◆前回のあらすじ

綾里(あやり)は親友の結婚式で出会った医師の熊谷と意気投合するも、連絡を放置されてしまう。だが熊谷の趣味はキャンプ。山に籠っていたと言われ一安心した。趣味を楽しむ彼の様子に、綾里もキャンプに興味を持ちはじめ…。

▶前回:32歳医者といい雰囲気になった29歳女。しかし食事に誘った途端、未読スルーされたワケ




キャンパーの男/綾里(29歳)の場合【後編】


焚き火を見つめていると、時間を忘れてしまう。

綾里は目の前の炎の揺らめきに、今まで味わったことのない開放感と安らぎをおぼえていた。

富士山麓の本栖湖に近いこのキャンプ場は、夏のハイシーズンであるにもかかわらず、県道から奥まった林の中にある穴場のため他の客はほとんどいない。

見上げると、満点の星が夜空に瞬いていた。

「どう、初めてのキャンプは」

「はい…何もかもが新鮮で、心地いいです」

聞こえてくるのは隣にいる熊谷の声と、パチ、パチ、と炭がはぜる音のみ。

世界に存在しているのは、彼と自分だけ…。そんな錯覚さえ覚えるほどの静かな場所だった。

― こんなにすんなりデートが決まるとは…。熊谷さんって、本当にキャンプが好きなんだな。

先日の電話で、「キャンプに行きたい」と言ったところ、熊谷は驚くほど前向きに計画を立ててくれた。なんと、その翌日には行く日が決まり、キャンプ場の予約も済んでいたほどのスピード感だった。

綾里は、隣にいる熊谷の幸せそうな横顔をうっとり見つめる。

「焚き火はね、リラックス効果があると言われているんだ。集中力を高め、想像力をかきたてる…アメリカの研究所の報告にもそう書いてあるよ」

炎を眺めながらつぶやく低い声。それもまた、綾里の心を落ち着かせた。

「なるほど…」

「だから僕にとってこの時間は、慌ただしい日常のなかの大切なひとときなんだ」

熊谷との会話はとぎれとぎれだ。しかし、それは不思議と緊張を伴わなかった。


男性とふたりきりでキャンプすること。

自ら希望したことだが綾里はあの日、熊谷との電話を切ったあと、実はひどく後悔した。

一番の大きな心配は、会って間もない熊谷と、同じテントに寝るのだろうか?ということだ。キャンプ未経験の綾里は、アウトドアのギアを何も持っていない。

しかし、問題は難なくクリアとなった。熊谷が、綾里の分のまで道具を全部準備すると言ってくれたのだ。熊谷は気になるギアが出たらすぐに買ってしまうのだそうで、テントや寝袋、チェアなど、それぞれ複数の種類を持っているという。

「キャンプのためにギアを買うのか、買ったギアを使うためにキャンプをしているのか、たまにわからなくなるんだ」──そう笑う熊谷が揃えたギアは、どれもこだわりのものばかりだった。

綾里が今座っているチェアも、飛行機のファーストクラスに乗っているような快適さだ。フルフラットにもなるため、そのまま寝てしまいそうになる。

「綾里ちゃん、寝ちゃうの?まだ19時だよ。夜はこれからなのに」

目がトロンとしている綾里に、熊谷はいたずらっぽく笑った。綾里はその何気ない言葉を曲解し、頬を赤く染めた。




― 自然って、いいなぁ…。

虫の存在は気になったが、それも、熊谷が用意したご自慢のモスキートランタンのおかげでそこまで不快ではない。

まどろみの中しばらく目を閉じていると、ジュワーと肉が焼ける音が聞こえてきた。ニンニクやスパイスの香りが入り混じった、食欲をそそる香りも伴っている。

「あ、お手伝いしましょうか」

「大丈夫。ゆっくりしていていいよ。できあがったら呼ぶから」

「でも…」

「俺はね、全部ひとりでやるのが好きなんだ」

熊谷の圧に押され、綾里はその言葉に甘える。

― 熊谷さんも、いいなぁ…。

瓶ビール片手に料理する彼の背中は、広く厚い。その頼もしさを感じながら、綾里は調理工程を眺め、料理ができあがるのをゆっくり待った。




しばらくすると、2人分のディナーが出来上がった。

メニューはジャークチキンとクリームパスタ。それぞれ、熊谷の得意料理だという。

「…おいしいです!」

「だろ!今日は綾里ちゃんが来るから張り切っちゃったよ」

「やだぁ、そんな嬉しいこと言わないでください!」

大自然の中、熊谷との距離は確実に近づいている。ちょっとツッコむ程度のスキンシップも、気兼ねなくできるほどに。

どちらかというと人見知りの綾里は、そんな自分が少し意外だった。そして、熊谷になにげなく呟いた。

「ここにいると、本来の自分の在り方とか、悩みとか、どうでもよくなっちゃいますね」

「綾里ちゃんも嫌なこととかあるの?」

「もちろん。周りの友人が結婚して、ひとり残される寂しさとか…将来への不安とか…仕事とか…。この先、私はどう生きていくべきなのか、とか…」

「仕事はなんだっけ?」

「商社で、人事総務の部署にいます」

いつの間にか、マジメな話も話すようになっていた。

熊谷はそんな綾里の話を、ときおり相槌を打ちながら親身に聞いている。それで何か明確な答えが出たわけではない。ただ、綾里の心は熊谷に向けて解き放たれていた。

そんなゆっくりとした時間がしばらく続き──ふと沈黙が訪れる。

― あ…。この感じ、もしかして…。

しばらく無言で見つめ合った。熊谷の瞳の中の自分を認識した綾里は、ごくりとつばを飲み込んだ。

「あの、私、熊谷さんのこと──」

思わずそう言いかけた時、綾里のスマホが突然鳴動した。


着信の主は、会社の上司からだ。

こんなことはめったにない。その上、休日の夜間だ。そのことを鑑みると、よほど緊急の案件だろう。綾里は夢見心地の状態から、すぐに仕事のスイッチが入った。

熊谷に断りを入れた上で、すぐに出る。

「──はいもしもし…。大丈夫です。え、2年前の退職社員のデータでしょうか。共有フォルダに格納されているはずですが…」

それは、綾里にとっては瑣末な問い合わせで、対応はすぐに終わった。

いい雰囲気を邪魔されたことに、怒りはない。話を聞く限り、本当に緊急に確認せねばならない案件のようだったから。

すると、熊谷が口を開いた。

「…仕事、大変そうだね」

「いえ、めずらしく急ぎのことでしたから…」

そう言ってスマホの画面に目をやると、山の中にもかかわらず、アンテナが4本も立っていることに気づく。

「あれ?ここ、けっこう電波入るんですね」

「ここみたいな高規格のキャンプ場は、通話品質もよくてWi-fiもあるのが普通だよ」




「そうなんですか…」

その言葉に、何かが引っ掛かった。どこか腑に落ちない思いで、綾里はチェアに腰を下ろす。

すると、サイドテーブル代わりの切り株の上に、iPhoneがあるのが目に入る。熊谷のiPhoneは電源こそ入っていたが、機内モードになっていた。

「だけどさ、それって便利だとは思うけど、自然を感じて過ごす場所なのに本末転倒だよね。だから、ここに来ると僕はスマホをほとんど使わないんだ」

熊谷は上機嫌にビールを飲み干す。だが、綾里は改めて引っ掛かりを感じ、とっさに尋ねる。

「あれ?オンコールの時はどうするんですか?」

綾里の質問に、熊谷はキョトンとした表情を浮かべる。

「…さあ。通信切っているからわからないね。対応から外してもらっているし、万が一かかってきても行けないし。僕が休みの日に山籠もりしているのを、スタッフは理解しているから、何かあってもかけても来なくなったよ」

「なんでですか?それでいいんですか?」

「なんでって言われても。だってさ、待機していても報酬はないし、手当もろくに出ないんだよ。新人の頃はわけもわからず応じていたけど、なんだかアホらしくてさ。つまり、自分はそういうスタンス」

綾里は、何も返せなかった。

ただ、熊谷に抱いていた想いが、ゆっくりと崩れていくのを感じる。

どうやら綾里は、自分のなかで勝手に熊谷のイメージを膨らませすぎていたようだ。




会話は完全に途切れた。熊谷は酔いが回ったのか、うとうとしはじめている。

その横で、綾里はずっと焚き火の炎を見つめていた。その脳裏には、幼い頃、緊急搬送された時に対応してくれた医師や、懸命に治療してくれた担当医や看護師の姿が頭に思い浮かんでいた。

自分の命の炎が、いまだ燃え続けている奇跡に感謝する。

― そっか…。小児科医だって、1人の人間だもんね。私、勝手にお医者さんという仕事を理想化しちゃってたみたい。

熊谷の感覚は、全く間違っていない。無償の奉仕になりかねないオンコールを無視することは、誰にも責められたことではないのだ。

けれど、綾里は自信が緊急医療対応で医師や看護師に命を救われた身だ。

医療従事者に特別な尊敬を抱く綾里にとって、熊谷の合理主義的な考え方は期待していたものとは少々違っていた。

― 熊谷さんには運命を感じていたけど…。

綾里は大きなため息をついた。

だが一方で、ひとりマイペースに自然を楽しんでいる熊谷を見ていると、自分もそんな休日もアリなのかもしれないと思えてくる。

吉乃や過去の恋人など、いつも隣に誰かいるのが当たり前だった自分。ひとりで過ごすことが寂しく、恥ずかしいものだという印象だった。

しかし今は、夜空に瞬く幾千の星や焚き火の炎を見ているだけで心が安らぐ。

それらは孤独になった綾里の心を慰めるとともに、もっとひとりの世界を知ってみたいという誘いになった。

それが、この夜の収穫だ。

綾里はさっそく、ソロキャンプのためのギアを次の休日にでも揃えてみようと決意するのであった。

▶前回:32歳医者といい雰囲気になった29歳女。しかし食事に誘った途端、未読スルーされたワケ

※公開4日後にプレミアム記事になります。

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