29歳―。

それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。

仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。

白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。

▶前回:アプリで出会った19歳上の男と温泉旅行に。ホテルでうち明けられた衝撃的な事実とは




失恋のヒエラルキー【前編】


「修平、何言ってるの?一緒に住めないって…どういうこと?」

美佳は、電話口でうろたえる。

湾岸エリア芝浦に建つタワーマンションの一室。夕方でもまだ強く陽の光が差し込み、荷物の運び込まれたばかりの雑多な空間を照らす。

内見を終えたのは、2ヶ月前。窓からのオーシャンビューを修平が気に入り、一緒にこの部屋で暮らし始める…はずだった。

それが、引っ越し当日の今日、LINEの返信がなく、修平の荷物もいっこうに運ばれてこないことを不審に思い電話をかけてみたのだ。

『ごめん、美佳。家賃は、しばらく半分払うからさ…』

「そういうことじゃないでしょう」

大手PR会社に勤める美佳には十分に収入はあるが、ひとりで住むとなると負担は大きい。だが、今はそれどころではない。

「別れる…ってこと?」

意を決して尋ねると、しばらくの沈黙の後に修平が、『うん、ごめん』と返事をした。

「新しい女のところに行くの…?」

修平にほかの女性の影があることに、なんとなく気づいてはいた。

ただ、お互いに30歳という節目の年を目前にして結婚の約束を交わし、まもなく同棲を始める状況であり、浮気などするはずがないと思っていた。

もしあっても、一時の気の迷いであり、すぐに元の鞘に戻るだろうと高を括っていた。

故に、何の対策も講じなかったら、結果こうなった…。

『美佳、ごめん』

修平がもう一度謝り、電話が切れた。

自分の荷物だけが積まれた静まり返った室内に、美佳は現実を見る。

窓の外には、夕暮れ時のオーシャンビューが広がる。あまりに美しいその景色が切なさを誘い、いっそう悲しみを深める。

美佳はスマートフォンを掲げ、窓の外の景色を写真におさめた。




― この、「いいね」押してくれた人、誰だろう…。

翌日、美佳は、昨日部屋から撮った夜景の写真をInstagramに投稿した。

修平との別れをにおわせるようなコメントを添えると、友人たちからの同情を寄せるコメントがいくつか書き込まれた。

失恋の苦しみを少しでも理解してくれる人がいると思うと、わずかに落ち着きを取り戻すものの、すぐにまた深い悲しみの波が押し寄せてくる。

なんとか平常心を保ちながら、「いいね」をしてくれた人たちの一覧を覗いているところで、『rei_ko』というアカウント名の人物を見つけたのだ。

― あれ…。なんか私の写真と似てる…。

『rei_ko』の投稿を覗いてみると、部屋から撮影した美佳と同じような景色の写真があった。

美佳同様、高層階から眼下に広がる東京湾周辺を写している。

― もしかして、同じマンションに住んでいる人…?

共通点を見つけたようで、にわかに気持ちが高ぶる。

ほかの投稿も覗いてみる。すると、ペアのマグカップや食器、洗面台に並ぶ2つの歯ブラシ、お揃いの部屋着などの写真が出てくる。




― この人も、私と同じ…?別れたばかりなんじゃない?

最近投稿された写真は、どれも別れをにおわせるようなものばかりで、交際相手への未練が滲み出ている。

美佳はその写真たちに、投稿者の抱く深い悲しみを感じ取る。

見進めるほどに胸のざわめきが大きくなり、自分の境遇を重ね合わせ、親近感を抱き始める。

― この人と会って話をしてみたい…!

もしかしたら、お互いに理解し合えるかもしれないと思い、美佳は『rei_ko』にDMを送ってみた。



『rei_ko』は予想した通り、美佳と同じマンションの30階に住む、怜子という女性だった。

汐留にある歯科クリニックで歯科医師をしているらしい。

連絡を取り合ううちにランチをすることになった。

今日は、浜松町の駅の近くにある『Bistrot à la Demande(ビストロ ア ラ ドゥマンド)』で待ち合わせている。




「ごめんなさい。遅れてしまって」

美佳が先に着いて待っていると、5分ほど遅れて怜子が到着した。

「いえ、私も今さっき来たばかりです」

― キレイな人だなぁ。

鼻筋の通った整った顔立ちは、聡明さと意思の強さを感じさせた。

ネイビーのニットにグレーのスカートを合わせた装いが落ち着いた印象を与えるせいか、年齢は少し上のように見える。

簡単なランチコースを注文し、簡単な自己紹介を交えながら、近況を語り合う。

怜子は、4年付き合っていた彼と2ヶ月前に別れたと話す。

美佳も、マンションに引っ越してきたのが、修平と一緒に暮らすためだったと詳しい事情を伝えた。

「お互い、つらいですよね…」

怜子の言葉には重みがあり、どんよりとした空気が漂う。

ただ、美佳の気持ちを真に理解しているからこそ出せる空気感であり、居心地の悪さはない。

むしろこの空気に少しずつ悲しみが紛れ、昇華されていくような印象すら受ける。

「でも、美佳さんはまだ29歳でしょう。お若いし、可愛いらしいから…」

「いいえ、そんなことは…」

「ううん。美佳さんなら、またいい出会いがありますよ。それに比べて私なんて、もう35歳ですよ。きっともう、誰からも見向きもされないでしょうね…」

「そんなことは…」

― ずいぶんと極端なことを言う人ね…。

「怜子さんこそこんなにお綺麗なんだし、きっと素敵な男性が現れますよ」

美佳がフォローを入れるが、怜子が首を横に振る。

「ダメよ。私なんてもう…。だから、私には彼しかいなかったの。それなのに、それなのに…」

怜子がうつむき、今にも泣きだしそうな表情を見せる。

その様子を見て、美佳が再びフォローを入れておだて上げようとするのだが、どうにもこうにもマイナスな発言が止まらない。

― これは、かなり重症ね…。

愛する人を失った悲しみに喘ぐ怜子の姿を、哀れに思う。

だが、自分よりも明らかに苦しんでいる人物がいることに、美佳は少し安心感をおぼえるのだった。


「美佳さんも、やっぱり食が進みませんか?」

ランチコースのメインがなかなか進まないのを見て、怜子が尋ねる。




「すみません。美味しいんですけど、なかなか…」

「つらいときって、食欲が落ちますよね。私もです」

怜子の皿にも同じようにお肉が残されている。

「この1週間で、体重が2キロくらい落ちてしまって…」

「まあ、大変…」

怜子が気の毒そうな表情で頷く。

「でも、私もよ。私なんて1ヶ月で5キロも落ちちゃったの…」

「ええ…、そんなに…?」

「夜に眠れないのも、原因としてあるけど…。美佳さんは、どう?」

「私もです。寝てもすぐに目がさめてしまって…。実質2時間ぐらいしか寝てないんじゃないかな…」

「そう…。私も、1時間ぐらいしか…」

美佳が発言するたび、怜子はいちいちその内容を上回ろうとしてくる。

― もしかして、怜子さんてマウントを取るタイプ…?

会話を続けるうちに、怜子の性格がつかめてくる。

その後も、「30階に住んだのは、彼にいい景色を見せてあげたかったからなの…」と、24階に住んでいる美佳に対し、暗に優位性を示すような発言も飛び出す。

― 怜子さんって、面倒くさいタイプかもしれない…。

美佳は苦笑いを浮かべながら話を聞く。

ただ、別れた彼を愛していた思いが本物であることは伝わってくるだけに、突き放すようなことはできなかった。



「痛たたたっ…」

美佳はリビングのソファに座り、アイスパッドを使って膝を冷やす。

怜子とのランチのあと、夜に親しい友人とお酒を飲みに出かけた。

近況を伝え愚痴をこぼしているうちに酒が進み、飲み過ぎてしまい、帰りにつまずいて転倒してしまったのだ。

1日経ったものの、アザはまだ青紫色をしていて痛々しい。

美佳はスマートフォンを手に取り、Instagramを開いた。

怪我をした直後、具合を写真に撮り、失恋によるお酒の飲み過ぎで転倒したと、酔った勢いで投稿していた。

すると、案外反響が大きく、多くのコメントが寄せられていた。

心配の声を目当てにしていたわけではないが、気にかけてくれる人がいると思うと、どこかホッとする。

「いいね」を押した一覧のなかに『rei_ko』の名前もある。

なんとなく、怜子のInstagramを覗いてみると…。

― ええ、なにこれ…。

美佳は画面を凝視した。

怜子の投稿に、足首に包帯を巻いている写真があったのだ。

投稿時間は、数時間前。ということは、美佳の投稿の後だ。




コメントには、「お酒を飲み過ぎて転倒して、足を捻挫」と書いてある。

飲み過ぎた理由はやはり、「別れた彼の存在を少しのあいだでも忘れたかったから」だと…。

― これって、私の投稿を意識してるよね…。

美佳の投稿を意識しているのはあきらかであり、よりひどい怪我の症状を訴えている。

― つまらないことでマウントを取ってくるんだから…。

本当に怪我をしているのかどうかはわからないが、対抗意識を持っているのは間違いない。

怜子は、自分が彼と別れたことでどれだけつらい思いをしているかを示し、どれほど彼のことを愛していていたかを伝えようとしているに違いない。

そして、それをもっとも共感してもらえるであろう相手にアピールし、同情を誘っている。

その相手が、美佳だ。

耐えがたい精神的苦痛を和らげるのに、必要な手段であるというのは理解できなくはない。

しかし、美佳としても、恋人と別れ悲嘆に暮れているさなかである。

― 気の毒ではあるけど、ちょっと距離を置いたほうがいいのかも…。

怜子の世話を焼けるほど、気持ちに余裕はなかった。

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