仕事も恋愛も、自己実現も、自由に叶えられる時代。
それでも私たちは悩みの中にいる。

東京・銀座の片隅に、そんな迷える東京男女たちが
夜な夜な訪れるバーがある。オーナーをつとめるのは、年齢不詳の謎の美女、留美子

時間を巻き戻したい男・神谷新之介。結婚4年目の妻・まどかとの価値観の違いに悩んでいた彼は、学生時代の恋人・文子と偶然再会する。そして時をほぼ同じくして妻・まどかが恋に落ちた相手はなんと、文子の夫だったのだ-




新之助:「女は、やると決めたら絶対にやる」


「それでは、書面を読み上げます」

ガラスのダイニングテーブルを挟んで、2組の男女が向かい合っている。

神谷新之介(33)と、妻のまどか(38)。
山口文子(33)と、夫の修司(42)。

-仲のいい夫婦同士の夕食会に見えるんだろうな、傍から見れば…

ここは神谷家のリビング。新之助と妻のまどかが今日まで暮らしていた部屋だ。新之介は、当事者でありながら半ば傍観者のようにこの状況を見つめていた。

まどかの、冷静で凛とした声が響き渡る。

「山口文子、以下“甲”と神谷新之介、以下“乙”の同居について以下の通り合意する。

一、甲と乙の同居はあくまでも一時的な同居であり、戸籍上または経済上の夫婦関係の解消を前提としない…」

それは「夫婦の生活交換」における同意書だった。

やると決めたときの女の行動力というものは恐ろしい、と新之介は思う。男はただ黙って従うより他にない。

向かい側に座る文子の夫・山口修司も同じように心ここにあらずといった顔をしている。

文子からは「ただのおじさんよ」と聞いていたが、かなりのいい男ではないか。長めに伸ばした髪と無精髭が嫌味なく似合っている。

不思議なものだ。文子の夫で、しかもこれから自分の妻と共に暮らす男…憎い相手のはずなのに、むしろ彼に対して感じるのは憐れみに近いものだった。これから同じ戦場へ向かう船で偶然乗り合わせた他人のような。

「以上です。相違なければ、お互いにサインを」

2組の夫婦は、言葉少なに4通の書類にサインをする。

それが終われば、妻はこの部屋を出て山口修司と共に逗子へと向かい、文子はこの部屋に残り新之助と暮らす。

こうして奇妙な「夫婦交換生活」は始まったのだった。


新之助と暮らし始めた文子の心境とは?


文子:「好きと幸せは両立しない」


「ただいまー」

文子は、ようやく使い方を覚えたカードキーで部屋のドアを開けた。赤坂の一ツ木公園を見下ろすマンションの一室。ここで神谷新之助と暮らし始めてもうすぐ3週間になる。

「夫婦交換生活」の期限は1ヶ月。それ以降についてはまた4人で話し合いが行われる。

もっとも、道は2つしかない。離婚して再婚か、婚姻を継続するか。あとはそれに期間が掛け合わされるだけ。

「新ちゃん、だから食器は朝のうちに下げてってば!」

文子はリビングに入るなり声をあげた。今朝の食器がそのまま放置されている。毎朝朝食は一緒にとろう、という新之助の提案はロマンチックではあったが、これでは興ざめだ。皿にこびりついたスクランブルエッグの残骸が物悲しい。

「ごめん後でやるー」部屋から生返事が聞こえた。

「しょうがないなぁ」仕方なく文子はスーツ姿のまま台所へ向かう。

分かっていたはずだ。3年も一緒にいたのだから。これが新之助だと。

どこか地に足がついておらず、いつまでも理想や夢を追いかけるタイプ。彼にとって「毎朝一緒に朝食をとる2人」の姿が全てで、食後の皿を片付ける労力にまで頭が及ばないのだ。




そんな彼を“現実”につなぎとめる役割を、5歳年上の妻であるまどかさんが担っていたのだろう。

「文子にそっくりだから一目惚れした」新之助は言っていたが、彼女を見たときの印象はむしろ真逆だった。

たおやかな包容力があり、地に足のついた生活がよく似合うひと。それはかつて、夫である山口修司から文子が感じた印象によく似ていた。



「僕が一方的に好きで最後は振られた」新之助はそう思っていたようだが、真実は違う。むしろ彼を好きになりすぎて自分を見失ったのは文子の方だ。

彼は、付き合う相手とすべてを共有したがる。一日の予定や趣味、将来の夢にいたるまでなんでも。文子はだんだん“彼色”に染まっていくことに恐ろしさを感じていた。

ちょっと距離をおきたい、と23歳のとき別れを告げたのは確かに自分だが、その傷をしばらく引きずっていたのも自分だったと思う。何度か恋はしたがどれもうまくいかなかった。どこかに彼の面影を探していたからかもしれない。

山口修司に出会ったのは、27歳のとき。そんな日々に嫌気が差して「しばらく恋愛はいいや」と転職活動にいそしんでいた矢先だった。

山口は、前職である大手IT会社のチーフエンジニアだ。37歳という年齢と落ち着いた印象から勝手に既婚者だと思っていたが聞けばまだ独身だという。

「かっこいいよね、峯岸さんは」

山口から「好き」とか「かわいい」といった甘い言葉を聞いたことはほぼない。彼はいつも文子のことを「かっこいい」と褒めなんでも文子の意志を尊重してくれた。

-結婚するなら、こういう人がいいかも…

外資系の戦略コンサルに転職してすぐ、慣れない激務に体を壊したことをきっかけに山口と入籍した。

「体のためにも環境を変えた方がいい」

逗子への移住は、知り合ってから初めて、山口が明確に意志を示したことだった。




「では、文子さんは後悔なさっていると?」

新之助の知り合いが経営しているという銀座8丁目のバー「銀座Timbuktu」。何度か2人で来たが最近はもっぱら文子が1人で足を運んでいる。

早く仕事が終わった夜。赤坂の部屋へは15分もせずに帰れるのだが、なんとなく、まっすぐ帰りたくなくて。

「いえ、そういう訳じゃないんです」

この夫婦交換生活であらためて気づいたことがある。
夫にはきっと、まどかさんの方が似合っている。

年齢も近いし、落ち着いた雰囲気や生活に関する価値観も。夫はずっと子どもを欲しがっていた。聞けばまどかさんもそうだという。でも文子はまだ踏み切れない。子どもを持つことで“守り”に入ってしまうことが怖いのだ。

「好きなのは新之助です、でも…」

誰かが言っていた。
恋愛は幸福を殺し、幸福は恋愛を殺す。

なぜこうも難しいのだろう。好きという気持ちだけでは幸せになれないし、「好き」のない幸せにはいつしか慣れて、つまらなさに変わってしまう。


新之助の年上妻、まどかは何を思う?


「ねえねえねえ!なんなの、今の話!」

文子が店を去るやいなや、ソファ席で別の客と飲んでいた女が立ち上がってタカハシに詰め寄った。

銀座7丁目の高級クラブで働いている、美桜だ。

「気になってこっちの会話に集中できないじゃない。夫婦交換って?どういうこと?」

あの事件から美桜は変わった。髪を黒に染め、露出過多だった服装もコンサバなものになったが、かえって素の美しさが引き立っている。

「お客さまのプライベートは明かせません」

「ってもほとんど聞こえちゃったし。今の女性は新之助って男と暮らしてて、その新之助の奥さんが今の女性の旦那と暮らしてるってこと?なんてややこしいの」

そのとき、バーの朱色の扉が開きオーナーの留美子が店に入ってきた。

「元気そうね美桜ちゃん。…ねえタカハシ、さっき下で文子さんに会ったけど、なんか物騒なこと言ってたわ。

“まどかさんが望むなら夫とは離婚する、でも自分は誰とも再婚しない”って」

「ちょっと留美子さん!」美桜が会話に割って入る。

「留美子さんがとんでもないのは知ってるけど…W不倫の推奨はダメだって。修羅場になるに決まってる」

留美子さんは一瞬「お前が何を言うか」という表情をしたがすぐにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「どうだかねえ。まあ、見てなさいよ」

カラ、ン

示し合わせたようなタイミングで再び扉が開いた。

「ご無沙汰しております」

現れたのは、新之助の妻・まどかだった。


まどか:「彼に振り回されることが、私の日常でした」


初めて店に現れた日と同じシンプルなチェスターコートに、凛としたボブヘア。タカハシは、湘南の潮風が彼女の髪をサラサラと撫でていく風情を想像した。

「逗子は終電が早いので15分で失礼しますね」

まどかは一直線にカウンターに向かってくると、スツールに腰掛けた。その表情にはどこか思いつめたような憂鬱さがにじみだしている。

「毎朝、波の音で目がさめるんです」

「へえー素敵じゃないですか」会話に割って入ろうとした美桜を、留美子がキッと睨みつけて静止する。

「山口さんのお宅は海に近いので、寝室の窓からは波の音と、トンビの鳴く声が聞こえてきます。それが…私をとても憂鬱にさせます」




店内はシンと静まり返った。まどかは話を続ける。

「赤坂に住んでいた頃もそうでした。夫が…新之助が、毎朝お決まりのヒーリングミュージックをかけるんです。波の音と鳥の声の。その音に起こされて彼にイライラする。それが朝の私のルーティンでした」

まどかは、手元の水を一口含む。

「出勤する新之助を見送りホッと一息つきます。やっと私の一日が始まると。夜になって彼が戻るとまた彼のペースに振り回されて、翌朝彼を見送るとホッとして…そのくり返しこそが私の日常でした。

山口さんのことは好きです。とても素敵な方だと思う。山口さんとの生活はおだやかで何のストレスもなくて…そう、何もないんです。何も」

そこまで一息で喋ると、うつむき黙り込んでしまったまどかに、タカハシは声をかけた。

「何かおつくりしましょうか、ワイルドターキーのダブルでよろしいですか?」

「いえ」

まどかは弾かれたように顔を上げた。

「お酒はけっこうです。私、妊娠しましたので。もちろん神谷の子です」

まどかの凛とした声が静かな店内に反響する。

「この子は、私が一人で育てます」


念願の子どもを授かったのに、なぜ。まどかの思惑とは?そして2組の夫婦が選んだ答えとは?


夫婦は、合わせ鏡


手元の水をグッと飲み干すと、まどかは言った。

「神谷が子どもを欲していないのはご存じですよね。ずっと思っていました、なんて責任感のないわがままな夫なんだろうと。でも…違いました

わがままなのは私の方です。だからこの子は、誰の子でもなく私の子です」

決心がつきました、そう言い放って席を立とうとしたまどかの肩に、真っ赤な爪に彩られた5本の指がおかれた。留美子の手だ。

「まあちょっと待ちなさいよ奥さん。横須賀線の終電まであと40分はあるわ」

まどかが手元の腕時計に目を落とす。

「あなたたち夫婦はそっくりね。頑固で思い込んだら止まらないところが」

「な…」
「ねえ、まどかさん」留美子は長い脚を組み直した。

「離婚しても構わない、一人で生きていこう。そう思った心を大切にするのよ。それを盾にすればどんな戦いもできる。誰とだって生きていけるわ、今のあなたなら」

「でも」まどかは目を伏せる「もう遅いですよ。夫は出会ってしまったんです。ずっと好きだった女性に」

「さーてどうかしら」留美子がバーの扉に向かってパチンと指を鳴らした瞬間、魔法のようにそれが開いた。

「新之助…」
「まどか、なんでここに?」

そこにいたのは、バツが悪そうな顔で立ちすくむ新之助だった。初めて店に来た時よりもスーツがくたびれ、やや疲れて見える。

「まずは2人でゆっくり話しなさいな。ここでもいいし赤坂でも逗子でも、お好きな場所で」

2人の男女はためらいがちに歩み寄ると、顔を寄せて小さな声でボソボソと話し始めた。




2人に聞こえないように、美桜はカウンターの向こうにいるタカハシに尋ねる。

「また留美子さんの仕込み?」
「おそらく違うでしょう。初めから分かっていたのでは、この2組の男女はこうなると。夫婦は合わせ鏡とはよく言ったものです」
「…ねえ、タカハシさんて結婚してるの?」
「いえ。前の妻との間に18になる息子はおりますが」
「は?あなた…幾つ?同い年くらいかと思ってた…」

「銀座の住人に年齢を尋ねるものではありませんよ」

タカハシが端正な顔にうっすらと笑みを浮かべた時、神谷新之助とまどか夫妻がスツールから立ち上がり、留美子に向かい合った。

「ひとまず今日は失礼します。これから2人で話すこともありますし」夫の新之助が頭を下げる。

「そう。またいつでもいらっしゃいな」

「あの…ありがとうございました。お会いできて良かったです、留美子さん」妻のまどかも続いた。

「でしょうね」留美子は赤い唇でにっこり微笑んだ。

「みーんな、そう言うのよね」

-Fin.