パートやアルバイトというような非正規雇用が増え続けている現代。いわゆるフリーターと呼ばれているアルバイトやパート以外に、女性に多いのが派遣社員という働き方。「派遣社員」とは、派遣会社が雇用主となり、派遣先に就業に行く契約となり派遣先となる職種や業種もバラバラです。そのため、思ってもいないトラブルも起きがち。

自ら望んで正社員ではなく、非正規雇用を選んでいる場合もありますが、だいたいは正社員の職に就けなかったため仕方なくというケース。しかし、派遣社員のままずるずると30代、40代を迎えている女性も少なくありません。

出られるようで、出られない派遣スパイラル。派遣から正社員へとステップアップできずに、ずるずると職場を渡り歩いている「Tightrope walking(綱渡り)」ならぬ「Tightrope working」と言える派遣女子たち。「どうして正社員になれないのか」「派遣社員を選んでいるのか」を、彼女たちの証言から検証していこうと思います。

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今回は、都内で派遣社員として働いている植木真央さん(仮名・25歳)にお話を伺いました。真央さんは、背中の中ほどまで伸びたストレートの黒髪に、目元のマスカラ以外はグロスを合わせただけの簡単なメイクで、黒縁が印象的な眼鏡をかけていました。白地のTシャツに、紺色のリネン素材のワイドパンツが大柄な体型によく似合っていました。足元はスリッポンタイプの白スニーカーに、キャンバス地のトートバッグを合わせた着こなしは、爽やかそうな印象を受けました。

「よく30代に間違えられるんですよ」

低いトーンで話す落ち着いた雰囲気の真央さんは、少し前までは劇団に所属し、女優を志していました。

「上京してきたのも、女優になるためだったんですよ」

彼女の悩みは、年齢と現実とのギャップだそうです。

「自分が今年で26歳になるのが信じられないんです。まだ高校生くらいの感覚というか……」

真央さんは、福岡県の北九州市で生まれ育ちました。

「5歳年下の弟がいます。弟はまだ大学生で、地元の学校に通っていますね。父は配送業をしていて、大手の下請けで荷物を運んでいましたね。母は専業主婦とパートを繰り返す形で、どちらにしても忙しそうで放任でしたね」

短大に進学するために上京をするまで、修学旅行以外では東京に来たことがなかったそうです。

「母方の実家は下関の方なんです。小さい頃は、門司に家族で住んでいたんですよ。でも仕事がそこだと無いので、小学校の時に小倉に引っ越しました」

10代の頃は、地元ですべてが完結する生活を送ってました。

「中高と地元の学区内の学校に通っていました。高校も県立で、電車に乗って通うとかえって遠回りだったので、20分くらいかけて自転車で通学していました」

しかし、平凡な毎日に転機が訪れます。

「高校くらいから、博多の方に友達と遊びに出たりするようになって。このまま、地元に残るか悩んだんですよ。そうしたら、美容院のヘアモデルにならないかって声をかけられて。その時の美容師さんの紹介で、フリーペーパー用のカットモデルをやったりしていました」

地元では少し、目立った存在だったと言います。

「進路をどうしようか考えたときに、漠然と東京に行きたいって思ったんです。地元にも養成所とか、事務所とかあったけれど、東京に行った方が、みんなびっくりするだろうなって思って」

典型的な九州男児という態度の父と、何をするにも父に聞いてからしか決められない母を見ているのが辛かったと言います。

「とにかく、父が言うことが絶対だったんですよ。夜勤で昼間寝ているから、家にいることも多くて。音を立てると怒られるから、静かに過ごすようにしていました」

真央さんには、いまだに忘れらない実家ルールがあるそう。

「父は贅沢が嫌いで、冬でも皿洗いとか、洗濯をするときに水しか使っちゃダメだって言うんです。風呂も最初の頃に住んでいた家だと、浴槽に水を張ってから沸かすタイプだったから、父が入った後だと、お湯が冷めていて。保温シートで浴槽を覆って、しのいでいましたが、夏の間は追い炊きを我慢させられたりしていました」

上京を決めたのは、当時つきあっていた彼氏との関係を父に反対されたから。

「その時、同じ高校の彼氏とつきあっていたのですが、 “勉強もせずに遊んでばかりいやがって”“そんなもののために学費を払っているんじゃない”って、父親から言われて喧嘩になりました。東京に行ったのは、父を見返したかったっていうのが第一ですね」

演劇のオーディションでは落選続き……

地元の学校に進学するように、親からはしつこく言われたそうです。

「元々、小さいころからお芝居に興味があったんですよ。でも観に行ったりとかは、したことがなくて。親にそういうことを言ったら絶対に反対されるなってわかっていたので、“短大卒は学歴になる”と言って、説得しました」

先に合格が決まってしまえば、親も許してくれると考えます。

「志望校を絞って、事前のワークショップに参加をして、推薦入試で受験しました。演劇は未経験だったんですが、もともと少し部活で運動していたのがよかったみたいです」

無事合格し、演劇を学べる学校に進学します。

「2年制だったので、あっという間でしたね。私はすべてが初めてで基礎がなかったのもあって、端役しか貰えなかったのですが、パントマイムを習ったり、発声の練習をしたり。毎日が楽しかったです」

真央さんにとって、初めて触れた演劇の世界は魅力的でした。しかし、女優として活動していくのには自信がなかったと言います。

「卒業後の進路を考える余裕すらも無くて、でもこの仕事で食べていこうっていう実力もなかったんですよ。とりあえず、同期を中心としたグループで、定期的に公演をやろうっていうことになりました」

周りに流されるまま、就職はせず劇団に残ることに。フリーターとして、仕事を転々とします。

「“就職をすると、芝居ができなくなる”って先輩から言われて、でも接客業をやるほど器用ではなかったので、最初は単発の軽作業のバイトで、倉庫で荷物の仕分けや、先輩の紹介で引っ越し業者の手伝いもやっていました」

演劇そのものよりも、それを理由に友人と会ったり、飲みに行ったりすることが楽しかったと言います。

「学校を卒業した後も、最初のうちはみんなで集まって、公民館の会議室を借りて練習したり、即興劇の練習をしたりしていました。そのあと、反省会と言ってみんなで飲みに行くのが目当てでしたね」

親や同級生からのプレッシャーもあり、演劇は辞めずに続けていました。

「気づいたら、9割バイトで、1割くらいしか芝居をやっていない状態だったんです。みんなには内緒で、オーディションやワークショップの募集があったら応募していたのですが、実技で何度も落とされました」

カットモデルを辞めてからは、手間がかからない伸ばしっぱなしの黒髪でいる。

演出家の彼氏を支えるため、派遣社員へ。3年以上勤めても社員になれず、派遣として再雇用に。その2に続きます。