日本で動物園を始めたのは、徳川吉宗だって本当?

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人気時代劇「暴れん坊将軍」のモデルにもなった、八代将軍・徳川吉宗。質素倹約を掲げ、大奥の大リストラをおこなうなど「乱暴」な印象とは裏腹に、学問好きで、とくに鎖国中にも関わらず、海外からゾウを買い付けてしまうほど、外国への関心が強かった。

長崎から遠路はるばる歩いてきたゾウは、途中・京都で天皇にお目通りできたほどの威厳を誇ったが、10年ほどで吉宗に飽きられてしまう。その後、民間に払い下げられると、庶民から入場料を得て「動物園」で余生を過ごすという悲運を遂げた。

日本の動物園のきっかけは、徳川吉宗と言っても過言ではないのだ。

■吉宗が買っちゃったゾウ

八代将軍・徳川吉宗は、紀州藩の2代藩主・徳川光貞(みつさだ)の四男として生まれ、家臣の家で5歳まで育てられたと言われている。そのため当時は将軍の座にはほど遠く、そもそも藩主になれるかもあやしかった。しかし、次々と将軍候補となる男児が亡くなるという天文学的なラッキーに恵まれ、まさかの大逆転で将軍の座に着くこととなったのだ。

当時はもちろん、現在においても、将軍になるため一服盛ったのではないかという陰謀説も絶えないシンデレラボーイなのである。

上げ米の令や目安箱の設置、足高の制など斬新な政策をおこない、結果として歴史に名を残す将軍となる吉宗は、海外事情に興味しんしんだった。その好奇心から、中国人の商人を介して、ベトナムからゾウをつがいで買い付けたのである。

享保13年(1728年)、無事にゾウは長崎に到着し、日本の気候に順化させるためにしばらく滞在していたが、なんとこの間にメスが死亡してしまう。この時点で、残されたゾウの悲運は始まっていたのかもしれない。

当時の日本に、ゾウのような巨大生物に耐えられる船もなく、仕方なしにオスのゾウは徒歩で江戸へ向かう。将軍様のゾウに何かあってはタイヘンと、食糧の補給から橋の補強までが、全国の街道沿いでおこなわれた。もちろんその道中も見物人にあふれ、まさに見世物状態だったという。

京都では朝廷に立ち寄り、霊元(れいげん)法皇・中御門(なかみかど)天皇のお目通りを受ける。これは大変栄誉なことで、平民が希望してもかなうことではない。なんといっても天皇にえっ見するには「資格」が必要なのである。

そこでゾウは「従四位」という、朝廷内の長官/次官クラスの肩書きを授けられることになったのだ。この、超・大抜擢ともいえる栄誉は、ゾウ的にはどうでもいいことだろうが、同じ時代の人間にしてみれば、なんとも羨ましい話だったに違いない。

■江戸へ来たゾウ

思いがけず偉くなってしまったゾウは、その後も山を越え川を渡り、長い旅路の末に江戸に到着。江戸っ子からはやんやの喝采を受け、吉宗も自慢げに江戸城で飼うことになった。

だが、そんな吉宗と象の幸せは10年ほどで終わりを迎える。吉宗が「飽きた」と民間へ払い下げてしまったのだ。背景には、莫大なエサ代をはじめ、飼育係がゾウに殺されてしまうという事件も関係していたようだ。

それからのゾウは、現在の中野区に住む源助という市民が引き受け、入場料を徴収して庶民に公開した。いわばこれが動物園の原型で、そのきっかけは吉宗ということになるのだ。しかしゾウは1年後に死去。死因は栄養失調だったとも言われている。

その皮は幕府に献上され、象牙は中野の宝仙寺に納められたが、その後の戦火で焼失してしまった。江戸に一大ブームを巻き起こしたゾウだったが、その余生は悲しいものだった。

■まとめ

・日本の動物園の原型は、吉宗がきっかけだった

・東京・中野区に見世物としてのゾウ小屋があった

現在でも動物園でちびっ子の人気1・2位を争うゾウ。吉宗によってもたらされた数奇な運命を知ると、喜んでばかりはいられない。

動物を飼うときは、きちんと最後まで責任をもって世話をしなければ、動物の一生が悲しいものになってしまうということを忘れないようにしたい。

(沼田 有希/ガリレオワークス)