世界チャンピオンの井上尚弥さん・拓真さん兄弟のいとこで、みずからも元世界チャンピオンのプロボクサー・井上浩樹さん。漫画家で、アニメのガチオタクでもあります。一度現役を引退し、復帰を決意したのもあるアニメ映画を観たから。いかついガタイでアニメ愛を語るギャップが面白い、流転のオタクファイターの知られざる素顔に迫ります。

【写真】オタクっぷり発揮!4コマ漫画家の顔を持つ井上さんのギャグ漫画を公開(9枚目から/全12枚)

世界王者が敗戦後に転身したのは「4コマ漫画家」

── 浩樹さんは井上尚弥・拓真さんと同じ大橋ボクシングジム所属。2015年にプロデビューし、高いテクニックとパンチ力を武器に無敗のまま2019年12月に世界チャンピオンに輝きました。しかし翌年、プロ初黒星を喫した試合の翌日に現役引退を表明。その後、漫画家へ転身し、最強にしてお茶目ないとこ・井上兄弟との日々やみずからのオタクライフを描いた4コマ漫画『闘え、コウキくん』でデビューしています。ボクサーから漫画家とはまったく異なる世界ですが、どのようなきっかけだったのでしょうか。

井上さん:小説家・中村航さんとの出会いからでした。中村さんはアニメ作品の原作も手掛けていて、僕が大好きな人気アニメシリーズ『BanG Dream!(バンドリ!)』もそのひとつとして知られています。高校生がガールズバンドを結成し、バンド活動を通して、少女たちの成長を描く物語です。

もともと中村さんは尚弥の小説を書くために、ジムなどによく取材に来られていたんです。だけど、尚弥はボクシングの練習に時間をとられて取材対応が難しいこともあって。その間、アニメ好きで『バンドリ!』ファンの僕が紹介されて対応することになり、そこから仲良くさせていただいています。

あるとき「浩樹くんの人生を漫画にしたら面白いんじゃない?」と言われて。尚弥のいとこで、世界チャンピオンのプロボクサーながらアニメオタクというキャラに興味を持っていただいたのでしょう。中村さんは原作者とともに、作画をする漫画家の候補者も選んで僕に提案してくれたんです。でも、申し訳ないのですが、僕にはその絵がしっくりこず…。そうしたら「浩樹くん、絵描けないの?」って聞かれたんです。昔から描くことも好きで、キャラクターを模写して描いていたんで、変な自信を持っていて。つい「描けますよ」と答えちゃったんです。

── 大胆発言をしてしまった。

井上さん:そこからが大変でした(笑)。中村さんのもとで漫画家修業に入り、iPadとAppleペンシルを買ってゼロからのスタート。描くのにどのソフトを使えばいいかもわからず、「レイヤーって何?」っていうレベルでしたから。僕のTwitter(現X)で4コマ漫画を連載していくことになったものの、1話描くのに丸1日かかっちゃったりして。でも、慣れてきてからは楽しかったです。

── 連載はSNSを中心に人気を集めました。その4コマ漫画が1冊の単行本になって出版されたわけですね。反響は?

井上さん:元ボクサーが漫画を出したとあって、最初は「何者!?」という感じでした。アニメ好きのオタクファイターが、漫画家に転身したわけです。今振り返ると、いい経験をさせていただきました。漫画家さんや映画監督さんなど、エンタメ系のさまざまな人たちと出会うことができて、ボクシングを離れた2年半は充実していましたね。

アニメの影響でボクシング復帰を誓った

── その後、2022年2月にボクサーとして現役復帰。復帰を決めたのは、尚弥さんの存在が大きかったと記事で拝見しました。

井上さん:尚弥とは小さな頃から一緒にボクシングをやってきたんで。引退してボクシングの世界から離れた僕のことを気にかけてくれていて。会うたびにボクシングの話になり、「いつまた(ボクシングを)始める?」「漫画はまたいつでも描ける。ボクシングは今しかできない」などと声をかけてくれました。僕の父親もずっと応援してくれていて「もう1回見たい」と。漫画の世界で新しく出会った人たちからも、「ボクシングをやっていたんだ、試合を見てみたかったなあ」と、言ってもらって。

そんななかで復帰の決め手になったのが映画『バンドリ!』の最新作だったんです。その日は編集の人とふたり、締め切りに追われていて。その子もアニメ好きでよく一緒にアニメの話をしたり、アニメ映画を見に行ったりする仲でした。息抜きに上映中の『バンドリ!』の最新作を見に行こうという話になって。

大好きなアニメ作品『BanG Dream!(バンドリ!)』の映画が転機をもたらした

場所は新宿の映画館で、夢の大切さを伝える「SAVE the Dream」と題した物語でした。映画を観終わり、いつものようにふたりで感想を語り合っていたんです。感動に浸っていたら、なんか心に刺さって、熱い涙が流れてきて。自分自身、夢の大切さを改めて思い出し、身体がうずうずしてきたんです。そのとき「もう1回、ボクシングに向き合おう」と決心しました。

「僕、これから帰って、トレーニングがてら走ります!」「わかりました。行ってください!」と。映画に影響されて気持ちが高ぶったのでしょう。帰宅し、すぐにロードワークに行き、筋トレして。それから尚弥に電話しました。「アニメ映画見てきて、火がついたから、もう1回やるわ!」って。そうしたら尚弥に、「アニメで復帰!?お前アホか。俺があんなに言っても響かなかったのに、なんじゃそれは!」と、笑われて。でも、喜んでくれましたよ。

負けても負けてもボクシングを続ける訳

── 復帰2戦目の2023年8月の世界タイトルマッチでWBOアジアパシフィックスーパーライト級王座に返り咲きました。その後、2024年の試合で敗戦を喫して王座陥落となり、再び現役引退を示唆。ただ、すぐまた撤回して、1つ上のウェルター級に階級を上げて2025年3月の試合で勝利し、今に至っています。

こうした紆余曲折には何か思いがありそうな感じですが。

井上さん:世界王座に返り咲いた翌年、2024年2月の試合の対戦者は永田大士さん(当時、同級4位)でした。永田さんは最初の世界王座防衛戦で闘い、僕が負けて引退を決意することになった相手です。その試合は情けない試合でした。その屈辱を払拭したくて現役復帰を決断したのが、秘めた理由でもありました。だから、永田選手と再戦を望んだんです。

結果的に判定で再び負けてしまったものの、自分のなかでは納得のいく試合で。やりきった感が強くて、再戦後の2度目の引退示唆につながっています。

尚弥さんの試合前はチームに必ず帯同し、練習をサポートしている

── でも、引退をすぐに撤回された。階級を上げ、挑戦を続けているのはなぜなのでしょうか。

井上さん:正直、自分のためではありません。僕がボクシングを続けると喜んでくれる人たちがいるからやっているのが大きいです。先の判定負けした試合後、控え室で永田さんと対面しました。永田さんはボクシングひと筋の人で、僕がかつてボクシングからフェードアウトしたことも知っていて。「ボクシングをやっていたら楽しいで、また続けましょう」と、声をかけてくれたんです。

担当トレーナーで叔父の(井上)真吾さんにも、声をかけてもらって。永田さんとの最初の敗戦試合のときは、「そんな気持ちだったらもうやめろ」と、厳しい言葉だったんですけど、2度目の敗戦のときには、「あんないい試合したんだから、やめる必要ないぞ!」と言ってくれて。そのほか、僕の父親や多くの人が応援者となり、僕の試合での活躍を楽しみにしているんです。嬉しいですよね。ボクサーの世界でもアニメの世界でも、こうした「推しの声」が頑張り続ける原動力になっているのかもしれません。

取材・文:百瀬康司 写真:井上浩樹