あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?

「元カレとはもう、なんでもないから」

大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。

だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。

しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。

「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。

◆これまでのあらすじ

会社の後輩・健作と婚約していた千秋。しかし、健作の中高時代の元カノ・雛乃が現れたことで関係が悪化し、婚約破棄。

それから1年後。新たな友人・明日花が健作を好きになる。「付き合い始めた」という報告の直後、彼女は健作を呼び出して…。

▶前回:「あと5分で彼氏が来るから会ってくれる?」親友からの突然のお願いに、女が凍りついた理由




「あれ、もうこんな時間か…」

気がつけば、スマホの時刻は14時を回っている。

これ以上遅くなってしまっては、ランチを食べ損なってしまいそうだ。そう思った私は、食欲のない体を引きずり、1人でオフィスから渋谷の街へと向かった。

気だるい体にどうにか喝を入れるために、美味しいコーヒーが飲みたい。気がつけば、無意識のうちに『シアターコーヒー』を目指していた。

温かいラテを受け取り、早速、ひとくち飲む。その瞬間、私の脳裏には一瞬にして、健作との過去の思い出がよみがえるのだった。

― うわ…。そういえばここ、健作とよく来てた店だった…。

次々とあふれ出る健作との幸せな、そして苦痛の思い出。抱えきれなくなった私は、店の前のソファに座りながら頭を抱える。

健作と別れてから1年が経ち、関わりがなくなってからは、彼のことなんてすっかり忘れられていたのに…。

明日花ちゃんが健作のことを好きになって以来、いつのまにか彼が私の生活に入り込んでしまっている。

これまで何人かいた元カレとすべて疎遠になってきた私にとって、元カレの現状を熟知しているというのは、初めての経験だ。

特に…先月の土曜日の“あの会”は、私にとって異様としか言えない空間だった。

熱いラテで指先を温めながら、明日花ちゃんと健作と私の3人で過ごした土曜日のことを思い返すのだった。


千秋と明日花、元カレの健作。3人の間で交わされた会話の内容は…


明日花ちゃんから「健作と付き合い始めた」と報告を受けた、先月の土曜日。

「健作くんと一緒に、千秋ちゃんにお礼が言いたいから」と言われて、しぶしぶ席に残ることにしたのに…。

私の姿を目にした健作は、和やかにお礼を言うどころか、驚きのあまり目を見開いて立ち尽くしているのだった。

「健作くん、びっくりした?実は私と千秋さん、友達なの〜!」

明日花ちゃんだけが、明るい声ではしゃいでいる。そのセリフの内容からして彼女は、私と友達であることを健作に伝えていないようだった。

「明日花ちゃん。今日、ここに私がいることは、健作は知らなかったの?」

「うん。びっくりさせちゃおうと思って!ね、健作くん。いつまでも立ってないで、座って座って」

戸惑いながら尋ねる私にそう答えてから、明日花ちゃんは放心状態の健作をなかば無理やり隣に座らせる。

そして、健作の腕に自分の腕を絡ませながら、上機嫌に弾んだ声で言うのだった。

「というわけで、改めまして。健作くんと私、お付き合いすることになりました!千秋ちゃん、たくさん相談に乗ってくれてありがとう!これからも応援してね」




「おめでとう。2人が付き合うことになって、嬉しいよ」

「聞いた?健作くん。千秋ちゃんも嬉しいって!私と健作くんがうまくいくようにって、ずーっと千秋ちゃんが手伝ってくれてたんだよ。ね、健作くんからも、ちゃんとお礼言ってね」

異様にハイテンションな明日花ちゃんの横で、健作はただただ困惑しているように見える。

黙り込んでいる健作に、彼女はニコニコしながら言葉を続けた。

「健作くんと千秋ちゃんって、今も同じ会社なんだよね?前に色々あったかもしれないけど、こうしてまたプライベートでも会えたんだし、引き続き友達として仲良くできたらいいよねっ」

「いや…」

ずっと黙り込んでいた健作が、苦しげに一言だけそうつぶやく。

けれど、明日花ちゃんはキョトンとした顔で健作の目を覗き込むと、さも不思議そうに問いかけるのだった。

「えっ、どうして?だってもう2人は、今はなんでもないんでしょ?私も一貫校で育ったからわかるよ。別れたあとだって、本当になんの気持ちもなければ友達になれるものだよね」

健作は、反論できずに黙り込んでいた。それもそのはずだ。私と付き合いながら、元カノである雛乃ちゃんとの友情を続けようとした事実があるのだから。

そのことを私は以前、たしかに明日花ちゃんに話したことがあった。「別れた理由、教えて?」とお願いされて。

「今、思えば、過去の彼女の存在なんて、全然気にするようなことじゃなかったんだけどね」という言葉とともに。

明日花ちゃんの言うことは間違っていない。雛乃ちゃんとは友達になれて、私とはなれない理由はないだろう。

今の彼女かつ共通の友達という、一番気にするはずの立場である明日花ちゃんが「3人仲良くしたい」と言っているのだ。

かたくなに拒否してしまったのでは、逆に妙な誤解を招きかねない。

それを危惧した私は、ただただ異様な空気が漂うこの空間で、微妙な笑みを浮かべながら曖昧にうなずくことしかできないのだった。


千秋の前で2人が見せた、異様な態度。その理由とは?


私は、土曜のことを思い返してしまったせいで、まともな昼食をとらないまま終業時刻を迎えてしまった。

そのまま目黒の自宅マンションに帰り、テイクアウトで1人の夕飯を済ませる。

2人がけのソファの上には、乾いたヨガウエアの入ったステート オブ エスケープのバッグが無造作に放り出してある。

今日は水曜日。いつもなら仕事帰りにホットヨガに行く日だ。けれど、どうしても行く気になれなかったので、私はこうして会社から直帰してダラダラと時間を過ごしている。

レッスンをキャンセルするのは、これで2週連続になってしまった。

でも、足が向かない。行けば明日花ちゃんと会ってしまうかもしれない。考えるだけで、言いようのない憂鬱と疲労感に押しつぶされそうになってしまう。

「どうしたら、元カレと友達になれるんだろう…」

私は小さくため息をつくと、ゆっくりと手に持っていたフォークを置き、誰に言うでもなくつぶやいた。

そして、気分転換にシャワーでも浴びようかと思い、席を立ったそのとき。

テーブルの上に無造作に置いてあったスマホが、着信した。

伏せてあった画面をひっくり返し、発信者を確認した私は、あまりのタイミングに息を呑んだ。

煌々と光る画面には、1年前の別れ際ぶりに『健作』と表示されていたのだ。




「えっ?」

思わず声が出る。きっと普段の私であれば、気づかない振りをしていたかもしれない。でも…。

― 変に避けるから、いつまでも気まずいんだよ。

以前、明日花ちゃんに言われた言葉が、ふと聞こえた気がした。

この前の土曜日は気まずい空気になってしまったけれど、それはきっと、お互い心の準備ができていなかったからなのかもしれない。

「これもいい機会なのかも…」そう考えた私は勇気を出して、手の中で震え続けるスマホの通話ボタンを押す。

「もしもし…?」

しかし、電話に出た私を待ち受けていたのは、さらなる驚きだった。

スマホの向こうから聞こえてきたのは、健作ではなく、明日花ちゃんの声だったのだ。

『あっ、千秋ちゃん?私、明日花だよ。今日、ヨガで会えると思ってたのに、来ないから寂しかったよ〜』

予想外の明日花ちゃんの登場に、うまく言葉が出てこない。そんな私の混乱を察してか、明日花ちゃんが言葉を続けた。

『あっ、健作くんの番号からごめんね。私のスマホが今、電池ゼロになっちゃって。ちょうど健作くんはお風呂に入ってるんだけど、その間にちょっと千秋ちゃんに相談したいことがあって電話したの!』

「そう…なんだ」

明日花ちゃんはいつものように無邪気な様子で、いくつもの質問を私に投げつける。

『もうすぐクリスマスじゃない?健作くんにサプライズプレゼントしたいんだけど、マルジェラの香水ってどう思う?嫌いかな?』

「うーん、ちょっとわからないな…。私じゃなくて、菊田くんとかに聞いてみたら?」

『えー!だって菊田さん口軽そうなんだもん!それに、他にも千秋ちゃんに聞きたいことあって。

実はね…来週はじめてご両親と会うことになったの。千秋ちゃん、あんまりうまくいかなかったんだよね?なんか失敗したなーって思うことある?』

一瞬、耳を疑った。いくらなんでも、デリカシーに欠ける質問であるように思えた。

「…明日花ちゃんなら、きっと大丈夫だと思うよ」

私は必死に冷静を装いながら、どうにか当たり障りのないセリフを絞りだす。だが、明日花ちゃんは追撃の手をゆるめなかった。

『え〜、そうかなぁ。あとさ、もう1個だけ質問!』

「…なに?」

『健作くんって、キスすごい変じゃない?下唇噛んでくるのー!あれ絶対笑っちゃうんだけど、千秋ちゃんのときもそうだった?』

― っ!

気がついたら私は、無意識のうちに電話を切っていた。

吐き気にも似た、不快感が込み上げてくる。

健作のことは、もう好きではない。けれど、明日花ちゃんと話していると、健作との大切な思い出が汚されていくような気がするのだ。

頭の中がめちゃくちゃだ。同じ会社、共通の友人。元カレの今の恋愛を知ると言うのは、こんなにも不快感を伴うものなのだろうか?

何が正しいことなのか、わからない。初めて感じる嵐のような混乱から正気を取り戻すために、この話題について打ち明けられる誰かに切実に会いたかった。

私は、放り投げそうになっていたスマホの画面を、もう1度見つめる。

そして、連絡先一覧から和香の名前を一瞬選んだあと…。

思い直して、雛乃ちゃんに電話をかけたのだった。

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明らかに敵意を剥き出しにし始めた明日花。雛乃に助けを求めた結果…