薬物の取締法違反容疑で逮捕され、保釈された元KAT-TUNの田口淳之介さんの土下座謝罪に賛否が起こっています。というか、どちらかというと「賛」と比較して、「ふざけているように感じた」「怖面白い」「なんで土下座したのかわからない」といった否定的な意見が多い印象です。

昭和の人間からすると、土下座は最上級の謝罪のカタチです。「土下座したって許さない」「本気で悪いと思っているなら土下座しろ」といったフレーズは40代、50代には耳慣れたものですし、人にムリなお願いや頼み事をする際には、「とりあえず土下座でもしておけ」的な発想をもっている人も少なくありません。そういった意味では、「本気で悪いなんて思ってないでしょ、単なるパフォーマンスでしょ」という意見はまぁわかります。

たとえば仕事で会社に何億という損失を与えても、土下座謝罪をすれば全額弁済を免れる、賠償金を多少減額されるというケースもありますし、「俺は、土下座しろって言われればいつでもするし、なんかヤバそうな状態になったらすぐ土下座するよ」という知人の武闘派は「土下座すれば命までは取られないからね」と真顔で言います。だから土下座するのです。でも、土下座がパフォーマンスになるのは、土下座に「最上級の謝罪」という共通認識があるからこそですよね。

そして、自分が悪くないときには、本当は絶対にしたくないものです。女性の働き方の方向性として、しばしば『私、定時で帰ります』と比較されるドラマ『獣になれない私たち』でも、同僚の不手際をクライアントに責めらて新垣結衣さん演じる主役の女性が土下座を強いられるというシーンがありましたが、それを見た働く女性たちからは、「屈辱的な気分を共有した」「嫌悪感と仕事に対する絶望感があった」「ただただ虚しい。無念さしかない」といった意見が沸き上がりました。『半沢直樹』でも、土下座がクライマックスに使われていました。阿部サダヲさん演じるプロの謝罪師が土下座を超える究極の謝罪を見出すという、宮藤官九郎さん脚本の『謝罪の王様』という映画もヒットしました。それもこれも、「土下座は最上級の謝罪」という前提があってです。

土下座をしてふざけているように見えてしまうのであれば、そもそも土下座して謝る意味はありません。それこそ今回のように、「なんで土下座?」と受け取られるわけです。土下座って、変わってしまったんですね……。「土下座して謝れば済むってものではないですよね」という、最上級の謝罪という意味を前提とした意見ではなく、「イマドキ土下座して謝る人っておかしい」という世間の風潮に令和をしみじみ感じます。

土下座の未来はどうなる!?

ひとつの日本の風習(?)が消えゆくことに対しては、そこはかとない寂しさを感じはしますが、たびたび理不尽な土下座を強いられた世代としては、土下座に最上級謝罪の意味がなくなったということは、それはそれでいいことなのかもしれません。仕事で土下座“なんて”絶対したくないものですから。土下座がおもしろだったり信用できないものとされているのであれば、土下座を強いられることもないでしょう。

でも、本当に謝りたいときに、土下座が使えないとなると、不便ということはないのでしょうか。

たとえばです。今回も識者の方々がテレビなどで「土下座に逃げるのではなく、今後どのようにしていくかが問題」などと言っていましたが、謝っても許してもらえないって、結構ハードルが高いのではないでしょうか。土下座で解決させたいことって、仕事上、世の中に案外ありませんか?自分の不手際で仕事で損失を出したことを本当に申し訳なく思っているものの、でも損害の賠償は絶対ムリ、というときに「今後このようなことが発生しないよう、〇〇〇と〇〇〇のシステムを整えました」とビジネスライクに善後策を提示したとして、相手の感情は収まるものでしょうか。とにかく謝れ、ということにならないでしょうか。単純な人的ミスの場合など「今後どのようにしていくか」が「これから気を付けます」くらいしか言えないケースもあります。そういうとき、使うか使わないかは別として土下座は切り札になると思うのです。その逆に、たとえば、あまりの大トラブルに感情的になってキレてしまい、ひっこみがつかなくなった場合、相手が土下座してくれたら、「そこまで(土下座)させてしまったんだから、こっちも折れないと」的な空気になって、話が前に進みやすいということもあるのでは?これからの謝罪はどうなっていくのでしょうね。

ということで、その2では、昭和的な土下座謝罪の供養と懐かしむ気持ち(?)を込めて、あずき総研が働く女子たちに聞いた壮絶なリアル土下座体験を紹介します。〜その2〜に続きます。

正しい土下座は顔を上げた時に、両目に涙がつたわっているのだそうです。