東京にいる一部のアッパー層の間で、最近、密かに“噂”になっている女がいる。

彼女の名は、春瀬紗季―。

一聞すると爽やかで可愛らしい女性を想像するが、彼女の“噂”はそれを鮮やかに裏切る。

大抵の者は「悪魔のような女だ」と言うが、ごく一部の間では「まるで聖女のようだ」と熱狂的に支持されているのだ。

そんな噂の女に、IT企業が主催したパーティーで出会った宮永爽太郎(29)は、政治家の黒田源の不正の情報を得るため、彼女に近づこうとする。

中々思い通りに進まない紗季との関係に痺れを切らした爽太郎は、思わず彼女にキスをし、徐々に近づいていく。

そして気がつくと、本来の目的を忘れて徐々に彼女に本気になっていた。




―今夜、会えない?

スマホのロック画面に浮かび上がったその文字に、一瞬紗季からのメッセージかと心が跳ねた。しかし送り主は、親友の亜希子だった。

この日桐生先生を家まで送り届けたあと、時刻は23時を回っていた。

最近、都知事選出馬を意識した好感度アップのため、さまざまな場所に積極的に顔を出す日々が続いている。早朝から遅くまで駆けずり回っているため、普段のデスクワークはちょっとした空き時間でこなすしかなく、息つく暇もない日々だ。

―ごめん、今気がついた。悪いけれど今日はちょっと。また今度でいいかな?

以前の僕であれば、こんな状況だとしても、亜希子からの誘いを断ることはなかったと思う。

けれど最近は前ほど、彼女のことを想うことはなくなっていた。

―了解。また近いうちに。
―分かった、また連絡するよ。

亜希子にそうLINEを送った後、新着メールに紗季の名前がないか確認する。

前回会った時、なんとか1ヶ月先の予定を抑えた。「そんな先のこと、分からない」と言われたのだが、僕はなんとしてでも彼女との約束を取り付けたかったのだ。

ーあと1週間か…。この日まで、何とか頑張ろう…。

僕は紗季と会えることを楽しみに、疲れ切った身体に熱いシャワーを浴びせ、自宅で残った仕事に取り組んだ。


爽太郎に断られた亜希子の心の内とは…?


亜希子の想い


「最近、爽太郎が冷たくなった気がする…」

23時、赤坂にある『タカザワバー』で、「悪いけれど今日はちょっと」という彼からの素っ気ない返信を見て、私は大きなため息をついた。

少し前までは仕事帰りに軽く飲むこともあったのに、近頃仕事が忙しいらしく、誘っても断られてばかり。

気づくと彼のことばかり考えてしまうのは、半年前に彼氏と別れて、そろそろ一人に飽きてきたからだろうか。それとも仲の良い友人たちが次々と結婚を決めているからだろうか。

でも、1番の原因は分かっている。春瀬紗季という謎の女に、爽太郎を取られそうだからだ。

いや、もしかするともう、爽太郎は彼女とうまくいっているのかも知れない。だから彼は最近、冷たいのだろうか。それ以上を考えるのが嫌になり、ビールをもう1杯頼む。

思い返せば爽太郎と出会ったのは10年前。きっかけはよく覚えていないが、共通の友人が何人かいて、皆でワイワイと遊ぶうちに仲良くなった。

気さくで面白く、飄々と涼しい顔をして何でも器用にこなせる彼は、男女ともに友達が多かった。だから、彼が就職先を「政治家秘書」に決めた時には驚いた。

「自分の恩人である先生のもとで働きたい。そして将来は、自分も政治家を目指したい」

いつもどこか少し冷めていて、あまり自分の意見を主張しないタイプなので、これほどはっきりと彼の意志を聞くのは初めてだった。

そんな彼のことを、私はずっと気になっていた。

実は昔、一度だけ爽太郎を試したことがある。

「ねぇ、キスしちゃう?」

大学3年生の夏、皆で花火をした帰り道。私と爽太郎は皆の輪の中から二人だけポツンと離れ、歩いていた。




ちょうど付き合っていた彼と終わりを感じていた頃で、酔っていた私は、少しだけ大胆になり彼の手をそっと繋いだ。少し冷たく乾いた空気が彼の体温をより一層に感じさせ、衝動的にそう尋ねてみたのだった。

「そうだな…」

けれど爽太郎の返事に被せるように、前を歩いていた仲間の一人が彼のことを呼び、そのまま有耶無耶になってしまったのだ。

その後は何事もなかったかのように、ただの友人同士に戻った。そうして程なくして、爽太郎に新しい彼女ができ、私にも新しい恋が訪れた。

こんな風にして、ずっと付かず離れずの関係を保っている。

お互いに相手がいても、二人の関係が途切れることはない。恋愛相談に乗ることもあれば、学生のようにバカな話で盛り上がれる大事な親友。そう、思っていたのに…。


亜希子が、爽太郎への想いに気がついたきっかけとは…?


実のところ、私は以前から紗季のことを知っていた。東京は、広いようでとても狭い。目立つ女性は噂になるのだ。

「自称インスタグラマーのユキって子、有名アイドルのSと付き合ってるらしいよ」
「前にパーティーで会ったマイって子、覚えてる?あの子、今話題のイケメン社長のNと婚約したらしいよ」

大抵噂になるのは、身元不明で派手な暮らしをしている女性たちなのだが、春瀬紗季はその中でも異彩を放っていた。

「あそこに座ってる、春瀬紗季って子。噂だとかなり魔性の女らしいよ。大手銀行の頭取の愛人だって噂が出ていたけれど、この間なんて、20代の戦闘モノに出ていた俳優と肩寄せ合って飲んでたって。その他にもさ…」

あまりにも自分とはかけ離れた世界に、「そうなんだ、すごいね…」というだけで、内心興味などなかった。なのにある日、その女性の名前を爽太郎が口にしたのだ。

きっと、彼が敵うような簡単な相手ではない。

「あんな人、やめておきなよ」

そう言って忠告したにも関わらず、爽太郎はどんどん彼女にのめり込んでいく。紗季のことに一喜一憂する彼が、私の知っているいつも冷静で自信のある爽太郎ではなくて、何だか妙に嫉妬心を覚えたのだった。

一体紗季という女は、何者なんだろう…?

女性という武器を前面に出して美味しい思いをする女。そんな女に、爽太郎だけは引っかからないで欲しい…。そう思っていた。

ー爽太郎は、あんな得体の知れない女に引っ掛かるような馬鹿な男じゃなかったのに…。あんな彼、もう見たくない…

私はある決心をし、生温かくなったビールを一気に喉へと流し込んだ。

外に出ると、昼間は暖かかったはずの空気が、ひんやりと全身を包み込む。薄着だった私は身を縮ませながら早足に駅の方へと歩いていると、見覚えのある女性が目の前を通り過ぎた。

ー…今のってもしかして、春瀬紗季…?

半年ほど前、一度だけ顔を見たことがある。女から見てもその漂う色気にどきりとさせられ、その強烈な印象から何となく顔を覚えていた。




すると彼女は、目の前にいた黒い車に乗り込んだ。その時、車中にいた男性の横顔がルームランプで照らし出され、ちらりと見えた。

ーあれ?あの人、見覚えがある…。もしかして、政治家の黒田源…?

彼は元々、経済学者として朝のワイドショーにコメンテーターとして出ており、奥様層の人気を得て、政治家へと華麗なる転身を遂げた男だった。

ーそう言えば、最近ワイドショーで取り上げられていたな。確か…そう、都知事選。まだ出馬表明前だと言うのに、彼がなるんじゃないかとか色々予想されてた…。

そこでハッとした。

ー…もしかして、爽太郎が紗季に近づくのはそのため…?


爽太郎の目的に感づいた亜希子。一方、爽太郎と紗季が急接近する…!?


しかし、あれは本当に春瀬紗季だったのだろうか?中の男は本当に黒田源だったのだろうか?疑いは残るが、再度確かめることもできず、二人はそのまま車で消えてしまった。

ーもし今見たのが本当に紗季と黒田源だとしたら、二人は付き合っている可能性がある…?黒田源は愛妻家で通っていたけど…愛人がいるかもしれないってこと?

それが本当なら、スキャンダルになる。爽太郎が秘書をしている政治家の桐生と関係があるということだろうか?

けれど、爽太郎はスキャンダルを狙っているというよりは、本気で彼女が気になっているように見える…。爽太郎は彼女に騙されているのではないだろうか。

確信は持てない。しかし私は、見てはいけないものを目撃してしまった気がして、謂れもない不安に襲われた。



「ねぇ、あなたは私のどこが好きなの?」

待ちに待った、紗季との約束の日。少し酔いが回ってどこか気だるそうな彼女が、トロンとした瞳で試すようにそう問いかけた。




『鮨 ます田』で食事をして盛り上がった後(ほとんどは僕が喋っていたのだが)、『Wine BAR &b』で飲み直すことにした。

「え…?」

「私のこと、好きなんでしょう?」

確かに、僕は何度も彼女に気がある事を伝えてきた。しかしそれは桐生先生のために仕方なく気がある”フリ”をしていた。途中までは。

だが、僕自身彼女に本気で惹かれ始めていることに気がついてしまった今、はっきりとそう口に出されて恥ずかしさと居心地の悪さを感じ、戸惑った顔をしてしまう。

すると彼女は、そんな僕を見て悪戯っぽく笑った。

「キス、する?」

そう言ったかと思うと、少し上目遣いで僕の方に顔を寄せる。彼女の優美な甘い香りにふわりと包まれ、理性が崩れ、頭がくらりとする。

恐る恐る顔を近づけると、彼女の息遣いが僕とシンクロしていく。

そして僕たちは、唇を重ね合わせた。前回とは違って、ゆっくりと優しく。何度も、何度も…。

その晩、僕は帰らなかった。

彼女の耳元で囁く柔らかい声や、吸い付くように滑らかな肌を感じるたび、僕は彼女の毒に侵されてしまったようだった。

▶︎NEXT:4月20日 土曜日更新予定
すっかりと紗季の虜になった爽太郎。このことが面白くない亜希子が行動に移す。