先祖代々受け継がれし名声と財産。

それを守り続けるために、幼い頃から心身に叩き込まれる躾と品位。

名家の系譜を汲む彼らは、新興のビジネスで財を成した富裕層と差別化されてこう呼ばれる。

「オールドリッチ」と。

知られざるオールドリッチ達の心のうちが、今、つまびらかにされる-。

前回は、ニューリッチへの羨望を密かに抱く康介を紹介した。今回は?




【今週のオールドリッチ】
名前:牧瀬由紀
年齢:32歳
職業:専業主婦
住居:白金

息子の修一郎を天現寺の体操教室に送り届けた15時。牧瀬由紀はタイトにまとめた黒髪と上下ネイビーのセットアップという送迎用の装いのまま、ひとり自宅のダイニングテーブルの席についていた。

白金のホテルライクな低層マンションは、夫・和正の両親が6年前に結婚祝いとして与えてくれたものだ。2LDKと間取りはコンパクトだが、リビングは20畳以上あり大きなソファがゆったりと置ける広さを備えている。

由紀は疲れた体を横たえたくなる衝動をぐっと堪え、膝の上に乗せたナイロンの黒いトートバッグを開いた。

バッグの中に詰め込まれているのは、膨大な枚数のプリントや教材だ。季節の野菜や動物のイラストが印刷されたプリントをテーブルに並べ目を通しながら、大きなため息とともに独り言ちる。

「修一郎ったら…スイカは果物じゃなくて野菜の仲間だって、何回言ったら覚えるのかしら」

小学校受験の個人塾からのフィードバック。間違えやすいポイントを確認したら、今夜の勉強の時間にさっそく反映させなくては。

修一郎が0歳の頃にお受験対策を始めてからもう5年。お稽古事の間のわずかな時間に行う課題チェックは、すっかりルーティンとなっていた。

膨大な枚数のプリントを前にすると、全てを投げ出したい気持ちになることもある。しかし、母校である慶應幼稚舎に修一郎を合格させるためと思えば、気を抜くわけにはいかなかった。


斜陽のオールドリッチを打ちのめす、ニューリッチ妻のカウンターパンチ


打ち砕かれるOBオールドリッチの選民思想


幼稚舎は、由紀と和正の母校だ。

それどころか、由紀の実家も和正の実家も一族のほとんどが幼稚舎出身という生粋の幼稚舎ファミリー。周囲からは「受かって当然」と思われていることだろう。

由紀自身も、修一郎の実力と両家の家柄を考えれば、合格は決して難しくないと考えている。

しかし実のところ、由紀には一つ不安要素があった。

それは、軍資金に限りがあること。

皇室御用達の宝飾品商を曽祖父の代から営む由紀の家と、老舗音響機器メーカーを経営する和正の家。このところはどちらの家業も衰退気味で、かつてのような財力はない。

辛うじて確保してあるのは、この白金のマンションと、両家から生前贈与された2,500万円ずつ計5,000万円の教育資金のみ。幼稚舎から慶應に子供を通わせるには、少々心もとない金額だ。

あとは音響メーカーの専務として働く和正の、年収1,200万円でやっていくしかない。

他に手元にある武器といえば、「代々幼稚舎」という家柄だけと言える状態だった。




―でも、たとえ湯水のように使えるお金がなくても、私達のようなOB一族には幼稚舎の品位を継承していく役割があるはずだわ。

今の由紀を支えているのは、そんな選民思想にも似た義務感だ。

―卒業生の子供だからといって入学できるほど甘い世界でないことは分かっている。だからこそ、人一倍努力をしなければ…

そんな思いで気合いを入れ直した時、スマホの通知が鳴った。大学時代の友人・美優からのLINEだった。

“今、白金のスイミングスクールで偶然香織と一緒になったよ。スイミングの間『ロビーラウンジ バンブー』でお茶するけど、由紀も顔出さない?”

山積みになったプリントを目の前に、由紀はためらった。

断ろうとスマホを手に取ったが、脳裏に美優や香織と過ごした楽しかった学生時代が思い出される。

―根を詰めすぎてもダメよね。今日だけお受験とは離れて、リフレッシュしようかな…。

そう考え直した由紀は、お受験とは無縁な話で息抜きをするために美優と香織の元へと向かった。



シェラトン都ホテルのエントランスに着くと、『ロビーラウンジ バンブー』の窓際のソファー席から美優と香織が大きく手を振っているのが見えた。

美優は大学から、香織は幼稚舎からの友人だ。大学のチアリーディング部で共に青春時代を過ごした3人は、子供の年齢が近いこともあり、卒業後も半年に1、2度こうして集まってお茶をしている。

「会いたかった〜!もう私、お受験の準備でヘトヘト…」

2人の元に近づきながら、由紀は言いかけた言葉を戸惑いと共に飲み込んだ。

美優の隣にちょこんと置いてある、子供用の小さなリュックサック。幼稚舎への登竜門とも言われる、広尾のお受験塾のものだ。

「美優…幼稚舎受験するの?」

「旦那さんがね、急に幼稚舎受けようって言い出したの。もう宙(ソラ)くん年中だから焦るよ〜」

くるくると巻いた栗色の髪を揺らしながら、美優があっけらかんと答えた。

人前で家族のことを“さん付け、くん付け”で呼ぶ美優に対し、いつもなら微かな違和感を覚える由紀だが、今はそれすら気にならないほど気が動転していた。

幼稚舎出身だが、東大卒のご主人の意向で既に息子を公立の小学校へと通わせている香織。

大学から慶應に入った、ごく一般的なサラリーマン家庭出身の美優。

幼稚舎受験とは無縁の2人と気楽なティータイムを過ごすはずが、思わぬ宣言を聞いてしまった。

「広尾のあの塾、よく今から入れたね? ウェイティングすごいんでしょ?」

そう尋ねた香織に、美優は笑いながら答える。

「慶應に毎年2,000万寄付してるって言ったら、すんなり入れてもらえたんだ」

―寄付金だけで、2,000万円?

7年前にアミューズメント企業の社長と“玉の輿結婚”をした美優は、今やニューリッチの若奥様。衰退気味のオールドリッチの由紀など比べ物にならない莫大な資産を持っているのだろう。

ー今のうちではとても出せないわ…。

2,000万という金額を聞いて、由紀は息を飲んだ。全ての慶應卒業生に毎年送られてくる寄付のお願い。

由紀達が納めている寄付金は、わずか30万円だ。


変化する母校に求められるのは、オールドリッチorニューリッチ?


品格しか持たないオールドリッチは、招かれざる客なのか


唖然とする由紀をよそに、美優は言葉を続けた。

「やっぱ寄付金って大事なのかな?旦那さんがね、必要なら3,000万円にしてもいいよって言うんだけど…ふたりはいくらくらい寄付してるの?」

「あ…」

何も言えずに香織の方を見ると、彼女はすっかり眉を顰めている。

控えめであることが美徳とされるオールドリッチにとっては、あけすけに金額の話をすることは「下品なこと」に他ならない。

露骨なお金の話に、香織は気分を害したようだった。

「美優、お金の話は大っぴらにするものじゃないよ。幼稚舎に子供を入れるならなおさら。それに…本気でお受験するなら、その格好もどうにかした方がいいかも。私たちが幼稚舎生の頃は、由紀みたいなシックな格好がスタンダードだったよ」




上質だがあえてブランドの分からないファッションを心がけている由紀に対し、美優はピンク色の新作バーキンやマノロブラニクのヒールなど、 “いかにも”なブランドファッションに身を包んでいる。

「大丈夫だよー!最近私、インスタで色んな幼稚舎ママ達と絡んでるんだけど、皆こんな感じのファッションだよ。学費や寄付金の話も教えてくれるし」

確かに、OBオールドリッチ達の財力が鈍りつつある近年の幼稚舎では、新興の企業オーナーや芸能人といった華やかなニューリッチ達が台頭し始めているらしい。

だが、由紀にとって衝撃だったのは、次の美優の言葉だった。

「それからね…そのママ達の紹介で、6月の同窓会にも連れてってもらえそうなの」

6月の同窓会とは、幼稚舎卒業生のみが参加できる連合同窓会のことだろう。卒業生はこの同窓会に子供を連れて行き、「ご挨拶」をするのが暗黙の了解となっている。

だが…普通の感覚なら、参加資格がない場所に潜り込むなんて厚顔無恥なことはできないはずだ。

「由紀の修ちゃんとうちのソラくん、同級生になれたら最高だよね!同窓会で一緒に挨拶行こうね!あ、由紀が来たばっかりで悪いけど、お手洗い行ってくる」

一方的にまくし立てると、美優は嵐のように席を外してしまった。頭がグラグラして、思考が定まらない。

ふと隣の香織の方を見やると、彼女は怒りとも悲しみともつかぬ顔で由紀の目を見つめてきた。

「今の美優の話、本当?今幼稚舎に求められているのは、ニューリッチの方なの?」

「え?」

「今じゃ香織みたいなニューリッチの方がお金はあるかもしれないよ。でも、このままじゃ私たちがいた頃の幼稚舎の品格は失われちゃうんじゃないのかな。私は由紀みたいな家庭にこそ、幼稚舎に受かってほしいよ…」

由紀だって同じ気持ちだ。しかし、美優のようなニューリッチこそが、新しいスタンダードとして受け入れられ始めているのなら…。

―参加資格がない場所に潜り込むなんて厚顔無恥なことはできない。

先ほど美優に対して思った言葉が、自身の胸に蜘蛛の巣のように不快に張り付いている。

―参加資格がないのは、資金だけは潤沢なニューリッチ?それとも…時代に取り残されたオールドリッチの方なの?

由紀は、盤石だった足元が急に崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

身についた教養。慎しみ深い気高さ。家柄の良さ。良家の嗜み。そういった品格こそが、母校に求められていると信じていた。

しかし今の時代、品格だけでは幼稚舎に入る資格はないのかもしれない。

庭に面したガラスに、自身の姿が映っている。

ブランドを主張しないシンプルなネイビーのセットアップが、由紀にはひどく質素な装いに感じられた。

▶NEXT:10月6日 土曜更新予定
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