2023年の「Forbes JAPAN 30 UNDER 30(世界を変える30歳未満)」に選ばれ、初の単著『世界と私のA to Z』(講談社)も話題になり、9月28日には『#Z世代的価値観』(同)の出版も控える米国在住の新進気鋭のライター・竹田ダニエルさんに映画『バービー』についてつづっていただきました。
※途中ネタバレを含みます。

決して“完璧”ではない映画『バービー』

「映画『バービー』世界興行収入10億ドル突破、女性監督作品で初」「2023年最大のヒット作品」「ワーナー・ブラザース史上最高のヒット」など、歴史的快挙が毎週のように報道される映画『バービー』。アメリカでどういうことが話題になっているのかを紹介しつつ、作品が描き出す「人間の複雑性と矛盾」をテーマに分析していきたい。

<ストーリー>
すべてが完璧で夢のような毎日が続くバービーランドに暮らすバービー(マーゴット・ロビー)。自身の体に起こった異変の原因を探るために人間の世界へ行くバービーと「バービーの恋人」のケン。しかし、2人の前にはバービーランドとはすべて勝手が違う現実の世界が広がっていた……。

まず、『バービー』は紛れもなくフェミニスト映画であり、グレタ・ガーウィグ監督も記者会見でそのように肯定*している。そうである以上はフェミニズム映画としてのコンテクストでクリティカルに議論される筋合いは当然ある。しかし同時に、現実世界でも解決がない家父長制の問題の「解決」を描くことは不可能でもあり、この作品自体が「完璧」であったり、何かしらの「正解」を提示する必要もないはず、というのは最初に申し添えておきたい。

*https://www.refinery29.com/en-us/barbie-feminist-movie-review

日本でも話題が絶えない作品だが、多くの人にとってパーソナルな部分に響く要素が多々ある映画だからこそ、「もっとこうして欲しかった」という声も多い。バービーは「現実世界の生きづらさ」をユーモラスに皮肉に描いていて、その「生きづらさ」さえも向き合いつつ愛すべきものだ、と肯定している。「矛盾ばかりの現実世界と向き合うことでより良い社会をつくろう」、映画全体をそのような視点で受け取ることで、たくさんのことが浮き彫りになってくる。

「何にでもなれる」というメッセージを背負って発売されたバービー

まずは日本でもおなじみのバービー人形がアメリカでどのような存在として位置付けられてきたかをざっと振り返ってみたい。

バービー人形は映画にも登場するマテル社が1959年に発売した着せ替え人形で、当時の社会的背景を考えても、「女の子は何にでもなれる」という概念自体が画期的だった。生みの親であるルース・ハンドラー氏は、娘に「何にでもなれる」という夢を託す形でバービーを開発した。

しかし、現在に至るまで、バービーはアメリカをはじめとした欧米社会において社会学やフェミニズムの分野でも中心的な議論の的になり、「いかに女性に悪影響を及ぼしてきたか」と、開発者の意図とは裏腹な存在になってしまったのだ。

いわゆる「典型的なバービー」は金髪で細身で、白人である。そのバービーのイメージが「欧米における理想の見た目」であると子供に吹き込んでいる、子供の摂食障害や男性にとって都合の良い女性像を推奨している、と常々問題視されてきた。

*https://www.nature.com/articles/d41586-023-02433-8

Z世代のサーシャはBratz人形を表現?

Z世代とミレニアル世代の「バービー」に対する見解の違い、そしてそれから見える「フェミニズム」への見方の違いはここから見えてくる。バービーはアメリカの歴史の中で「フェミニズム的な存在」でもあり、「非現実的なボディイメージを子供に植え付ける邪悪な、反フェミニズムで保守的な存在」とも掲げられてきた。

映画には、現実社会のマテル社で働くグロリア(アメリカ・フェレーラ)と娘の女子高生・サーシャ(アリアナ・グリーンブラット)が登場するが、グロリアにとってバービーは「夢の投影先」だけど、サーシャにとっては「べき論を押し付けてくるファシスト」だ。

母親のグロリア(ミレニアル世代)はバービーを子供の頃の思い出の「かわいい、おしゃれなもの、夢を与えてくれたもの、娘と共有したいもの」という象徴として見ていたが、娘のサーシャはバービーを「迷惑なもの」と一刀両断する。

私自身の経験としても、アメリカで小学生くらいの頃から、バービーは「女性に非現実的な体形の理想像を押し付けるような、家父長制の反映」のように、フェミニズムの敵というような存在として扱われることが多かった。

特に、自分が子供だった頃にライバルであるBratz人形が出てきて、Bratzは有色人種で、体形もデフォルメされた頭身だった。親や学校の教育現場でも、バービーは白人の美的価値観を子供に植え付けている、女性はバービーが好きというステレオタイプはむしろ前時代的なジェンダーロールの押し付け、という風潮もあった。

一つのイースターエッグ(隠された意味)として、サーシャとその友達は、Bratzのキャラクターを表現しているのではないかと考察されている。*名前も一緒で、バービーを毛嫌いしていることもかなり怪しい点だ。

Z世代やアルファ世代(2010年代序盤から2020年代中盤にかけて生まれた世代)にとっては、女性がどんな仕事にもつけるというのは当たり前のことで、何をいまさら「女の子も医者になれる!」とか言ってるんだろうか、くらいの感覚の人も多い。これはZ世代とそれ以上の世代の間での親の育て方や教育の差から生まれており、その世代間ギャップがバービーへの視点を通して描かれている。

*https://screenrant.com/barbie-movie-sasha-friends-bratz-dolls-crossover-theory/

実は矛盾ばかりのバービーランドを描いた意義

バービーは遊びの中では何にでもなれるかもしれないし、子供たちの想像の中では世の中は「理想的な世界」のままだ。でも、現実世界はそんな単純ではないわけで、リアルな世界の中でバービーの存在が物議を醸す様子は、映画の中でも(娘のサーシャを通して)よく描かれている。

例えば、「バービーはeverything」と言っておきながらマテル社員は男性ばかりだったり、バービーは見た目にばかり執着していたり、バービーランドも実際は排除で成り立っていてユートピアではなかったり、バービーを取り巻く世界も「矛盾」ばかり。人間である以上は、完璧には決してなれないのだ。

バービーランドにおいても“変てこバービー”(ケイト・マッキノン)は無視され隔離され、「変わり者」であることを悪い(バービーとしてふさわしくない)と、他のバービーたちは決めつけていた。

このことは「インクルーシブではない/インターセクショナル*ではない」ミレニアル世代特有のガールボスフェミニズムを感じさせる。マーゴット・ロビーのバービーも、セルライトを恐怖に感じていたり、足が平らだったり、「完璧」ではないことを異常に恐れていた。他のバービーも、その「完璧ではない」姿を見て扱いを変える。バービーランドが条件付きのセーフスペースであることは暗示されていたと思うし、現実社会のガールボスフェミニズムに直結する矛盾の指摘だ。

*インクルーシブ:「包摂(ほうせつ)的な」「包括的な」を意味する言葉で、性別や性的指向、人種、障がいの有無などさまざまな背景を持つあらゆる人が排除されないことを指す。
インターセクショナリティ:「交差性」を意味し、人種、階級、ジェンダーなど、個人やグループに適用される社会的属性が重なり合い、差別や不利益が重複することで、複合的な差別体験が生まれること。「インターセクショナル・フェミニズム」は1980年代にアフリカ系アメリカ人のフェミニスト、キンバリー・クレンショーにより提唱された。

複雑な感情を持った、多種多様な人間が共存している現実社会において、全員にとって完璧なユートピアなど存在しないけれど、「完璧でなければならない」という呪縛を解き放つところから一歩ずつ始めよう、というアメリカ的なメッセージを感じる。「みんな仲良く」は当然無理で、間違いから学ぼうという姿勢が描かれている。

また、「完璧ではない」人間の身体とバービーが向き合っていき、人間特有の「変化」を楽しむという描写も印象的だ。最後のシーンで婦人科を訪れるバービー。「産科」でも「産婦人科」でもないのだが、一部でバービー妊娠説が囁 (ささや)かれ、バービーは「母になること」を果たして美化しているのかという議論も巻き起こったが、バービーは妊娠したいとも妊娠したくないとも、どっちにも取れる。

例え母にならなかったとしても、ガーウィグ的世界観で考えて「女性という存在自体が抱える複雑さ」を肯定することは十分にできる。さらに、インタビューで監督自身が婦人科等「女性らしいもの」へのスティグマを解消する意味があると話している。*

「マーゴットがバービーに扮(ふん)して、満面の笑みを浮かべ、最後にあのせりふをうれしそうに、楽しそうに言うのを見たとき、『バービーもやるんだ』っていう感覚を女の子たちに与えることができたら、面白くて感動的になるのではないか、と思った。私が10代の少女だった頃、成長するにつれて自分の体が恥ずかしくなり、言葉では言い表せないような羞恥心を感じたことを覚えている。すべて隠さなければならないことのように感じました」
*https://www.today.com/popculture/movies/barbie-last-line-rcna97085

複雑さと矛盾を背負った映画『バービー』

この「矛盾」については「女性は完璧であることを求められる」というグロリアのモノローグが印象的だが、実際には「母と娘」の関係性の描かれ方自体に「矛盾」が根差されているように感じた。

母も娘もお互いを愛していてもぶつかったり、「母は立ち止まって振り返る」というルース(バービーの産みの親)のモノローグも、母親は立ち止まる存在と美化していて違和感が残ると話題になった。しかし、一方で変わり続ける人間である母親を通して、「娘という一人の人間と向き合うことの難しさ」や「社会から求められる母親像・女性像の矛盾」を皮肉にも浮き彫りにしている、とも考えられる。「母と娘を描くプロットが単純に薄い」と批判することも可能だが、「人間的な複雑さ」は「母」の存在に投影されている。

そして全体を通して、「おのおのが自己決定権を持つことの大切さ」が伝えられていた。それはケンが自立することやバービーたちが新たなシステムを模索すること、そしてサーシャが母を知ることやバービーが婦人科に行く場面でも見受けられる。人間は多様で複雑で、プラスチックのように平面的ではない。

男vs女、母vs娘、ミレニアル世代vs Z世代……さまざまな価値観の違いやおのおのの正義の違いがぶつかり合う中で、みんなが「社会の迷惑なシステム」によって苦しい思いをしているという現実を直視しあおう、というメッセージも注目したい。「生きることって大変だよね」という暗喩こそが、優しい抱擁のようにも感じられる。

人間であることは「複雑」で「矛盾すること」であり、それはバービーが背負わされてきたフェミニズムの議論やグロリアが背負わされた母親像、ケンが苦しめられた理想的な男性像のすべてに含まれる。そしてそれは「完璧ではない」この映画自体にも含まれる。自由と矛盾は、紙一重だ。

“創造する側”に回ったバービーの決断

最終的には、このクソみたいに矛盾してわけのわからない社会においても、連帯することで少し楽しくなるよね、というメッセージは強く受け取った。現実社会で「女性性」が「邪悪なもの」として忌避される中で、ピンクを着てバービー同士が笑顔で手を振り合うシーンは、現代社会が失ったものに気づかされる。

「完璧」を捨て、年を取ったり母親になったり他の何かになったり、リアルな世界での猥雑さと複雑さの中には「可能性」が無限にある。人間になったバービーが、寝たり食べたりするのと同じように、自分の身体に対して決定権を持つようになり、生きるということとセットである「変化」の楽しさや色鮮やかさに気づくのである。

創造される側ではなく、創造する側として、いつか死んでしまうということを承知しながらも、その儚さや理不尽さの先にある「人間の美しさ」に意義を見いだしたバービーは人間になると決める。人間は完璧にはなれないし、なれないからこそ人間である。プラスチックの人形が、皮肉にもそう教えてくれる。

(文:竹田ダニエル)

(C)2023 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.