◆有村架純の別れぎわの演技は最強である

弥生は、最後を覚悟して、夏の部屋を訪問。その日は雨。はじめて会った夏の日は雨があがって蒸し暑い日だった。

海にあげるものを夏に手渡しながら、いろいろ話す弥生。終わりのときはもう間近。高野舞(はしごだが)演出は俳優に劇的なアクションをさせることなく淡々とした会話のなかの感情の流れを丁寧にじっくり追っていく。

感極まった弥生は海にあげようと買ったイルカのぬいぐるみで涙を拭(ぬぐ)う。海に弥生の涙が染みたぬいぐるみが手渡されると思うと、これもまた怨念ぽい。

「海ちゃんのお母さんにはならない」という弥生。

「海ちゃんを選ぶ」という夏。

部屋を出たら終わり。「ふたりでドアを閉めて〜♪」と古い歌を思い出してしまったが、夏は駅まで弥生を送り、終電過ぎるまで駅(経堂)のベンチでおしゃべり。部屋を出てからずっと手を握ったまま。

このときの弥生は「すんっ」としていない。じつにナチュラルなしゃべりかたで、テンポが早く、声もやや低く、語尾に力が入っていない。これだよこれ、いつもこれでいて、と思う。

このしゃべりかたは、じつに久しぶりになんでもない話をした表現なのだろう。それだけ弥生はずっと気を使っていたのだろう。恋人にもこんなに気を使って素が出せないものなのかと思うと恋愛って面倒だなと思う。

なにげない話をしたのちに終電がホームに滑り込んでくる。きっぱり別れることのできない夏。ほんとは弥生だってつらいのだ。でも「がんばれ」と突き放し、電車に乗ってしまう。

有村架純の別れぎわの演技は最強である。そういえば、大河ドラマ『どうする家康』でも家康(松本潤)のために自ら命を絶つ瀬名(有村)は夫を突き放していた。あれも涙なくしては見られなかった。痩せ我慢は男の美学のように思うが、有村架純は痩せ我慢の美学を体現している。やんわりとハードボイルドなのだ。

◆目黒蓮のフェイスライン、よけいに悲劇的に見える

一方、第9話では、やっぱり病み上がり(?)の目黒蓮に注目したい。たった一週空けただけで、顎(あご)のラインが変わった気がする。もともとしゅっとした面長フェイスがひとまわり細くなった気がしないでない。だからよけいに、悲劇的に見える。

お互い嫌いじゃないのに別れなくてはならない悲しみを全身で背負う夏。

女性が望まない妊娠をした場合、身も心も大きなダメージを被ることに対して、男性はそこまでのリスクを負うことがないと、ドラマのなかでも語られていた。第5話、「男だからサインしてお金出してやさしい言葉かけて、それで終わり。からだが傷つくこともないし。悪意はなかったんだろうけど。でもそういう意味なの。隠したってそういうことなの」とたったひとりで生んで育てた水季のことをゆき子(西田尚美)は慮(おもんばか)っていた。

望まない妊娠をした女性もつらいが、恋人や夫の浮気によって子供ができたため子供を生んだ女性を選ばれた女性もやりきれない。もうひとりの女性に子供ができたから別れてくれ、みたいな展開はこれまでドラマでは少なくなかった。その女性の悲しみに焦点が当たり、女性が共感するものが多かった。が、今回は男性に女性の悲しみがガンガンとぶつけられる。

Back numberの主題歌が流れるなか、滂沱(ぼうだ)の涙を流す夏は、女性だけの傷の痛みを千の矢達を浴びるように全身で引き受けているようである。全、傷ついた女性の痛みを全、女性を傷つけてしまった男性を代表して、目黒蓮がその身に受けている。まるで民の苦しみを背負うキリストのようであった。

夏は悪い人ではないし優しいけれど、弥生が海のお母さんになってくれたら楽だと思ってしまったのも事実で、その思いやりの欠けたことによって、弥生は去っていくのだ。