、「軽はずみな承諾」をしてしまうのは、ファザコンの表れでもあり、現代社会の大きなテーマの一つであるという話をしました。

ただ、そういうファザコン的なものが要因になくても、「軽はずみな承諾」をやたら気前よく与えてしまうことは大いにある話ですよね。

おそらく『菜根譚』が戒めていることは、「軽はずみ」っていう部分に力点がある。

「方便心」って言いますけど、多少苦労しても一肌脱いでやろうっていう、他人が困っていたら助けてあげたい気持ち自体を戒めているわけではないですよね。そうなればただの利己心の勧めですからね。

もちろん、他人への親切心は素晴らしいことである。だけど自分ができもしないことを、「ようし、まかせろ」とか調子良く言っちゃって、引くに引けなくなるのはアウト。ある意味、もっとはた迷惑なのは、「やろうやろう」とか自分から言い出した人が途中でトンズラしちゃうとか。安請け合いして、そのあと全然責任を果たさないとか。

実際そういう人もいっぱいいるでしょう、世の中には。重要な仕事の話をしているはずなのに、本気じゃなくて「シャレ」や「ネタ」で済ませるようなね。

「軽はずみ」が必要な理由

ただね、この「軽はずみ」がまったくない人というのも、堅苦しすぎるんです。特に日本という島国の中では、その堅苦しさって簡単に嫌われる気がするんですよね。

例えば多民族国家の欧米では、ものすごく契約性を重んじるでしょう。マフィア映画の名作『ゴッドファーザー』なんかを観ても、「約束が絶対」っていうハードな社会信用の世界観が繰り広げられるやないですか。でも日本は「言ったっきり」が多少許される世界。もちろんそれは悪癖も非常にあって、政治の世界でも無責任な「言ったっきり」がいっぱい起こっていますよね。

その一方、まったく四角四面で「軽はずみ」の余地を残さない真面目な人も、日本の風土では付き合いにくいと敬遠されてしまう。これは良し悪しじゃなく、事実としてね。だから日本人って、人付き合いの中で絶えず悩むのは、「じゃあ、どのくらいの塩梅がベストなんですか?」っていうことですよね(笑)。

コーヒーの飲みごろは何度なんですか?みたいな。それが50度か60度か、じゃなくて、54度なのか56度なのか、くらいの細かさ。その2度で全然違う、っていうのが日本の文化でしょう。そこは皮肉にも、いまの日本の「空気を読み過ぎる」っていう、別の堅苦しさにつながっているところがあるのかもしれないですけどね。

「安請け合い」のNGレベル

だから僕たちが洪自誠の教えを実践的に活かす場合は、「軽はずみ」なのはいけないけれど、「うれしまぎれ」に安請け合いすることは、多少あってもいい(笑)。なら「軽はずみ」ってどこまでなんや? って言ったら、それは具体的なプロジェクトとして立ち上がってきた時に、あなたが現場から逃げ出しかねないことは安請け合いしたらダメですよ、っていうのが大原則。

あるいは、自分の中に燃えるような「自分を誇示する気持ち」がある時はNG。「うれしまぎれ」としても、その中にファザコン的なものも含めて、「自分を誇示したい」「自分を大きく見せたい」っていう邪念みたいなものが入っている時は、気持ちが蹴上がりしている。僕の場合は身体的なサインとして「胸焼け感」が出てくるんですよ。その違和感を感覚的に捉えることは、すごく大事やと思いますね。

以上が最も危険なAクラス。自分の虚栄心が出ている時。

それに続くBクラスは、頼みごとをしてきた相手に対して「この人に良く思われたい」っていう感情が起動した時ですね。

この「良く思われたい」パターンの場合は、僕の場合、変に口角が上がるんですよ(笑)。その人の前で、「ああ、いいですね〜」って言う時、単なる社交辞令以上の作り笑顔になっている。つまり表情に「ウソ」が出ている。笑っているつもりでも、どこか顔が引きつっているんですよ。

「いい人」だと思われたい。このBクラスもなるだけ避けたいですね。その次はやや消極的なトーンとして、「嫌われたくない」ってやつ。イヤな人だと思われたくない。これがCクラスってところでしょうかね。本音では少し無理を感じつつ、このレベルで「安請け合い」に踏み切る人は、実際ものすごく多いんじゃないかと思います。

見栄を張るのは孤立が怖いから

例えばいまお金に困っている、経済的に困窮して不安に駆られている時。そんな時でも、その根っ子にあるのは「孤立してしまう」という不安です。日本社会の場合は、経済的困窮の不安っていうのを分析してみると、その根源に「孤立する恐怖」があると思うんです。

お金がないと家族が生きていけない。子供が学校でみじめな思いをし、社会から孤立する。だから、家族に対して会わせる顔がない。この道筋はやはり自分の居場所の無さに行き着きますよね。ひとり暮らしでも、友達との付き合いができなくなる。自分の所属しているグループの一員だと見なされなくなる。この孤立に対する恐怖心が、「いい人だと思われたい」「嫌われたくない」という欲求の原動力になるわけですね。

これってものすごく強い欲求で、自分自身の判断力をゼロに近づけるんですよ。特に日本人は、特にこの「所属欲求」が炎のように強い気がします。だけど、それが結局は自分の罠になる。

判断する際に一番難しいのは、恩義のある相手でしょうね。過去に対等な立場で仕事をして、納得のいく結果を収めた相手とかには、次のお仕事の話があまりピンと来なくても「嫌われたくない」って気持ちが働きません? ある程度、友人・知人関係になっていて、人間的にも親しみを感じている相手なら、自分には無理な案件でも「嫌われたくない」っていう想いが強烈に働いて、つい保証人のハンコを押してしまったり。

だけど本当は、自分にできないことは「すみません、できません」って正直に言えるのが、真に健全な信頼関係なんですよね。

だから、いくら断りにくい相手でも、持ちかけられた話にちょっと違和感を察知したら、「あっ、ちょっと考えさせてください」とかね。すぐに、その場で言う。これが肝心です。その時には、見栄や恥ずかしさを捨てる。

「見栄を張らないこと」は、すごく大事なんです。違和感を覚えても、それを口に出せない人がいるんですよ。それは無意識のうちに見栄を張っちゃっているんですよね。この話を引き受ける度量や能力や誠実さがないっていう風に、見くびられたくないっていう。でもそれって相手に誤解や間違った期待を与えることだし、決して良い結果にはつながらないわけですよ。

だから、これは無理がある、と察した時には、もう反射的に「あっ、いま思い出したんですけど、この時期はもう余裕がなくて……」と一言いえるかどうか。これが「軽はずみ」のラインを越えるかどうかの大きな違いになってきます。

まあね、こんな偉そうなことを言いつつですよ、それでも僕なんか、マネージャーが冷静に「いや、このスケジュールじゃ無理でしょう」という仕事を、「いや、できるんちゃうの?」とつい言ってしまうんです(笑)。

ここにDクラスの罠があるんですよ。それはね、「好奇心」。

自分にとってプラスになる「承諾」

僕自身、好奇心があるものには、つい「軽はずみ」が起動しちゃうんですよ。でもこの場合、僕は7:3の割合で乗るようにしています。どうしてもスケジュール的に厳しい場合は、そこから交渉に入るわけです。「進行を1ヶ月ズラせていただけませんか?」とか。あるいは1日だけ睡眠時間をすごく削られることを覚悟して、そのぶん翌日は休ませてもらうとか。

多少無理しても、「好奇心」のためなら自分の損にはならない。本物の興味は必ず人生に役に立つ。だから僕は7:3で引き受けるようにしているし、若い人なら8:2でいいんじゃないでしょうか。もちろん、その話をくれた人が信頼できる人物、あるいは会社である場合に限りますけどね。お互い対等の立場で、相手に誠実さを感じた場合なら、僕はできるだけ踏み切りたい。相手が変な「欲」に駆られている、と察知した場合は、辞めておいた方が無難ですけども。

このDクラスまで石橋を叩いて避けてしまったら、「冒険」ができないでしょう? やっぱり自分の興味がしっかり動いている時は、仕事もうまくいくことが多い気がします。

だから僕の提案としては、Dクラスの「承諾」は良しとしませんか? ただし、そのかわり休日をしっかり取る、というのはどうですか?

無理をしたぶんだけ、休息を確保することは、やはり非常に重要です。だって仕事の疲れで体調が思わしくない時でも、「みんなに迷惑かけるから」「和を乱すから」って、顔色悪いまま出勤していくのが日本人やないですか。「ただ休む」だけの休日って、いまの職場だと取りにくいものですけど、そこは会社のほうも具体的な理由を聞かずに休ませてあげて欲しいんですよね。職場でも、これくらいの寛容さが許される日本社会になってほしいですね。