恋は、突然やってくるもの。

一歩踏み出せば、あとは流れに身を任せるだけ。

しかし、最初の一歩がうまくいかず、ジレンマを抱える場合も…。

前進を妨げる要因と向き合い、乗り越えたとき、恋の扉は開かれる。

これは、あるラブストーリーの始まりの物語。




恋の足かせ【前編】


「あれぇ…。あのデータ、どこいっちゃったんだろう…」

大手スポーツメーカーに勤める福園麻貴は、パソコンのモニターを食い入るように見つめた。

明日のプレゼンに向けて用意しておいたはずのデータファイルが見つからないのだ。

― 嘘でしょう?消去なんてしてないよねぇ…。

時刻は、間もなく19時。

麻貴は、焦りをおぼえつつ、手元のマウスを忙しなく操作する。

絶対に必要なデータではないものの、なければ説得力に欠けるプレゼン資料になってしまう。

麻貴は現在27歳。入社5年目にして、初めて商品開発チームのプロジェクトリーダーを任され、ここまで作業を進めてきた。

それだけに、やりきれない思いが込みあげる。

「おい、福園。どうした?」

名前を呼ばれ、麻貴はハッと顔を上げた。

斜め向かいのデスクにいる三浦が、様子がおかしいと察したのか、声をかけてきたのだ。

三浦は3つ上の先輩で、後輩の面倒見がよく仕事もできるため、広く慕われている。

「いや、あの…。保存しておいたデータが見当たらなくて…」

「んん?明日のプレゼンのやつか?」

三浦はそう言うと席を離れ、麻貴の傍らに立った。

シトラス系の爽やかな香りが鼻に届く。

「なんだ。バックアップ取ってなかったのか?」

「はい…」

腕組みしながらモニターを眺める三浦の隣で、麻貴は肩を落とした。

実は、麻貴はこのあと友人と食事に出かける予定が入っていた。

― 完全に、そっちに気を取られていたせいだ。三浦さんには言えないな…。

「ちょっと、代わってもらっていい?」

何か解決の手だてが見つかったのか、三浦が言った。

麻貴は慌てて立ち上がる。麻貴は、背が低いほうではないが、三浦の目線はさらにずっと高い位置にあった。

またフワッと爽やかな香りが漂い、鼻孔をくすぐる。

三浦はモニターに向かい、素早くキーボードを打ち始めた。


資料用データは、ほかの不必要なものと合わせて消去してしまっていたようだった。

三浦がそれを、ソフトを使って復元してくれた。




「ほら、これだろう?もとに戻せたぞ」

「うわっ、本当だ!ありがとうございます!」

― 助かったぁ…。これで明日はなんとかなりそう。

三浦の迅速で適切な対応に感謝し、胸をなでおろす。

「リスク管理がなってないな」

「はい。すみません…」

「福園はしっかりしているように見えて、なんでも後回しにしがちだから。気をつけろよ」

三浦の指摘に、麻貴はハッとした。

子どものころから母親に言われていたセリフとまったく同じだったからだ。

麻貴には昔から物事を先延ばしにしてしまう癖があり、よく注意を受けていた。

「今回お前が頑張っているのは、よく伝わってきてたからさ。こんなところでつまずくのはもったいないだろう」

― 私のこと、気にかけてくれてたんだ…。

「明日のプレゼン、頑張れよ」

三浦からのエールに、麻貴は胸の奥がじわっと熱を帯びるような感覚をおぼえた。



仕事を終え、友人との食事を楽しんだ麻貴は、帰宅の途についた。

食事中、友人に、三浦との一件を話した。

「その先輩のこと気になってるなら、食事にでも誘ってみたら?」

友人の言葉が頭に浮かぶ。

三浦とのやり取りを思い返すと、麻貴は胸の奥がほんのり熱くなった。

― う〜ん。確かに2人で会ってみたいけど…。

自分の気持ちを確かめる意味でもその必要性を感じるが、すんなりとは行動に移せない、ある事情を抱えていた。

麻貴は、青山にある自宅マンションに戻り、部屋のドアを開ける。

玄関には、男性用のレザーシューズが脱ぎ捨てたように並んでいる。

「お帰りー」

リビングから声が聞こえた。

麻貴は、男と一緒に住んでいるのだ。

「雄星、またゲーム?よく飽きないねぇ」

ソファに寄りかかりながらテレビゲームに没頭する男の名は、雄星。

年齢は麻貴のひとつ下。

一緒に住んではいるが、すでに2ヶ月前に別れている。




半年前に付き合い始め、雄星が転がり込むかたちで同棲が始まった。

彼は、20代ながら飲食店を経営している。麻貴は、彼の年齢に似つかわしくない自信に満ちた雰囲気を新鮮に感じ、付き合い始めた。

だが、一緒に住むと年相応の幼さが目につくようになり、すぐに興味が薄れた。

それでも同居を続けているのは、家賃を半分もらっていることに加え、さらに利点があったからだ。

雄星は車を持っていて、地下駐車場に停めている。タクシーが拾いにくい日などに、送り迎えをしてもらえるので、重宝しているのだ。

別れたあと、雄星は「部屋を探している」とは言いつつも、そんな気配もなく居座り続けている。

麻貴も雄星も、互いに悠長に構え、ダラダラと同居を続けてしまっていた。

まさに、「なんでも後回しにしがち」と三浦から指摘されたとおりの状況だった。

― こんなことならもっと早くケジメをつけておくんだった…。

雄星の存在が、次の恋へと進むのに足かせとなってしまっている。

とはいえ麻貴は、恩恵にあずかっている面もあるため、あまり強く言えない。

自分のだらしなさを後悔しつつ、床に寝そべる雄星を見やった。


3日後。

麻貴の住むマンションで、ある騒動が起きた。

仕事帰り、まだうっすらと日の明かりが残る時間帯。

麻貴は、青山一丁目駅から自宅マンションに向かって歩きながら、どうもいつもより人通りが多いように感じた。

マンションに近づくにつれ、徐々に人の数が増していく。さらに、赤いパトランプが点灯しているのが遠目に見え、麻貴は胸騒ぎをおぼえた。

― え、なになに。まさかうちじゃないよね…?

足早に歩を進めると、マンションのエントランス付近に、パトカーと消防車が停車している。




人だかりができており、マンション内で何度か見かけたことのある住人の姿もあった。

辺りには、何かが焦げたような匂いがかすかに漂っている。

麻貴は建物に目を向ける。外観に変化はなく、煙が出ている様子はない。

「麻貴!」

名前を呼ばれて振り返ると、雄星が立っていた。

Tシャツに短パン、サンダルという格好で髪も乱れ、急いで部屋から出てきたのがわかる。

「雄星!何があったの?」

「どっかの階の火災報知機が作動したみたいで。非常ベルが鳴って、避難するようアナウンスが入ったんだ」

「大丈夫だった?」

「ボヤで済んだみたいだけど…。仕事が早めに終わって、部屋に戻ってシャワー浴びてるところだったからビックリしたよ」

着の身着のままといった雄星の様子から、いかに慌てていたかが伝わってくる。

「そうなんだ。まあ無事ならよかったけど…」

「あ、そうそう」

雄星がポケットから何かを取り出した。

「とりあえず、これだけ持って出てきたんだ」

手に握られていたのは、ルイ・ヴィトンのロングウォレットだった。




「それ、私の…」

麻貴は普段、コンパクトサイズのものを持ち歩いているため、長財布は家に置きっ放しにしていた。

あまり使用しないカード類の保管用にしているものだった。

「俺もパニくっちゃってさ。それしか持ってこれなかったんだ」

「うん、ありがとう…」

もし火が燃え広がっていたとしたら、財布が無事かどうか不安に駆られていたはずである。

それに、もしこの場にひとりでいたならば、さぞかし心細かったに違いない。

― 雄星がいてくれて…助かった…?

麻貴は、雄星の存在を疎ましく思ったつい先日のことを、申し訳なく思った。

そこで、消防隊員からアナウンスが入った。

「安全が確認されたので、住人の方はどうぞお部屋にお戻りください」

外に避難していた者たちがぞろぞろと歩き出し、はけ始める。

「俺たちも戻ろっか」

「う、うん…」

新しい恋の障壁だと思っていた元カレに、助けられてしまった。

― う〜ん、こういうこともあるんだな…。

麻貴は、複雑な思いを抱きつつ、雄星の背中を追った。

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