「子どもを持つ/持たないで一人前かどうかは計れない」と話す作家の下重暁子(しもじゅう・あきこ)さん。前回、前々回と、結婚や出産に迷うアラサー世代を代表して、さまざまな悩みを聞いていただきました。

最終回となる今回のテーマは、「子どもを産まないと人生の楽しみは減るのか」です。

【第1回】81歳の今だから「子どものいない人生に一度も後悔はありません」
【第2回】産むのが無条件に良いとされることに違和感

私たちが家族にこだわってしまう理由

--60万部を超えたという著書『家族という病』(幻冬舎)も拝読しましたが、なぜ私たちは「自分の家族」にこだわってしまうのでしょうか。理想の夫婦とか、親子関係とか。

下重暁子さん(以下、下重):家族はこうあるべき、と思い込んでしまうふしはありますよね。でも、家族が一番わかり合っている存在だなんて嘘ですよ。「あなたのお父さんは、どういう考え方の持ち主?」と聞いてちゃんと答えられる人はほとんどいません。それなのに、普段は知っていると思い込んでいるの。

今回の取材のように、初対面だと、なんとかその人のことを知りたいと思うからいろいろ質問したり、こちらの考え方を投げかけてみたりしますよね。つまり、知る努力をする。でも、家族に対して努力をしたことはある?

--ないですね……。どうしてうちは『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』に出てくるような、“フツーの家族”じゃないんだろうって思春期の頃は悩んでいましたけど……。会話なんてほとんどしませんでした。

下重:家族は役割なんですよ。お父さん、お母さん、子ども。その役割を上手に演じられるおうちが良き家庭のように見えるだけ。実際、何か行き違いがあったりすると事件になって、おおげさになると殺人事件になることもありますよね。戦後、日本では、殺人事件が減少し続けていると言われていますが、家族間の殺人だけが増え続けているそうですよ。

なぜ父は家出してでも夢を追わなかったのか

--悲劇ですね……。

下重:私も知らなかったの。父親のことも、母親のことも。父は軍人という職業でしたが、本当は絵描きになりたかった……。

でもなぜ、家出をしても夢を選ばなかったのか。聞いてみたいと思った時には、父も母も兄ももうみんな亡くなっていました。だから私は、手紙を書いたんです。誰も答えてくれないけど、本心をぶつけるように、懸命に。

その手紙はのちに『家族という病』に収録されることになりました。そして、書くことによって何を得たか。私が何を思っていたかということがよくわかりました。父に対してどう思ったか、母に対して何を考えていたか、自分を確かめることができた。それはとても大きなことでした。

母親じゃないから、子どもと共有できる感動がある

--「自分を知るための旅」だったとおっしゃっていましたね。もし、子どもがいたらどんな自分になるだろうと想像したことはありませんか?

下重:ありません。子どもをもたないと決めたんだから。でも、子どもが嫌いなんてことはないの。よその子とはよく遊びます。自分の子どもぐらいの人とか、その人たちの子どもとか。まるで孫みたい。男の子も女の子もいるし、小学生から中学生ぐらいの子も。うちのつれあいだって、妖精みたいに素敵な女の子と交換日記をしていますよ。

--交換日記! 楽しそうですね。

下重:楽しいですよ。私ね、子どもの発想が大好きなんです。子どもぐらい純粋で、本物を見ようとする存在はいませんよね。それを曲げていくのはみな、大人ですよ。大人とか世の中の常識とかね。

--子どもの発想力。たとえばどのような?

下重:そうですね、たとえば、軽井沢にある私の家はクモの巣が張るんです。それを子どもがいつまでも見ているの。雨が降れば「露がついてキレイだね」と。それが美しいと言って眺めているんです。私も今でもクモの巣を見るとワクワクするの。だから、同じ目でものを見ているというのが嬉しくてね。

「子どもがいないあなたに、子どものことなんてわからないだろう」と言う人もいるけど、とんでもない。子どもがいないからこそ、私は自分の子ども時代を思い出して想像するんです。その感覚や感動を私は今でも持ち続けている。もしかしたら、子どもがいる人よりも考えているかもしれない。

母になる恐怖からの解放

--感性の他にも、子どもを産まない選択をして、自分のためになったなと思うことはありますか?

下重:そうですね……。母と同じようになるかもしれないという不安から解放されたことかしら。自分の性格はよく理解していますから、もし私が子どもを産んだら、母のように「子ども命」になる可能性は多分にあったと思います。それが嫌だったの。

子どもは、社会からの預かりものなんです。自分のものじゃないの。ところが自分の子どもになると視野が狭くなってしまう。私はそれがものすごく怖かったんです。

--毒親に育てられた女性は同じようなことをおっしゃる傾向があるようですね。

下重:どうしても“母”にはなりたくなかったのよね。でも、一緒に遊ぶ人はいっぱいいるの。みんな「暁子ちゃん」って呼んでくれるんです。私が名前でしか呼ばせないからだけど(笑)。

「自分を変えてしまう言葉」を使わないで

--産んだら母になるのか、育てたら母になるのか……という話もありますが、その役割で呼ばれたら、ということもあるかもしれませんね。

下重:そうですね。言葉ってバカにできないもので、そう言った途端にそうなっちゃうの。お父さんと言った途端にお父さんの役割になる。言葉はいい加減に使っていると自分が変えられてくるのよ。これは本当に恐ろしいことですよ。

パートナーを「主人」なんて呼ぶのが一番わかりやすい例でね。主人って言っている人は、その家では夫が「主なる人」ですよ。はじめは主人だと思っていなくても、毎日使っていれば、自分の意識や行動まで変わってくる。それはものすごく怖いことよ。

私はいつも外でお話しする時はパートナーのことを「つれあい」と呼んでいます。同じように連れ合って生きて暮らしている。だからつれあい。自分の考えにぴったりした表現をしないと、自分が変えられてしまうから気を付けてください。

--自分で自分を変えてしまうなんて怖い!

下重:ある時、若いお嬢さんに「あなたのお父さんのお名前はなんですか」と聞いたことがあるの。すると、「パパですか? 名前で呼んだことないんで、わかりません」と。極端な例ですけどね。でも、父親を個人として認めていないの。父という役割、お金を持って帰ってくる人、と思っている。そうなったらなんの心の交流もないでしょう。血のつながりなんて重要ではないの。心がつながっていれば十分。

私は、子どもと心がつながっているし、感覚も共有できる。同じものを見て、キレイねって感動できるし、面白がれるし、そっちの方がよっぽど大事ですよね。

人のお節介に悩まないで

--今までこんなに考えたことはなかったかもしれないです。そもそも、産む/産まないについて、考えていない人が多い。友人に「子どもがほしいの?」と聞くと、「え、なんでそんな質問するの?」って返ってきます。ほしいと思うのが当たり前だというのが無意識に浸透している。

下重:私の友人も、「そんなこと考えていたら子どもなんて産めないわよ。何も考えないから産むのよ」とよく言いますけどね。私は自分の面倒を見るので精一杯なの。自分一人で食べていかなきゃいけないし。つれあいの面倒を見るのも嫌だし。まあ嫌というよりも、できないと言うべきかしらね。責任が持てないものを作るのは、やっぱり無責任だと思うんです。

--みんななかなか気づけない……。

下重:どんなに伝えても変わらない人はいますから、あまり悩まないことね。とにかく自分で考えて自分に合う生き方をすればいいんです。みなさん、本当はぼんやりと気づいているはず。みんな違う選択をしてもいいというのが当たり前なのに、どうして人と違うことをしたらお節介なことばかり言われるのかしら。そんなことで悩む必要は全くないのにって言ってあげたいの。

--その自信は、お仕事で自己表現の場を持っていることも大きいのかなと思います。

下重:そうね。私は今とても自由です。その自由をどのように獲得したかというと、2つあります。ひとつは経済的な力。人を養えなくてもいい、死ぬまで自分で自分を養えるだけの力を持つこと。もうひとつは自分で考えて、自分で感じて、自分で選ぶという精神的な自立。経済と精神。2つ揃わないと自由は手に入りません。

でもそれは簡単なことではありませんよ。私も長い間かけて自分の身にしてきました。人に養ってもらうのは、もちろんラクですよ。でもそうしたら、自由を売り渡すことになる。私はどちらが大事かといったら自分の自由が大事です。それがどんなにしんどい選択でも、自分で稼ぐことはやめない。自分ひとりを養うぐらいの仕事は今の日本にはありますからね。

(取材・文:安次富陽子 写真:青木勇太)