ハマると抜け出せない蟻地獄。プレイボーイの商社マンを本気にさせた、年上女の魔力
-なぜ今、思い出すのだろう?
若く、それゆえ傲慢だった同級生・相沢里奈の、目を声を、ぬくもりを。
持ち前の器用さと明るい性格で比較的イージーに人生の駒を進めてきた一条廉(いちじょう・れん)。
しかし東京は、平穏な幸せを簡単に許してくれない。
これは、悪戯に交錯する二人の男女の人生を、リアルに描いた“男サイド”のストーリー。
大学の同級生・相沢里奈とともに同じ総合商社の内定を獲得した廉は“商社マン”らしくモテを謳歌する日々。
出先から戻る途中、仲通りの『GARB東京』で里奈を見かけた。
ちょうどランチタイムで店内は混雑していたが、僕の目は窓際にひとりポツンと座る彼女の姿をすぐに捉える。
実際、里奈には別格の華やかさがあって、通りを歩く男という男は皆ウィンドウ越しの美女に視線を送っているのだった。
頭で考えるより先に足が動き、僕は吸い込まれるように彼女の元へと向かった。
店に入っても、珍しくご機嫌な彼女は僕の気配にまるで気づかない。
「驚かせてやろう」と静かに近寄ったところで、里奈の視線の先にあるものが目に入った。ハワイのガイドブック。
夢中でページをめくるその姿は、なぜか僕を無性に苛立たせた。
何に、と問われると不明だが、裏切られたような気持ちがする。
「彼氏と旅行?」
思わず出た低い声に、自分でも驚いた。
しかしもう後に引けず、僕は正体不明の苛立ちをそのままぶつけることしかできなかった。
「そいつのこと、結婚するほど好きなワケ?」
気づけば逃げるように席を立つ里奈の背中にまで、問いかけていた。そんな資格も権利も、僕にはないというのに。
あまりに子どもっぽくて、今となっては自分でも呆れる。
そんなことを聞いて、僕はいったい何がしたかったのだろう?
里奈と年上男・二階堂の結婚になぜか苛立つ。しかしそんな廉にもついに本命彼女が…?
年上女の魔力
そして里奈とは再び疎遠になった。
僕はその後も相変わらずふらふらと、特定の彼女はつくらず無責任な付き合いばかりを繰り返した。
女たちはいつも、気まぐれに近づいてきたかと思えばあっさりと(時には泣き喚いて)去っていく。
しかしそんな身勝手な女たちの中で唯一、ずっと穏やかな笑顔で寄り添ってくれる女がいた。
3つ年上の美月(みづき)と出会ったのは、僕を可愛がってくれている同じ部門の先輩、藤井さんの結婚式だ。
藤井さんは実に彼らしい選択でCAと結婚したのだが、そのCA妻、つまり新婦の女子大時代の友人として参列していたのが美月だった。
男性なら必ず共感してもらえるはずだが、結婚式に出席してすることといえば、新婦友人の品定めである。
その場で声をかけるような真似はしなかったが、その日、僕が心の中で勝手にナンバーワンを贈っていたのが美月だった。
単純に、小柄で華奢なスタイルと、年上ながら幼さの残る顔立ちが好みだったのだ。
後日、藤井さんから呼び出された僕は、ひょんな話の流れで美月とデートすることになった。
どうやら彼女のほうも、僕を気に入っているのだという。
とはいえ、先輩の紹介という多少の義理はあれど、僕としては最初から本気だったわけじゃない。他の女たちを切ってまで美月ひとりに向き合う気もなかった。
しかし彼女は、想像以上に包容力のある女だったのだ。
僕に他の女の影があることくらい、美月もすぐに気づいたと思う。しかし彼女は何も言わず、何も聞かない。
美月は某メガバンクの渋谷支店に勤めており恵比寿で一人暮らしをしていたが、しばらくすると自由が丘にある僕の家で過ごすことが増え半同棲のような状態となった。
それでもしょっちゅう深夜または午前様で帰宅する僕を、美月は決して問いただしたりしない。
怒るどころか「おかえり。お茶漬けでも作る?」などと声をかけてくる居心地の良さは、一度ハマると抜け出せない蟻地獄のような魔力があった。
もともと、母親と歳の離れた姉にさんざん甘やかされて育った僕だったから、年上の彼女に甘えるのはごくごく自然な流れだったとも言える。
「ねぇ…廉と私の関係って、なに?」
曖昧な関係が3ヶ月ほど続いた、ある夜のことだ。
ひとしきり抱き合った後、ついに美月からそう聞かれた。彼女は試すように、脱力した僕の腕を胸元に抱き寄せる。
当時28歳、黄金期を迎えた美月の身体には贅肉ではない程よい肉づきがあり、成熟した女だけがもつ艶をも纏いはじめていた。
その柔らかさを、包み込むような温もりを、失いたくなかった。
「何って…美月は俺の彼女でしょ?」
そう言って髪を撫でてみせると、彼女は安堵のため息をつき、その顔をぎゅっと僕の胸に押し当てた。
くぐもって聞こえた「ずっと、不安だったよ」という声は、涙で震えている。
華奢な肩を抱きながら彼女を守らなければならないと感じたのは、男としての本能というべきものだろう。
「ごめんな…ごめん」
不甲斐なさを詫びながら、僕は美月と本気で向き合うことを心に決めた。
ダメな自分をも受け入れてくれる美月の包容力こそが愛だと感じたし、そんな彼女を大切に思う気持ちが愛するということだと、そう信じていたからだ。
美月と真剣に付き合い始めた廉。一方、里奈は二階堂との結婚準備を着々と進めていた
名前を呼んだ理由
「廉、これ届いてたよ」
ある日、珍しく早い時間に帰宅すると、美月が僕に一通の封筒を差し出した。
“一条廉 様”と仰々しく書かれた宛名を見ただけで、中身が何かも、差出人が誰かもピンときてしまう。
封も開けず黙ってカバンにしまい込む僕を見ていた彼女が、珍しく余計なことを言った。
「里奈さん、結婚するのね」
里奈さん、などと気安く口にする態度が、なぜか癪に触る。
「…なんだよ、里奈のことなんか知らないだろ」
冷たく言い放つと、僕は美月を無視して寝室へと着替えに向かった。
しかし彼女はしつこく後をくっついてきて、「知らないけど、知ってる」などと訳のわからないことを言う。
知っているわけがない。美月と里奈に接点などないし、僕は彼女に里奈の話をしたことなどなかった。
「意味わかんねー」と呆れ顔で振り返り、ハッとした。
僕を見上げる美月の瞳が、不安げに揺れていたからだ。
しばしの沈黙が、ふたりを包む。すると彼女は覚悟を決めたように口を開き、思いがけぬ事実を告げた。
「いつだったかな。もう随分前の話だけど…廉、すごい酔っ払って帰ってきた夜に寝ながら彼女の名前を呼んでたよ。
“リナ”って…小さい声で、一回だけだけど。彼女のことでしょう、相沢里奈さん」
美月の言葉に、思わず絶句した。
「嘘だよ。そんなこと、あるわけない」
自分に言い聞かせるように、僕は語気を強める。
里奈に、特別な感情などない。
彼女はただの友達なのだ。それ以上でも以下でもない。
そうだ。もし、もし実際に里奈の名を呼んでいたのだとしても、それはただ寝ぼけていただけ。そうに違いない。
「勘違いだよ」
黙って立ち尽くす美月に、僕はもう一度言った。
「…そっか。まあでも、里奈さんは結婚するんだもんね。その、二階堂直哉さんって人と。それならもう、どっちでもいいわね。忘れるね」
彼女は無理やりに作った笑顔でそう言うと、ようやく踵を返しリビングへと戻っていった。
僕はそんな彼女の背中を黙って見送る。姿が見えなくなると急に果てしない疲労感に襲われ、そのままベッドに倒れこんだ。
力なく、ぼんやりと天井を見上げる。
そこに里奈の顔が浮かびそうになって、僕は慌ててぎゅっと強く、目を瞑った。
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直哉の妻となった里奈の新婚生活。そこに幸せはあるのか?