―私、もしかして...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱えていた。

女子会マウンティングにもめげず、藤木というスパルタ医の元で体外受精に踏み切った杏子。“陽性”の結果を知らされたが、赤ちゃんの心拍が確認できず、嫌な予感に襲われていた。




杏子はその日、とうとう会社に行くことができなかった。

思考は完全停止し、何の感情も沸かない。頭の中は、まさに真っ白という状態だ。

だが、そんな精神状態をまるで無視するように、胃の底から嫌な吐き気がこみ上げる。

“悪阻”(つわり)だ。

妊娠5週を過ぎたあたりから、この重度の船酔いのような症状に襲われることが多くなった。それだけでなく、体力は著しく低下したし、耐え難い眠気と怠さが1日中身体に纏わりついている。

だが、そんな体調不良も「お腹の赤ちゃんが育っている」と思えば、杏子にとってそれほど大きな悩みではなかった。

毎月のあの無意味な生理痛に比べれば、悪阻などいくらでも乗り越えられる気がした。その先に“新しい家族”が待っているならば、どんな不調も痛みも喜んで耐えてみせる。そんな気合いは十分だったのだ。

それなのにー。

最終的に藤木が下したのは、「稽留流産」という無残な診断だった。


幸せから一転、ドン底に突き落とされた杏子の行動は...?!


初めての妊娠、初めての流産


流産といえば、突然出血したり、酷い腹痛に襲われるイメージが強い。

だが、杏子の場合は多少弱まりつつも悪阻も続いたまま、妊娠検査薬を使えば“陽性”の線がくっきりと浮かび上がった。

そう。表面的には妊娠は継続しているのに、お腹の中の赤ちゃんの成長は止まってしまったのだ。それを「稽留流産」と呼ぶそうだ。

「こればかりは、仕方ないです。体外受精や自然妊娠に関わらず、約15%の確率で流産は起こり得るんです。一度手術をして、ホルモン値の様子を見てまた移植から始めましょう」

藤木曰く、妊娠初期の流産は受精卵の染色体異常によるもので、母体に責任はないと言い切った。

いつもよりさらに高圧的な口調の中に、彼なりの慰めの気持ちもあったような気がする。

「...松本さん、“陽性”の結果が出たのも前進です。あまり気を落とさないでくださいね」

担当の優しい看護師は、杏子の背中をさすりながらそう言ってくれた。

この時は、「そうですよね」と辛うじて口角を上げる冷静さも残っていたが、会計時、毎度何万円もする診察費がたったの2千円という最安値であったとき、流産という結果が急に現実味を帯びたのだった。




体外受精を決意し、採卵、移植、そして妊娠判定を経た、約2ヶ月。

普段ならば2ヶ月なんて、特に意識せずともあっという間に過ぎてしまう。

だが杏子にとっては、不安や緊張、期待に喜びに満ちた怒涛の時間だった。これほど感情の振れ幅が大きくなったのは、人生で初めてかもしれない。

もちろん不妊治療経験者であれば、もっと長い間、大変な思いをしている女もたくさんいるだろう。

しかし、杏子にとっては初めての妊娠。そして初めての流産であることには変わりはない。

周囲に気遣いを払いながら、なるべく早く会社を退散した日々。クライアントとの接待も、店員に事前に頼んでさり気なくノンアルコールを頼んだり、細心の注意を払っていた。

妊娠検査薬にホッカイロ、腹巻き、サプリなどの妊活グッズは手当たり次第集めたし、食生活も運動も鍼治療も、できることは何でもした。

そして、“陽性”の結果が出てからは、マツタケや家族からまるで“プリンセス”のように扱われるのは、本当に嬉しかった。

何も言わずとも重い物を率先して持ってくれたり、「家事は全部オレがやるぜ」とドヤ顔でダイソンの掃除機を走らせていたり。

...それでも、杏子のお腹の中で、赤ちゃんは育たなかったのだ。

出社はできなかったのに、オフィス近くの新丸ビルの7階のテラス席で、杏子は昼間からビールをグビグビと飲み干す。

こんな状態でアルコールを摂取するのに躊躇いはあったが、それでも我慢ができなかった。

病院を出るまでは大丈夫だったのに、涙がボロボロこぼれ始める。身体中に染み渡ったビールが、涙腺も緩めたのだろう。

平日の真っ昼間の丸の内のど真ん中で、ビールを飲んで泣く女。

誰かに怪しまれて通報されるかもしれない、なんて不安が頭を過ぎりながらも、杏子は涙を止めることができなかった。


悲しみに暮れる杏子。再度前進はできるのか...?!


「赤ちゃんは、ママを悲しませたくなんてない」


手術のあと、杏子は数日間の有休を取った。

「会社のことは気にしなくていい。元々あまり休みも取ってないんだから、今は無理するな」

そう言ってくれた上司の武藤には感謝したものの、このまま子どもを持てなかった場合、杏子の人生でその穴を埋めてくれるのは、おそらく“仕事”となるだろう。

そんなことを考えると、上司の言葉に甘えて会社を休むことにも葛藤が生まれたが、それでも今は、出社できる状態ではなかった。

「何か、ウマいモノでも食いに行くしか!!」

マツタケは、相変わらず明るく優しく杏子を慰め、支えてくれた。

協力的な彼のためにも、いつまでもウジウジするのは良くないと頭では分かっている。だが、そんなマツタケの目にも、時折ふと悲しみが浮かぶことがあった。

そんな時は、杏子はどうしても自分を責めてしまったし、とにかく今は、他人の目につかない場所でじっとしていたかった。

だが、これまで散々杏子を励ましてくれた由香にだけは、近況報告のために会うことを決めた。




日比谷ミッドタウンの『Buvette』にやって来た由香は、杏子に気を遣ったのか、今日は子連れではなく一人だった。

「良いニュースじゃなくて、ごめん...」

杏子はなるべく話が重くならないように、一連の報告をすませた。だが、どうしても目に涙が溜まってしまう。

こんな風に前触れなく突然涙が溢れるのは、ここ数日は日常的なことだった。気を紛らわせるため、杏子はまたしても白ワインを頼む。

「私がこんなこと言うのも、軽々しいかもしれないけど...」

そして、杏子の話にじっと耳を傾けていた由香も、気づけば同じく白ワイン片手に目を真っ赤にしていた。

「本当に残念だったけど、赤ちゃんは、ママを悲しませたくなんてないと思う。だから杏子、早く元気になって...」



よく耳にする言葉ではあったが、由香の助言はもっともで、胸に突き刺さるような感覚があった。

悲しみに浸るくらいなら、きっとまだ頑張れることが沢山あるに違いない。

たった数日間ではあるが、赤ちゃんはたしかにお腹の中にいた。看護師にも言われた通り、それは大きな前進なのだ。

そして由香が言うように、その間、杏子は“ママ”だった。

その夜、杏子は前のめりで購入した「たまごクラブ」やマタニティマークは廃棄し、「トツキトオカ」の妊娠記録アプリも停止した。

投げやりになったわけではなく、一旦気持ちもリセットし、新たな気持ちで妊活に励もうと思ったのだ。

だが、その数時間後に何気なくスマホを開いたとき、杏子は信じられない画像を目にした。

「ねぇ、マツタケ...!」

-I always desire your happiness-

記録停止した「トツキトオカ」アプリの画面に、空に帰っていく赤ちゃんの画像とともに「あなたの幸せをいつも祈っています」というメッセージが表示されていたのだ。

「...コレ作ったの、誰やねん...!」

杏子とマツタケは号泣で顔がグチャグチャになりながらも、アプリにツッコミを入れ、最後には数日ぶりに笑い合っていた。

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空に帰っていった赤ちゃんのためにも、新たなスタートを決意する杏子だが...!