「シン・ゴジラWalker」

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厳重な情報制限を経て公開されるやいなや、たちまち話題となり大ヒットとなった映画「シン・ゴジラ」。すでにファンにより多くのネタバレが語られる中、更なる通な視点で掘り下げた「シン・ゴジラ」の“愉しみ方”を短期集中連載!

■ ロビン・ウィリアムズと「シン・ゴジラ」

「いまを生きる」は、1990年に公開されたイギリス映画だ。厳格な全寮制高校に、ロビン・ウィリアムズ演じる英語教師、キーティングが赴任してくる。キーティングは教壇の上に生徒たちを立たせ、視点を変えることの大切さを体感させる。生徒たちは、キーティングの破天荒なふるまいに感化されていく。ところが、ひとりの生徒の自殺をきっかけに、キーティングと生徒たちの信頼関係は学校側に引き裂かれ、彼は辞職に追いこまれる。授業中、型どおりに教科書を音読させられる生徒たち。彼らの背後を、無言で立ち去ろうとするキーティング。彼を見送るため、ひとりの生徒が、意を決して机の上に立つ。もちろん、授業を担当する高齢の教師は止めるが、ひとり、またひとりと生徒たちは机の上に立って、キーティングを見送る。彼の教えは、生徒ひとりひとりの体に染み込んでいたのだ……が、カメラが引くと、冷淡な事実が明かされる。机の上に立ってキーティングを見送っている生徒は、クラスの半分ぐらい。残り半分は、背中を向けて座ったままなのだ。

残念だが、現実なんてそんなもんなのかも知れない。だが、「そんなもん」を描くことによってしか伝わらない驚きがある。「シン・ゴジラ」は、膨大な「そんなもん」によって成立している。

石原さとみ演じる米国特使カヨコ・アン・パターソンが、書類を机の上にすべらせる。それを受けとる日本サイドの誰かの手。書類や手をアップで抜いて、短い尺でつないでいる。あるいは、対策室が設置され、同規格の無個性なノートPCが次々と置かれていく様子を、ほぼ真横から撮っている。避難勧告がくだされ、仕事部屋からスタッフが一斉に逃げだす。誰もいない部屋で、回転椅子がカラカラと回っている。ビニールにつつまれた真新しいワイシャツ、仕事机の上のおにぎり。これらの短いカットは、単に事実だけを切りとる。感情描写でも何でもない。その場で起きたことだけを、シャープに伝える。

それらのありふれた事実、地味なディテールは、常軌を逸したゴジラの大破壊シーンと地続きだ。無限に進化を続ける巨大怪獣と、僕らの周囲にあるノートPCや回転椅子、おにぎりやワイシャツが同じ世界に存在している。それが、何よりの驚きなのである。

■ 鮮やかに切りとられた分断と対比の現実

CGでモデリングしてしまえば、何でも画面に出すことができる。肺魚のようにグロテスクなゴジラ第二形態。地面に向かってゴジラの口腔からなだれ落ちる炎の塊、高層ビルを無慈悲に切断する青いビーム。最終作戦に惜しみなく投入される新幹線爆弾に、在来線爆弾。何でもアリだ。「何でもアリ」なら、ハリウッド大作には、もっと大規模で派手なCGが溢れかえっているではないか。しかし、それらは怖くもないし、笑いを誘いもしない。

僕らは放射能火炎で焼きつくされる夜の東京を見て、息をすることを忘れた。あまりの怖ろしさに涙さえにじんだ。また、在来線爆弾を見て笑い声をあげつつ、胸の高鳴りをおぼえた。なぜだろう?それまでさんざん、書類の受け渡しや配給されるノートPCなど、当たり前の「事実」だけを見せられてきたからだ。ささいな事実の蓄積を見ているうちに、観客ひとりひとりが、この手で直に触れてきた生の現実と、映画としてスクリーンに投影される虚構とを、深く密接に結び合わせてしまった。ノートPCの支給が事実なら、放射能火炎による破壊も、また事実なのだ。

「いまを生きる」のラストシーンで机の上に立った生徒たちと、去りゆく教師を黙殺して座ったままの生徒たち。そうした痛烈な分断を、カットや構図のみを用いて、一切のセリフを使わずに見せることができるのが、映画の強みだ。

官邸前でゴジラ・デモが行われている。デモ隊のシュプレヒコールをバックに、疲労困憊して眠りこける政府内のスタッフたちを、カメラは撮る。デモに賛同する者をアップで抜いたり、セリフを語らせて感情移入をうながすことはしない。眠っているスタッフたちは、デモをうるさがりもしない。そこには二つの立場の分断だけが、どちらに肩入れすることもなく投げおかれている。このカットは、空虚だろうか?何も語っていないのだろうか?そんなことはない。ゴジラをめぐって大きな世論がうずまいていることを、いやでも想像させる。寝ているスタッフの姿は、実務に追われすぎて世論に耳を傾けている余裕などない状況を、端的に物語っている。ゴジラを目の前にした日本は、実は一枚岩ではないのである。

僕らはつい、主要キャラクターたちの印象的なセリフだけを材料に議論しがちだ。デモ隊と眠っているスタッフの対置など、「点描」として切り捨てられるだけかも知れない。だが、ミもフタもないほどありふれた風景、それを鮮やかに切りとって配置していくクールな手さばきに、僕は「シン・ゴジラ」の底知れぬ視野の広さ・深さを感じる。

【文/廣田恵介(ひろたけいすけ)●1967年生まれ、フリーライター。主な仕事はアニメーション、プラモデル業界への取材、レビューなど。近著に「我々は如何にして美少女のパンツをプラモの金型に彫りこんできたか」(双葉社)がある】