95歳の現役ピアニストの室井摩耶子(むろい・まやこ)さん。6歳の時にピアノを始め、東京音楽学校(現・東京藝術大学)を卒業後は日本のみならずヨーロッパ各地でも活躍。現在でも1日4時間、演奏会が近づけば1日8時間ほどピアノを弾いているそう。ピアノと共に歩んで90年。今も日々成長を続ける、そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか?

戦時中、絶対音感は「敵の潜水艦を聞き分ける能力」だった

――6歳の時にご両親からピアノを買ってもらったことがピアニストになるきっかけだったとお聞きしました。

室井摩耶子さん(以下、室井):それも一つではあったと思います。山で小さな湧き水がとろりとろりと流れて、いくつもの小川と一緒になってやがて大きな川になるでしょう。それと同じように私はピアニストになったんです。「なぜ、ピアニストを目指したのか?」とよく質問されますが、本当に自然のまま流れ着きました。ピアニストには就職試験や学歴は必要ありません。もちろん自然淘汰でダメになることもありますけれども、そうならなかったということは、一生懸命にこの道をただ突き進んできたということなんでしょうね。

――終戦直前の1945年1月に24歳でデビューされています。その頃は音楽を続けるどころか、大学に行くことさえ大変な時代だったのではないでしょうか?

室井:音楽学校に通っていた時期がまさに太平洋戦争でした。その頃は政府から、音楽や音楽学校の必要性について「そんなことをやっている場合じゃない」と厳しく見られていました。音楽学校の教授は学校を守るために、当時日本に入ってきた「絶対音感」という概念ついて「絶対音感は敵の潜水艦を聞き分けるのに役立つんですよ。だから音楽と音楽学校は必要です!」と政府に訴えていたんです。それで何とかして学校を存続させていた時代でした。

学徒動員の際には、私も軍需工場で工作機械の旋盤をやりました。ピアノに比べたら旋盤は簡単でしたよ。その時は、つらい気持ちよりも、配られるお弁当に入っていたたくあんの油炒めが美味しくて嬉しい気持ちの方が勝っていましたね。確かにあの時分は時代の転換期でしたが、当時を生きていた人間には、そんなことはよくわかっていませんでしたね。

終戦後はヨーロッパを飛び回る生活

――デビューをして数ヵ月後には終戦となりましたね。

室井:デビューしてからもずっと「私のピアノには何かが足りない」という気持ちがありました。そして30歳を過ぎた頃、モーツァルトの「生誕200年記念祭」に日本代表としてウィーンへ派遣されたんです。当時、ヨーロッパへ行くなんて夢のような話だったので、誘われた時は天にも昇らん心地でした。でも、行ってからが大変だったんです。

――大変だったとは?

室井:現地のパーティーでは一番の主席に座らされたんです。隣を見ると内務大臣やウィーン市長が座っていたんですよ。まだ若かった私は、そんな人たちと話せるような話題なんて持ちあわせていなかった。95歳になった今でも恐ろしくてそんな場には行かないですよ(笑)。 

また、チェコスロバキアに演奏会で行った時には、休憩の際にとあるおばさんから「どうしてあなたは日本人のくせにベートーヴェンを弾くんだ」と言われたこともありました。日本人に音楽の何がわかるんだ、ということですね。

それで私は、「ベートーヴェンは人間のために作曲したんでしょう。ドイツ人も日本人も悲しければ泣く、嬉しいことがあれば喜ぶのは人間として同じでしょう」と言い返したんです。おばさんは、腑に落ちない様子で客席に戻っていきました。演奏会が終わって客席を見ると、二階の真ん前で拍手喝采している女性が見えた。あのおばさんだったんですね。ほーら、見ろ!なんて思いましたよ。

――「日本人にはピアノはできない」という偏見をはねのけたのですね。

室井:どうしても自分にはできないと思いたくなかったんです。その時は「私は日本人として人間を考えているんだからいいでしょう。やってやるぞ!」という、ちょっと国粋主義的な気持ちでした。そして、自分に足りないところがわかるまで日本には帰らないと心に決めていました。音楽学校の方から「教授の席があるから早く帰ってこい」と言われていましたが、20年ほどヨーロッパで研鑽を積んでから、50代後半で日本に帰国しました。

人間は甘やかされると、“深く”なれない

――帰国には何かきっかけがあったのでしょうか?

室井:「人間として深くなる」ためでした。やっぱり、人間は甘やかされるとダメなんですね。ドイツ人は基本的に規則正しいけれども、日本に来ているドイツ人は相当いい加減なんです(笑)。ドイツにいる日本人の私も同じでした。外国人ということでいろいろことが許されるから甘えてしまう。人間は甘えてしまうと深くはならないんじゃないかと思い、戻ってきました。

――30代からヨーロッパに渡ったことは、人生の大きなターニングポイントでしたか?

室井:そうですね。私が今まで習ってきた音楽は何だったんだろう、と思いました。今なら外国の優秀な方の演奏やCDを聴いたりできますが、当時はそんなことはありえませんでしたから。

私は「音楽文法」と呼んでいるのですが、音楽にはルールがあります。音楽とは小説であり詩であり劇です。音はもの言い、さまざまな感情を持ちます。今なら当たり前に思えますが、当時はそのことすら知らなかった。あの頃の日本の音楽教育はそんなことを教えるレベルにありませんでした。なにしろ、「ピアノは猫が弾いても人間が弾いても同じだ」という音楽評論家の意見が、権威ある“常識”として流布していたほどでしたから。

私たちは「楽譜を正しく弾きなさい」と習います。でも、その「正しく」がそもそも違うんです。日本ではピアニッシモが「弱い音」としか翻訳されません。ところが、ピアニッシモの中には実に多様な感情が入っているんです。ピアノの音はキレイとか強弱ではなく心情的なもの。ドイツ人は身体でそのことを知っていて、その上で自分の芸術を作っていく。これは大きな発見でした。

貪欲に、もっと前に前に進む“ドイツ魂”

――ドイツ人から影響を受けたことは他にもありますか?

室井:彼らは自分の意思や判断をものすごくハッキリ言いますし、そのことにとても貪欲。そこは、日本人との違いを感じました。何かする時には、自分を満足させるために自分で立ち向かっていく。向こうのピアニストは、1年後に演奏を聴くと1年前とは違うことをやっている。もっともっと前へ進む姿勢。その“ドイツ魂”のすごさを見せつけられたことは大きかったですね。

――室井さんのように、一つのことをずっと続けていくために大切なことは何でしょう?

室井:何であれ、お仕事を長く続けるのは大変だと思います。天にも昇るような喜びがなければ続かない。私がやってこられたのは、ドイツ魂の粘り強さと、どうしてもこれをしたい、どうしてもそれを知りたいという熱情。大好きな音楽に出会い、全力を注げたことが、一つのことを続けてこられた最大の理由だと思います。

だから、今の若い人にとっても好きなこととの出会いが一番大切じゃないかと。これまで何千回弾いた曲でも、日々演奏する中で作曲家が伝えようとしたことを新たに発見する瞬間があります。それがもう嬉しくて嬉しくて。そういったことがモチベーションに繋がって、まだまだ死ねないなあと思います。

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(石狩ジュンコ)