騙されたのは女か、それとも男か?
「恋」に落ちたのか、それとも「罠」にはまったのか?

資産200億の“恋を知らない資産家の令嬢”と、それまでに10億を奪いながらも“一度も訴えられたことがない、詐欺師の男”。

そんな二人が出会い、動き出した運命の歯車。

200億を賭けて、男と女の欲望がむき出しになるマネーゲームはやがて、日本有数の大企業を揺るがす、大スキャンダルへと発展していく。

男が最初の駒に選んだのは、令嬢・神崎智(かんざき・とも)の部下だった。智は追い詰められたように見えたが簡単には騙されず…平穏な日々が戻るかに見えた。しかし、智の夫の秘密が詐欺師に再びチャンスを与えてしまった。

そして、仕事の大舞台でのトラブルを詐欺師に救われた智は、お礼を兼ねて、男をある場所に誘い、2人ははじめて楽しく笑い合う。そこへ、夫からの着信が入り…




「トトちゃん、ごめん、大輝くんから着信してたけど…何で俺に?」

村松さんにそう言われて、私はバッグの中から携帯を取り出した。パーティーに入る前に、プライベート用の携帯をサイレントモードにしたことをすっかり忘れてしまっていた。

パーティが終わった時間から今までに着信が3件。1時間前に『心配なので一度連絡ください』というメッセージも入っている。

会場を出る前に、夫には『こちら終わりました。明日戻る前に連絡します』というメッセージを送信したが、その後の夫からの返信はチェックしていなかった。

そのあとに、父とのやりとりや小川さんとのことがあり…という事情もあったのだが、なんとなく夫との接触を避けてしまっている自分のことも分かっていた。

「すぐに連絡してあげた方がいいんじゃない?お嬢ちゃんに何かあったのかもでしょう」

会が始まる30分前までは、娘の愛香のことが気になって何度かやりとりをしていたし、もう今日は早めに眠らせるというメッセージをもらっていた。その後、何かあったり非常事態になれば、例えパーティー中でも父やスタッフに連絡をして欲しいと伝えていた。

だから、娘に何かあったわけではないとは分かっていたけれど、村松さんの心配そうな目が、すぐに連絡してこいと言っていて、逃げられそうにない。

今の複雑な…夫への私の気持ちや事情をここで話すわけにもいかず、私は小川さんに、席を外すことを詫びてから携帯を持ってBARを出た。


妻が知らなかった、夫の意外な過去が明らかになる。


もう、25時を回っている。眠っているかもしれない。

もし愛香の隣で寝ていたら愛香まで起こしてしまうかもしれない…などと、なんとか連絡しないで済む言い訳を探している、往生際の悪い自分に笑えてきた。

BARから少し離れた廊下の隅で、探偵の調査報告メールの本文を思い出してしまう。

『あなたのご主人の大輝さんは、あなたを裏切っています』
『出会ったときから今まで、ずっとあなたを騙している』
『あなたたちの結婚は偽物で、彼の打算的なものだ。彼はあなたが思っているような人間ではない』

ショートメールが密告してきた「夫の裏切り」というものが、過去から現在に渡っているというような内容だったので、探偵には、夫の過去の経歴から調べてもらうことになった。

その報告が来たのが昨日の朝で、私は、なぜパーティーが終わってから調査を開始しなかったのだろうと後悔した。

それは調査報告の内容が…、彼を信じたいと思っていた、むしろ信じるために調べた私が愕然とする内容だったからだ。

学歴などの詐称はなかったけれど、まず1つ目の問題は、女性遍歴だった。




『18歳までしか溯れませんでしたが、女性関係は華やかというより激しかったようです。2人や3人同時に進行することもあったようで、女性同士が派手なトラブルを起こしたりしています。だから比較的調査は容易でした。細かい人数と女性のお名前が必要であれば、申し付けください。別途送らせていただきます。

神崎さんと出会われた時期にも、お付き合いされている女性はいたようですが、神崎さんとお付き合いを始めたと同時期に別れたようです。その後女性との関わりは途絶えていて、結婚後も浮気の形跡はありません』

大輝は私と出会った時、朴訥なエンジニアだった。私以外、ほとんど女性とお付き合いをしたことがなく、研究ばかりでここまできたと言ったし、振る舞いもそうだった。

デートの度に「僕は女性に慣れてなくて」と謝られたし、必死だった。私はそんな彼に好感を持ったのだ。

―なんのために…そんな嘘を?

夫が、自分に話していた過去が違うのだと分かった場合、普通の夫婦ならどうするのだろうか。

それに、もう一つ。探偵が報告してくれたことがあった。

『社長であり、神崎さんのお父様である神崎潤一郎さんに、借金の肩代わりをしてもらっています。返済の時期は、神崎さんと大輝さんのお付き合いが始まる前です。奨学金の返済を含めたもので、細かい額は今まだ調査中です』

そんな話は夫からも、父からも聞いたことがない。しかも私と付き合う前となれば、一体どういうことなのか、2人の間に何があったのか、全く理解も想像もできなかった。

夫とは社内の研修で出会い、一緒に過ごすようになり付き合いを申し込まれた。プロポーズを受けてはじめて、私は社長の娘であることを告げたし、夫は本当に驚いていたと思う。

そしてプロポーズされて、その人と結婚したいと思っている、うちの社員だ、と父に告げた。

父は、結婚相手は自分で選ぶよう、いつも私に言っていたので反対されるとは思っていなかったけれど、その人物の身元調査は自分がすると言ったのだ。

そして、その調査結果が納得いくものであれば結婚を許す、と。


尊敬する父までも自分を裏切っている?父と夫の裏切りを疑った智は…?


父が調査することは別に不自然なことではなかったし、そう言い出すだろうと思っていたから、私は疑いもせず納得したのだけれど…私の探偵が見つけたこれらの事実を、あの父が調べ上げられなかったとは到底思えない。

―お父さんは、彼の女性遍歴を知ってた。

ならばなぜ…父は、夫の女性遍歴を知りながら、夫が女性慣れしていない人のように振る舞っているのを知りながら、あっさりと結婚を許したのか。それに、大輝の借金の存在を私に教えないまま、なぜ父が返済したのか。それも、私たちが付き合い始める前に。

とにかく混乱した。私が、世界で一番信じて良いはずの2人が…なぜ?

混乱で、取り乱しそうで怖かった。だから私はとりあえず、パーティーが終わるまでこのことに向き合うのを止めようと思った。そして夫から逃げるようにパーティー会場に入ったのだ。

―でも、パーティーは終わってしまった。

決着をつけるために、きちんと考えなければいけないと分かっているのに、ただ電話をかけることすら身構え躊躇してしまう自分が情けない。

『なかなか連絡できずにごめんなさい。パーティーは無事終わりました』




結局通話を諦め、LINEを入れた。するとすぐに既読になり、着信した。

大輝という文字が光る着信画面を見つめながら、私は…大きく息を吐き出し、吸い…諦めて画面を指で触れた。

「もしもし…ごめんね」

何に対して謝ったのか分からないまま、私はそう言った。すると電話の向こうの大輝が、こっちこそごめん、と言った後続けた。

「”終わりました”だけのメッセージだったから、なんとなく気になってさ。普段の智なら、うまくいったとか楽しかったとか入れてくれるから。心配になって何度もかけちゃって、ごめん。

あそこに泊まるなら村松さんのBARに顔出すだろうなと思って、村松さんにまでかけちゃったよ。ごめん」

夫が…いつもより、ごめんと連発しているように思えるのは、気のせいだろうか。

夫はもちろん、私がここに泊まることを知っていた。温泉に入れる場所で一泊して帰ってきてもいいかと尋ねた時、この場所を勧めたのは寧ろ大輝の方だ。

家族でも何回か来ているから、村松さんと夫は顔見知りだ。私がやらないゴルフに一緒に行くために、2人が連絡先を交換していたのも知っている。でも普段の夫なら、私から連絡が来るまで待つはずで、こんな深夜に、村松さんにまで電話をかけたりはしない。

―私に、調査されていることを知って…焦ったのかもしれない。

「ごめんね。ちょっと打ち上げ、というかお礼をしていて…パーティーの前に携帯をサイレントにしてたのを忘れちゃってて。片付けに時間がかかって終わったのも遅かったから、もう寝てるかなと思って。愛香、グズらず寝た?いつも、ごめんね」

本当に聞きたいことを口にできず、当たり障りのない話ばかりしてしまう。言い訳をしているような気持ちになるのは、夫に直接問うことができず、こっそりと調べ上げてしまった、やましさと、罪悪感のせいだろう。そして。

―怖い。

認めざるを得ない。私は怯えている。夫が私を騙し続けていたのだと確信することを。

その目的を、真実を、知ることが怖い。

「…珍しいね、智がだれかと打ち合上げなんて。誰?」


これは詮索…?夫からの問いに、妻のこたえは?



少しの沈黙の後、大輝はそう言って、何人かのスタッフの名前を挙げてその人たちか?と尋ねた。私は今、小川さんのことをきちんと説明する気力もなくて、大輝が知らない人、とだけ伝えた。

「そっか。お疲れ様。ゆっくりしておいで。そっち出る時に連絡もらえる?夕飯までに戻ってくるようだったら、俺、何か作って待ってるけど。あ、外食の方がいい?」

「夕方には絶対戻るわ。話したいこともあるし、家の方がいいけど、私が適当に何か買って帰ってもいいし…無理しないでね」

付き合い始めのように、相手の反応を一つずつ確かめて喋る。そんなぎこちない空気がお互いの間に流れているのが、電話でも分かった。

私は少し疲れてもう眠いから、と言って電話を切った。

―眠れないくせに。

事実、裏切りを密告するメールが届いてからの睡眠は浅かった。夫のいる寝室に戻ることができず、仕事を持ち帰っていることを言い訳に、ソファーで眠った日もある。

誰に裏切られてもいいように、常に心の準備はしてきたはずなのに。

「神崎さんのことがとても好きです」と言ってくれた時の、大輝のあの照れ臭そうな笑顔は今もはっきりと覚えているのに、もしあの頃の全てが嘘だったとしたら?

―私はどうなるのだろう。

事実を知らない方がいいかもしれない。そう思うのは初めてだった。

「神崎さん?気分悪くなりました?」

背後からかけられた声の主…小川さんに、心配そうに覗き込まれてはじめて、自分がだらりと壁に寄りかかっていたことに気がついた。

「酔っ払いました?」

「……」

「動けない?大丈夫ですか?」

「……大丈夫じゃ…ないです」

気がついた時には、そう吐き出してしまっていた。自分の言葉に驚き、私は慌てて撤回する。

「…あ、ウソです、大丈夫です」

小川さんは眉間にしわを寄せ、すみません、俺が楽しくなりすぎて飲ませすぎました、と謝ってから続けた。

「全然大丈夫じゃないでしょう。顔、真っ青です。もう今日は休んだ方がいい。俺、部屋まで送りますから…」

と言った後、何気ない動きで空中に上がった手がピタリと止まった。そして、おずおずと言った。

「肩を支えても…触れてもいいですか?…気持ち悪くなければ」

その困った顔に、少し和んで答える。

「もう小川さんのことを気持ち悪いなんて思っていません。お気遣いありがとうございます。でも、自分で歩けるので大丈夫です。今日は確かにもう無理そうなので、村松さんに挨拶してから…」

部屋に戻らせて頂きます…と足を踏み出した瞬間。思ったより足に力が入らず、私はバランスを崩した。

倒れる。そう覚悟したけれど、痛みは来なかった。

小川さんに支えられたのだ、と気がついた瞬間、自分の足が宙に浮いた。

「嫌かもしれませんが、我慢してください。今ここには俺しかいませんし、人目はありません」

横抱きに持ち上げられている自分が信じられず、言葉を失った私に構わず、小川さんは私を抱きあげたまま歩き出した。

「大丈夫ですから、下ろしてください」

「少しの間だけ、我慢してください。倒れるよりマシでしょう。神崎さんは今、自分で思っているより、はるかに疲れ果てて、弱っているんです」


久しぶりに流した涙…そして智は詐欺師に…。


「弱ってなんていません」

反論した私に構わず、小川さんは黙ったまま一度BARに戻ると、トトちゃんどうしたの!?と驚く村松さんに事情を説明し、私のバッグを取ると、そのまま私に部屋へと案内させた。

そして私に鍵を開けさせると、静かに部屋を横切り、そっと私をベッドに下ろしてから言った。

「文句なら明日の朝、いくらでも聞きます。気持ち悪いとか、うざいとか…俺を罵りたいなら、ちゃんと元気になって下さい」

呆気にとられたままその背中を見送っていた私に、小川さんはドアの前で振り返った。そして、少し悩んだ様子を見せたあと口を開いた。

「…何があったのか分からないので見当違いだったら、すみません。もし、辛いことがあったとしたなら…。

例えば、なんですけど。思い切り…泣いたりしてみたらどうですか?以前、臨床心理士の方に聞いたことがあるのですが、涙は体内に溜まっているストレスの要因物質を流し出す、意外に理にかなった行為だそうです。

涙をこぼしてしまうのは恥ずかしいことじゃないし、戦い続ける強い人にこそ必要なんだと。我慢ばかりしてたら…癖になるでしょう」

そう言い終わると小川さんは部屋を出て行った。重いドアが閉まる音、オートロックの鍵が作動した音が、間接照明だけの暗い部屋に響いた。

「…我慢ばかりしてたら…癖になる…」

天井を見上げたまま呟き、最後に泣いたのはいつだったかを思い出そうとしたが、思い出せない。

私は、戦い続ける強い人なんかじゃないし、それは自分が一番良く分かっている。そうなりたくて…父のようになりたくて、必死に足掻き、なんとか強く、そう見せようと踏ん張ってきただけ。

でも…その結果は?

父のため息、気まずそうな夫の声、そして今の小川さんの言葉。それらが一気に浮かび上がり、ぐしゃぐしゃになると感情がぐるぐると渦巻き始めた。

―今日は色んなことがありすぎた…から。

胸がズキンと痛み、喉の奥から何かがこみ上げてくる。せり上がってくるそれを抑えようとしたけれどダメだった。

「っ…」

一度出てしまった嗚咽は、堰を切ったように溢れ出してしまう。鼻の奥がツンとし、仰向けになっている私のこめかみに、生暖かく濡れたものが落ちていくのを感じた。

涙、だった。

拭っても、拭っても、溢れ出してしまう。泣きたくない。泣きたくなんかないのに、止まらない。誰に見られているわけでもないのに、とてつもなく恥ずかしくなった時、小川さんの言葉がもう一度聞こえた気がした。

「泣いたりしてみたらどうですか?」

私は、流れ続ける涙と高ぶる感情を、少し回った酔いのせいにすることにして、涙が自然に止まるのを待つことにした。




翌朝、鳥のさえずりと、カーテンから洩れる光で目が覚めた。いつのまにか眠っていたようだ。

体を起こすと、ズキンとこめかみが痛んだ。けれど、体は思いのほか軽く、久しぶりに熟睡できたのだと分かった。

―泣いたまま寝ちゃうなんて。

目元に不慣れな腫れぼったさを感じながら、時計を見るとちょうど午前9時だった。

空腹感を覚え、昨夜ほとんど何も食べていなかったことに気がつく。テラスで朝食を出してもらおうと、スタッフに連絡を入れ、簡単に身支度を整えてから向かった。

森の木々を目の前に見渡せる2階、パーティーホールの横に位置するテラスには先客がいた。Tシャツとハーフパンツのその姿はモナコでの彼を思いださせる。

小川さんだった。

「おはようございます。昨夜はご迷惑かけてすみませんでした」


ついに…巨額を奪う仕掛けが発動!詐欺師がもちかけた、仕事の話とは?




横のテーブルに座りながらそう言った私に、小川さんはコーヒーを飲んでいた手を止め、微笑んだ。

「顔色、戻りましたね。良かった」

「色々ありがとうございました」

コーヒーとクロワッサン、ブリオッシュなどが乗ったプレートをスタッフが運んできて私の前に並べている間、少し会話が中断したが、その間小川さんは驚いた顔でこちらを見ていた。

「…どうしたんですか?抱き上げるなんて気持ち悪い!って怒られると思ってたけど」

そう茶化した小川さんに、私は本心からの言葉を口にする。

「小川さんのおかげで、昨日は久しぶりにぐっすり眠ることができました。スッキリしたんです。ありがとうございました」

「…神崎さん、昨日までと別人みたいだ。素直すぎて何か…怖いんですけど」

怯えたような表情の小川さんが面白くて、私はつい饒舌になる。

「怒ったり、取り乱したり、倒れたり、小川さんには散々、みっともなくて弱いところを見られているので、もう取り繕うのも無駄かなと思って。それに、改めてきちんとお礼を伝えたかったんです。昨日、私は二度もあなたに救われたから」

「ただ部屋に付き添っただけじゃないですか。救われたなんて大げさなものじゃ…」

怪訝そうな小川さんに曖昧な返事を返し、私はコーヒーに口をつけ、ブリオッシュをちぎった。昨日、小川さんが、泣くきっかけをくれたことが私の気分をどれだけ変えてくれたことか。

体から出てきたのは涙だけではなくて、鬱々とした感情も吐き出せた気がする。

「よかったら、これからもどうぞ」

唐突な言葉に私が、え?と聞き直すと、小川さんは穏やかに続けた。

「よかったら、これからも俺に愚痴ってください。神崎さんが、誰にも見せられないかっこ悪い自分を吐き出したくなった時には。会社に伺うことも多くなりますし」

「なるべく、愚痴ることが無いことを祈りますけど」

そう言って私が笑うと、小川さんも笑った。

しばらく他愛もない話を続けた後、小川さんが、ちょっと仕事の話をしてもいいですか?と言ってから続けた。

「お父様からお伺いしました。神崎さんは海外のボランティア団体に資産を渡したいと考えていらっしゃるから、アドバイスしてくれ、と。正確には、うちの事務所の代表の田川にご相談なさったんですが、田川より私の方が海外の案件に詳しいので任されまして」

仕事の話のせいなのか、口調が「私」になり、自然と空気も引き締まった。


心を開き始めた智を、詐欺師が攻め込む。不安になっている女心を巧みに利用する、男からの提案とは?


父は小川さんの事務所のことを随分買っているようだったし、彼らに相談したとしてもおかしくないけれど、この件に関しては、父と私の意見は食い違っている。

父は会社のイメージアップにつながりやすい、知名度のある団体にしなさい、寄付したことも公表しなさい、と言ってくるけれど、私は陽の当たらない団体にこそ寄付をしたいし、声高らかに公表したくもない。

「父から私を説得するよう頼まれました?会社に都合の良い団体にしろ、と?」

私の言葉が硬くなったことに気がついたのか、いえいえ、と小川さんは少し慌てた様子で答えた。

「私は、神崎さんのように、知名度の低い団体に寄付するという意見に賛成です。お父様が優れた経営者であることは承知しておりますが、寄付をビジネスに直結させるためにメジャーな団体に寄付する、というのは安易で短絡的だと思います。

実は私は、アメリカで、知名度の低いボランティア団体の代表と支援者を結びつけるという活動もしていました。

アフリカや東南アジアの女性の教育や社会進出を助けている団体とか、後進国での医療サポートの団体とか、いくつかの団体の代表たちとは、今も懇意にさせてもらってるんですよ。もし、神崎さんがご興味がおありなら、是非ご紹介したい。

お父様に納得していただける戦略もいくつか提案できますよ」

―結構です。私1人でできます。

と、今までの私ならそう言っていただろう。でも。

「自分にないものを持つ人の能力を評価して、使うことを覚えるべきだ」

「少しは、人に心を許して頼りなさい」

父がそう言ったように、私も人に頼る努力をするべきなのだろう。

「お願いします。東京に戻ったらスケジュールを調整しましょう」

私の言葉に、小川さんは、分かりました。では資料を用意しておきますね、と淡々と答え、タブレットを操作し始めた。私は朝食を食べながら、テラスの目の前に生い茂る緑が風に揺れる様子を見つめる。心地よい沈黙が流れた。

私は携帯を取り出し、覚悟を決めて夫にLINEを打った。

「おはよう。愛香は起きましたか?今朝食を食べています。お昼にはこちらを出ることになると思います。出る時にまた、電話します。その時、愛香の声も聞けると嬉しいです」

―変わりたい。

仕事での自分だけではなく、夫との関係も変えたかった。

今までの私が夫に対して、本当に心を許していたか、心から信じていたのか、と問われれば自信がなかった。

彼が嘘をついていたとしても、私は全てをさらけ出してみよう。調べていたことを謝り、彼の嘘の事情を聞いてみよう。怖いけれど、過ごしてきた結婚生活の全てが嘘だったとは思えないし、思いたくないから。

一晩泣いて、すっきりして、守りたいものがはっきりした気がした。

そのきっかけをくれた小川さんの方をちらりと見ると、彼はタブレットを置き、目の前の緑…というより遠くを眺めていた。




私の存在を忘れたようなその横顔に、富田のことを思った。

なぜ2人は別れてしまったのだろうか。あんなに小川さんのことを好きだった彼女が、どうして彼のことをフッたのだろうか。

夫が初めての異性である私の経験不足のせいか、どうにも想像がつかない。彼のことを考えるだけで、心臓がうるさいとまで言っていた富田の思いは、きちんと消えるのだろうか。

昨日からずっと気にかかっていたのに、詮索するのは失礼な気がして、今もまた、上手く問う言葉がみつからなかった。

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ついにお金が動き出す!そして正直になった智に…夫が非情な言葉を発してしまう!

▶明日9月9日(月)は、人気連載『立場逆転』

〜高校卒業後15年。再会した2人の人生は180度違うものとなっていた…。女のプライドをかけた因縁のバトル、続きは明日の連載をお楽しみに!