人はいつだって、恋できる。

だが振り返ったときにふと思うのだ。

あのときの身を焦がすような激しい感情を味わうことは、もうないのかもしれない。あれが「最後の恋」だったのかもしれない、と。

それは人生最高の恋だったかもしれないし、思い出したくもない最低な恋だったかもしれない。

あなたは「最後の恋」を、すでに経験しているだろうか…?

この連載では、東京に住む男女の「最後の恋」を、東京カレンダーで小説を描くライター陣が1話読み切りでお送りする―。

前回は、既婚者・由梨子の話を紹介した。

今回は、由梨子の夫が、妻を捨ててまで手に入れようとしたミホの物語。




2014.1.14 ジャカルタ・パンタラ島


「君が僕にとって、最後の恋の相手だ。」

進次郎が私にそう言った時、ジャカルタのパンタラ島はちょうど真っ赤な夕日が海に沈むところだった。

私はただ、その言葉が嬉しくて、返事をする代わりにそっと唇を重ねた。

胸の奥がくすぐったくなるような、恋だった。

◆

失恋に打ちのめされた私は有給を全て使い切り、たった一人でジャカルタを訪れていた。そこで私は運命的な出会いを果たす。

その男は“進次郎”と名乗った。

進次郎もまた、日本でどうしようもないくらいに傷つき、この地に辿り着いたのだと言う。そんな私たちが身を寄せ合い、あたたかな空気や緩やかに流れる時間に身を任せ、傷を癒やそうとするのは自然なことだった。

賑やかなマーケットに出向いたり、美味しいローカルフードを楽しんだり、一日中ベッドで抱き合ったり、ビーチを散歩してみたり。そうしているうちに、次第にお互いの傷が癒えていったのだ。

彼の左手薬指に不自然な日焼けの跡を見つけ、進次郎が既婚者だということに気づいてしまっても、見て見ぬふりをしていた。

最後の日、私は連絡先を教える代わりに一通の手紙を渡したのだ。

―5年後の今日、同じ場所で、あなたを待ってる。

深い眠りにつく進次郎を見つめながら、まるで映画のような恋に落ちた私は、その手紙を封筒に入れ、そっとサイドテーブルに置いて、彼のもとを去ったのだ。

たった2週間の、短すぎる私の恋。


恋愛体質のミホを待ち受ける、悲惨すぎる運命


2014.2.4 東京・八重洲


「5年後に、また会えたら素敵だと思わない?きっと、これが私の最後の恋になるのかも…。」

私はスタバのコーヒーマグをみつめながら、うっとりとジャカルタの小さな島で過ごした進次郎との日々を思い返していた。

そんな私に冷めた視線を向けるのは、ジャカルタ土産を口実に呼び出した、前職の同期である蓮見一樹だ。

整った顔立ちで黒縁のメガネがよく似合い、背も高く、29歳にしてPR会社のマネージャーを任されている一樹は、職場でも食事会でも女子に人気があった。

しかし、時に鋭すぎる物言いや、几帳面な性格が災いして、彼もまた恋愛がなかなか上手くいっていない。

恋愛体質で大雑把過ぎる私の性格と対局にいる一樹とは、恋に落ちることもなく、長年気楽な友人関係が続いている。

「ミホ、それ何度目の“最後の恋”だよ?毎回誰かを好きになる度に言ってるぞ。」

一樹は女友達にも話せない私の“多すぎる”恋愛話を聞いてくれる、数少ない男友達でもある。

私が旅行メディアのベンチャー企業に転職してからも、何かと2人で顔を合わせる機会は多くあった。一樹と、終わってしまった消化不良の恋について一通り話すことで、私はいつも次の恋へと踏み出すことが出来るのだ。

「うるさいなぁ…。でも、これが最後になる気がするの。」

しかし、今回に限っては漠然と、けれど確かに胸の奥に宿る熱い炎を私は感じていた。

この人生で、何度も燃やし続けていた恋の炎だったが、今度こそは本当にこれが最後の恋になるだろうと感じていたのだ。

「で、本当に5年後に行くのか?ナントカ島。」

「パンタラ島ね。どうかな、わからない。人生ってそういうものでしょう?」

「ミホは本当に”恋愛依存体質”だよなあ。どうせ来月にはまた新しい恋がどうのこうの言ってるんだろ。」

一樹は呆れたように笑って、私からジャカルタ土産を受け取ると席を立った。

「じゃ、俺は予定あるから先行くぞ。」

「うん、ありがとう。時間作ってくれて。」

私は一樹を見送ってから、もう一度あのジャカルタのパンタラ島で過ごした日々の思い出に浸ることにした。




2016.1.28 東京・銀座一丁目


しかし、結局は一樹の言う通り「恋愛依存体質」の私は、進次郎という名前さえすっかり記憶から消えてしまっていた。

昨年出会ったカメラマンの高橋健人は、まさに理想的な男だった。情熱的で、仕事熱心で、すこし気まぐれなところもあったけれど、出会ってすぐに運命を感じたのだ。

そして婚約まではトントン拍子だったはずなのに…。

「幸せな結末」まで、あと一歩というところでそれは脆くも崩れ去る。


運命を信じた男の裏切りを知ったミホは…


入籍を間近に控えたある日、私は衝撃的な話を健人から聞かされたのだ。

「あの人、私の目を見て言ったのよ。“ミホとは結婚できない”って。しかもね、浮気相手の女は妊娠までしてるんだって。思わず婚約指輪投げつけちゃった…。」

『銀座 よし澤』のカウンターで、次々運ばれる料理を口に運びながら、つい先日の悲惨な出来事を一つ一つ噛みしめるように思い出していた。

入籍を予定していた、私の32歳の誕生日。たった一人で過ごすには辛すぎて、私は一樹を食事に誘ったのだ。

隣に座る一樹は、珍しく憎まれ口も叩かずに黙ってうんうんと相槌を打っている。それが一層私の惨めさを際立たせているようで、腹がたった。

「ねえ、一樹まで暗い顔しないでよ。余計悲しくなるじゃない。」

重苦しい空気を打破しようとして無理やり笑ってみても、ただ虚しくなるだけだった。そして相変わらず一樹は無表情のままだ。

「32歳にもなって何も進歩してないね、私。」

ふと思い出す数々の恋。その全てに本気だったというのに、ひとつも幸せな結末を迎えたことがない。

「ミホらしいよ。人を好きになるってことは、人の良いところを見つけるのが上手いってことだろ。」

ようやく口を開いた一樹は、慰めるように私のお猪口に日本酒を注ぐ。

「どうして、毎回上手くいかないのかな。」

私はそんな疑問を、日本酒とともにぐいっと飲み干した。

◆

「なあ、ミホ。」

タクシーを拾おうと昭和通りまで出たところで、不意に一樹が私を呼び止める。

「俺にしとけば良かったのにな。」

「え?」

車の通りが途絶え一瞬静まり返った昭和通りの交差点で、一樹は真剣な顔でこちらを見つめていた。

「俺に恋してたら、ミホは幸せだったと思う。」

冷たいビル風が、まるで私たちを殴りつけるようにびゅうびゅうと吹いている。

だから、ほんの少し気持ちが一樹に傾いてしまったのかもしれない。

「こんな時に、冗談やめてよ…。」

そう言ってみたものの、気がつけば私は一樹に抱きしめられていたのだ。

悲しくって、寂しくって、どうしようもなく惨めな私を覆い隠すように、彼がそっと私に唇を重ねる。




2018.10.18 東京・西麻布


あの日、一樹のマンションで目が覚めたときは血の気が引いた。慌てて彼の部屋を飛び出し、急いで家に帰ったことを今もよく覚えている。

思いつめた顔で「俺を好きになってほしかった」と一樹に言われ、たまらず抱きしめ返してしまったあの夜を、2年近く経った今も私は後悔していたのだ。

彼とはずっと気の合う友人としての付き合いを続けていたかった。

きっと一樹と私が恋人になったとしても上手くはいかなかっただろう。性格も違えば好みも違う。確かに一緒にいれば居心地は良いけれど、恋人というには違和感があったのだ。

私には、彼の気持ちを正面から受け止めることなど出来なかった。

もう随分長い間一樹とは連絡を取っていない。

◆

だから、唐突に目に入ったその名前に、私の心は激しくかき乱されていた。

ポストに放り込まれていた、結婚式の招待状。

差出人には蓮見一樹の名前とともに、私たちの後輩でもある井上茜の名前が書かれていたのだ。


久しぶりの再会を果たしたミホと一樹だったが…


2019.1.12 東京・日比谷


帝国ホテルの式場で再会した、懐かしい前職の同僚や後輩たち。みんなが嬉しそうに2人を祝福していた。

私もその人混みに混じって、彼らに何度も拍手を贈る。

けれど、その度に何故か胸の奥がシクシクと痛みだす。

タキシードに身を包み背筋をぴんと伸ばした一樹は、2人してくだらない話で笑い合っていた頃とは別人に見えたのだ。

「茜ちゃん、良かったよね~。入社したときからずっと蓮見君にアタックしてたもんね。」

そんな誰かの言葉が耳に入る。

簡単に恋に落ちて、すぐにぶち壊してしまう私と違って、彼女はずっと一途に一樹を想い続けていたのだろう。その念願が叶った茜ちゃんの笑顔は誰よりも眩しかった。

式も終盤に差し掛かり、最後の記念撮影のときに、一樹はちらりと私の方を向き少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。

そんな彼に、私は小さく「おめでとう」と告げる。

一樹は、私にとって唯一無二の友達だ。そのことを強く胸に刻みつけ、私はカメラに向かってよそ行きの笑顔を向けるのだった。

それでも、私の心はズキズキと痛み続けている。




「ミホ先輩、二次会いらっしゃいますか?“夫”も、ぜひ来てほしいって…。」

新婦である茜ちゃんに尋ねられたのは、式場でゲストが見送られる時のことだった。

直視できないほどの眩しい笑顔の裏に、なぜか見え隠れする意地の悪い言葉の感触。私は思わず、身構える。

「明日から出張なの。フライトも早いから、今日は遠慮させてもらうね。」

私がとっさに有りもしない嘘の予定を言うと、茜ちゃんは悲しそうな表情で「残念です」と答えたのだが、その言葉にはあからさまにホッとしたような感情が見えた。

その瞬間に、またしても胸の奥が痛みだす。ズキンズキンと、どうしようもなく苦しい痛み。やがてそれが全身を覆い尽くす頃、私はたまらず一人で銀座方面へと向かっていた。

◆

-彼だったんだ…。

あの日、キスをした昭和通りの交差点にたどり着いた時、私はようやく一樹への気持ちに気づいたのだ。

性格が違っても、趣味が合わなくても、何かあれば必ず一樹に連絡をしていた。出会った頃からずっとそうしてきたのに、今日の今日まで気づきもしなかった。

いや、気づこうとしなかったのだ。

あの夜以来、どんなに素敵な男性に出会っても、心の何処かで一樹と比べていた。一樹ほど一緒にいて楽しい時間を過ごせた人なんか、今まで一度も出会ったこともないのに…。

居心地の良すぎた二人の関係が変わっていくことを、私は拒んだのだ。

「一樹だった…。私の“最後の恋”は、一樹だった。」

ぽつりと口から飛び出した独り言は、ざわつく人混みに吸い込まれて消えてゆく。

気づいてしまえば、もう涙を抑えることなど出来なかった。34歳を目前に、私は大通りの真ん中で年甲斐もなくボロボロと泣いていた。

タクシーを呼び止め、麻布の自宅に着いても涙は止まらない。わんわん泣きながら、スーツケースに洋服を詰め込んで、それから急いで飛行機のチケットを取った。

22:15発、ハワイ行きの直行便。

一樹と茜ちゃんの結婚式で、とっさに「出張がある」と言った私は、その言葉を正当化させるかのように、この寒すぎる日本を飛び出すことにしたのだ。

5年前のように暖かな空気や穏やかに流れる時間に身を任せれば、これほどまでに私を痛めつけた恋を忘れることができるかもしれない、と…。

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一樹を手に入れた、勝ち組花嫁・茜にとっての「最後の恋」とは?