「編集長、産むことのメリットとデメリットを教えてください」今年で33歳になるワーカホリックなプロデューサーが、ワーママ編集長に詰め寄ったことからスタートした本企画。今回は、「血のつながり」について考えてみたいと思います。

よく「おなかを痛めた子」とか「血を分けたわが子」という言いかたをしますが、産んでみた感想として、「血のつながりって、そんなに重要じゃないじゃん」というのが率直なところでした。産むと血縁を強く意識するようになりそうなものですが、案外そうでもなかったんです。

海野P(左)と私(右)

スーパーで迷子を見て思うこと

先日もいつものように夕方、保育園から車でうんざりする首都高の渋滞を抜けて自宅近くのスーパーに駆け込みました(スーパーってこの世で一番憂うつな場所なんですが、産んでから行く頻度は3倍以上になりました)。

娘を乗せたカートを押しながら、オクラ、ジャガイモ、しらす、クリームコーン……と彼女の乏しすぎる食材のレパートリーを順にカゴに投げ込んでいる時、背後から叫び声がしました。

「けんしーーーーーーーーーーん! けんしーーーーーーーーーん!」

迷子になった息子を探すおかあさんの声でした。

ま、よくある光景なんですが、周囲の人がジロジロ見るのも構わず叫び続けるおかあさんの姿を見ていると、おなかの底の方が、きつく捻り上げられたかのように痛みました。

見つからなかったら、どうしよう……。誘拐されてたら、どうしよう……。駐車場に迷い込んで事故にあったら、どうしよう……。

それはもう「心配」という生易しいものではなく、自分がそのまんま叫んでいるおかあさんに憑依してしまったかのような感覚なのです。

私はもともと他人に感情移入しないタイプなので、産む前なら同じ光景を目にしても、「迷子か……えっと、パクチーどこかな?」ってな感じでした。

ところが、自分が親になってみると、これが全然違うんです。

迷子でこのありさまですから、子どもが亡くなるニュースに触れたりなんかしたら、思い出すたびに胃がキリキリして苦しくて、少なくとも1週間は何とかして救う手立てはなかったのかと、際限なく脳内シミュレーションを繰り返すことになります。

もはや全然他人事じゃないんです。全身全霊で悼んでしまうんです。

こう書くと、普段私の冷徹すぎる発言でズタズタになっている海野Pは「編集長にも人間の心があったのね、優しかったのね」と思うでしょう。はい、最近ちょっとは優しくなったのかもしれません。

自分で産まなくても、ヨユーで愛せる

最近、仕事で養子のインタビュー取材をしました。

その女性は実子と養子の二人を育てた方でした。

彼女いわく、実子を産んだ瞬間に愛情が溢れ出すことはなかったけれど、育てるうちに愛情が少しずつ湧いてきて「自分が産んだ子じゃなくても、育てられるな」と感じた、と。ゆえに、二人目に恵まれなかった彼女はごく自然に「養子をとる」という選択をしたのでした。

その話を聞いた時、「まったく同感!!」と心の中で激しくうなずきました。

「わざわざ自分で産まなくても、ヨユーで愛せる」

娘が1歳をすぎて心に余裕がちょっと出てきた頃、私もそう思いました。

子どもって、なんだか、理屈ぬきに尊いんです。愛すべき存在なんです。「尊い」という意味では、自分で産んだ子どもでも、他人が産んだ子どもでも、まったく違いがないんです。

自分の娘も、スーパーで迷子になっている子も、保育園で同じ組の子も、ボロボロの船で地中海を渡っているシリアの子も、「みんな、無事に生きてるだけで◎」。とことん自己チューな私が、そんなふうに、世界平和みたいなものを願えるようになるなんて想像だにしていませんでした。

前回書いた「自分の命より大切な存在がいる」という感覚もそうですが、産むと、理屈なしに自分の深いところでストンと理解できてしまう事柄はいくつかあります。この「子どもは尊い存在である」という感覚も、そうした事柄の一つでした。

「産む・産まない」は重要じゃない

そろそろ今回のテーマである「血のつながり」に話を収束させていきましょう。

結局、何が言いたいかといえば、「産む・産まない」って、実はそんなに重要じゃないんじゃないか、ってことです。

この連載もそうですが(笑)、世の中、「産む・産まない」にこだわりすぎていると思うんです。産むだけじゃ、人間、何にも変わりません。おなかの皮がたるんだり、失禁が増えたりするくらいです。

よく芸能人やモデルがブログとかで、「生まれてきてくれてありがとう♡ 抱いた瞬間、愛情で胸がいっぱいになりました」みたいなことを書いてますが、あれ、ウソでしょ。同様に、「おなかを痛めた子だから愛せる」「血を分けた子だから愛せる」っていうのも、真っ赤なウソでしょ。産んだから愛せる、じゃなくて、育てたから愛せる。育てると、他の子も愛せるようになる。これが真実に近いんじゃないの、と? 

「産むこと(=血のつながり)」と「愛すること」は本来、無関係なのではないでしょうか。自分の超個人的な経験に基づけば、そんな気がするんです。

「みんな、生きてるだけで◎」と思える社会

「育てること=愛すること」であるとして、とても素朴に思うことがあります。

それは、「育てる」という経験は、みんながやった方が社会はよくなるだろうなあ、優しくなるだろうなあ、ということです。

と言っても、何も、みんなが自分で産んだ子ども育てる必要なんてないんです。だいたい、そんなのムリだし。どんなに少子化が進んでも、「産まない自由」は絶対に認められるべきだし。誰の子だっていいんです。週末だけとか、休暇中だけとか、ちょっと一緒に過ごすだけでいい。たまに数時間だけ遊んだりごはん食べたりするだけでもいい。みんながみんなの姪っ子、甥っ子くらいの距離感で育てるだけで、世の中ずっとよくなるんじゃないかなあ。もっとみんなでゆるやかーに育てたらいいのになあ、って。

「みんな、無事に生きてるだけで◎」そういう感覚が共有されてる社会って、結構居心地がいいと思うんです。

今、書いたことは、この連載が始まって以来、一番無責任な発言かもしれません。「産め」という暴力の次は、「育てろ」という暴力か……とうんざりしている女性もきっといるでしょう。でも、自分の実感に基づけば、おのずと出てくる結論だったので、あえて書かせていただきました。

というわけで、海野P、育てたくなったら、いつでも貸すよ!

(ウートピ編集長・鈴木円香)