女子同士のマウンティングとは、無縁

白状しますと、最初の打ち合わせで編集の女性から女友達との付き合い方を私なりに書いてほしいとの要請があり、私は軽くスルーしてしまった。

持つ者と持たない者の間で起こる軋轢とか繰り広げられるマウンティングとか、女友達にまつわる諸問題については知見ならもちろんあります。

ただ、頭を悩ます女友達そのものが私の周りにほとんど見当たらないのだ。だから書けない。書けないからスルーしたわけです。

そして打ち合わせの帰り道、季節の変わり目や花粉や低気圧くらいにしかマウンティングされていない現在の自分はどうなのかと少し心配になったりしました。

女友達の維持が向いていない

あるきっかけから私は14歳の頃に女友達を維持する努力をやめてしまったのです。どうやら自分には同時複数の女たちを癒し宥める能力が決定的に欠けていることを知り、観念したのです。友達はできるが常に自然発生にまかせることになり、当然、自然消滅も起こり得る。学生時代を過ぎると、自然発生は自然消滅に簡単に追い越されてしまいました。

寂しくもあり、道理なようでもあり、もともと堪え性と執着が続かない私には、だからある意味友達とは期限があるものという諦めがあったりするのです。

個性的ファッションをやめたMさん

そうやってウカウカしている内に失った女友達の中でも、強烈だったMさんの話。

彼女のことを実はこの月にあげたばかりの漫画に描いたのだけど、その話をここでも少ししたいと思う。

大学時代、N田くんと共に仲が良かった私たちは、卒業のあと前後はしたが揃って上京していた。しょっちゅうお互いの家を行き来して、話は夜中まで盛り上がり、彼らの存在で私は上京の寂しさをある期間、紛らわすことができた。

学生時代こそ奇抜な作品製作やファッションで皆を面白がらせていたMさんは上京後OLとなり、外見はすっかり落ち着いていました。溌剌としたショートカットはフェミニンなロングヘアになり、誰も思いつかないようなコーディネートの古着姿から、楚々としたOLファッションに変身したのです。

女性であることでおびき寄せてしまう犯罪

そんな彼女がある夜、暴漢に襲われかかった。

会社帰りの夜道、自転車で帰宅を急ぐ彼女にひとりの男が自転車で近づき、衝突してきた。倒れこんだ彼女に覆い被さるように接近した男は刃物をチラつかせ、声を出せないように彼女を脅した。

それでも大声を振り絞り、彼女はすんでのところで逃げきったらしい。警察に行ったその帰りだったか翌日の夜だったか、私はその事件を聞いて戦慄しました。

私は学生時代に下着泥棒の被害にあっていて、周囲に相談するもこちらの深刻さが全く伝わらないことに落胆しきった経験があります。伝わらないのは怖さでした。人々からすると下着泥棒という存在の滑稽さ、たとえば盗んだパンツを被っていそいそと逃げる、みたいな漫画的マヌケさがその恐怖感を薄めているんだと思うけど、されたこっちはとにかく恐怖なのです。相手がいくら下着をこっそり盗む「くらいしか」できない小心者であろうが、身に覚えもなく、ただただ女の姿をしている私が標的になったという事実は、はっきりいって生きた心地がしない恐ろしさでした。そのせいで私は女の姿をしていることが不快でたまらなくなり、坊主(か角刈り)にするかどうかで迷った。そして坊主にする勇気も女でいる胆力も持ち合わせないまま、自ら選択をする事はなく、姿はそのまま女で居続けたわけです。

下着泥棒程度の被害で私は女であることを呪ったのです。実際に、目の前で性を狙われ命を脅かされたMさんの恐怖は想像を絶しました。

そこへ来て、彼女の「その次の行動」はそういった私の共感を、それはもう豪快に振り切っていた。

ふんわりしているからと言って、迎合しているわけではない

Mさんは恐怖の底を味わった翌朝、丁寧に巻いたロングヘアにふんわりスカートで出勤したのです。

実は私は、いわゆるOL的フェミニンスタイルに転じたMさんを本心では没個性で残念に感じていたのです。でもそうじゃなかった。個性は死んでなんていなかった。奇抜な古着姿と同じく、主張があったのです。彼女は、意識して、胆力で、女で居続けた。私には到底成し得なかった行動でした。

めちゃくちゃかっこいい。
今もそう思います。

Mさんとはその後、ある時意見が決裂し、会うことはなくなります。これは単に自然消滅とは言えない形で、ひとえにわたしの、他人に対する共感と堪え性のなさが原因です。

意見が違うことも、生き方が違うことも、他人だからしょうがない。恋人ほど執着が続かないから、一生ズッ友でいられることなんて奇跡です。
でもその時の彼女の個性は今も私を圧倒し続ける。あんなにも執着した男の子たちのどの思い出をも、軽く蹴っ飛ばして今も燦然と頂点あたりに輝いている。
いつかまた会えたら嬉しいけど、会えなくてもいい。友達だった時間は一部ではあっても、ずっと残っている。

だからって開き直っている場合じゃないのかもしれない。自然発生した友情は歳とともにどんどん希少なものになっているわけで、1人では生きていけないわけで、だから私はこれまで以上に大事に丁寧にそれを扱わないといけない。共感と関心と堪え性を持って。わたしにとってアラサーの友情問題とは、そういうことであります。

(鳥飼茜)