ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

よく知られていない“その後”のヘレン

書店や小学校の図書館にずらりとならんでいる児童向けの「偉人伝」――みなさんは、子ども時代に読みましたか? この手の伝記で取り上げられる「三大女性偉人」と言えば、フローレンス・ナイチンゲール、マリー・キュリー(別名「キュリー夫人」)、そしてヘレン・ケラーですよね。

ヘレン・ケラーのエピソードは、子ども時代のものが特に有名です。幼くして視力・聴力を失ったため言葉を発することも不可能でしたが、家庭教師サリヴァン先生の指導のかいあり、指文字をおぼえ、会話も可能になりました。

この二人三脚による「三重苦を乗り越えた」物語があまりに衝撃的なため、“その後”のヘレン・ケラーについては、よく知らないという人が多いかもしれません。

今回の「コスモ偉人伝」では、まずはよく知られているヘレンの略歴をおさらいし、その上で“意外な素顔”や事実も含め、あまり知られていない側面を紹介します。

「よく知られている」ヘレン・ケラー

ヘレン・ケラーは1880年6月27日、アメリカ・アラバマ州のタスカンビアで裕福な家庭の娘として誕生しました。父アーサーは南北戦争時に南軍の陸軍大尉であり、地元で新聞社を経営していました。

1882年2月、1歳7カ月のときに猩紅熱(しょうこうねつ)の後遺症により視力と聴力を失ってしまいました。幼くして盲ろう者となったため、「見えない、聞こえない、話せない」の三重苦に陥ったヘレン。

しかし両親は娘の教育をあきらめず、電話の発明家として知られるアレクサンダー・グラハム・ベルを頼りました。ベルは1872年にシカゴにろう学校を設立しており、ろう教育の第一人者としても知られていたからです。

そして彼に紹介されたのが、アン・サリヴァン(1866〜1936年、以下「サリヴァン」と表記)。こうして、ヘレンの“住み込み家庭教師”に採用されます。実はサリヴァン自身、少女時代に弱視を経験した人。その後の手術で視力がかなり回復し、パーキンス盲学校を首席で卒業した女性でした。

1887年3月3日、ケラー家に到着したサリヴァン(当時21歳)は、ヘレン(当時6歳8カ月)の教育に取り組みます。指文字を通じヘレンは言葉を理解するようになり、7歳から盲学校通い、10歳ごろまでには発声と点字での読み書きも可能になりました。1990年10月、名門女子大学ラドクリフ・カレッジに入学し、アメリカで初めて大学を卒業した盲ろう者となりました。

以後、サリヴァン先生と二人三脚でヘレンは作家として、社会活動家として活躍し、世界中で講演活動を行う等、障がい者の救済および権利獲得のために精力的に活動を続けました。…と、ここまでは旧知の内容も多かったかもしれません。ここからは、あまり知られていないヘレン・ケラーにまつわるポイントを紹介します。

“奇跡の人”はヘレンのことではない!?

ヘレン・ケラーと言えば、「奇跡の人」と頭によぎる人は多いでしょう。実はこれ、日本だけの現象なのです。

子ども時代のヘレンとサリヴァン先生をモデルにした戯曲『The Miracle Worker(奇跡の人)』は、1959年にアメリカの舞台で初演され好評を博しました。その後に、舞台版と同じキャストで1962年に映画化され、1979年にはテレビ映画化もされました。舞台版は日本でも人気の演目であり、何度も再演されています。

サリヴァン先生の厳しくも愛ある教育のもと、ヘレンが井戸の水に触れながら「ウォーター!」と叫ぶ名シーンが有名な名作です。

1歳半で盲ろう者となった彼女が言葉を理解し発声する…まさに「奇跡」ですが、実は「奇跡の人」はヘレンのことではないのです。ウィリアム・ギブソン作のこの戯曲の原題『Miracle Worker』は「奇跡を起こすようなすごい仕事をした人」という意味であり、これはサリヴァン先生のことなのです。『奇跡の人』は舞台版も映画版も主人公はサリヴァン先生であり、ヘレンではありません。

「奇跡の人」という邦題がキャッチーでヘレンのイメージにぴったりだったことと、『Miracle Worker』を原文の意味どおりに英語から日本語へ翻訳する難しさからくる、日本だけの誤解なのです。

サリヴァン先生の結婚時も「3人で同居」

ヘレンにとってサリヴァン先生は肉親以上に“家族”であり、かけがえのない存在でした。サリヴァン先生がケラー家に来た6歳のときから49年間(サリヴァン先生死去まで)二人は常に行動を共にし、同居していたのです。

実はサリヴァン先生は、39歳のときに11歳年下のアルバート・メイシー(1877〜1932年)と結婚しています。メイシーはハーバード大学の講師であり、ヘレンの著書の編集を手助けしたこともある人物です。結婚後、メイシーがヘレンとサリヴァン先生が暮らしていたマサチューセッツ州レンタムの家(家の所有者はヘレン)の家に引っ越し、新婚生活は「3人同居」で始まりました。

この結婚生活は長く続かず、1914年ごろに2人は離別したようです。しかし1920年の国勢調査によると、メイシーは引き続き同居は続けていたとの記録があります。その後別居しましたが、2人は死去するまで法律上離婚はしていません。

1936年10月20日、冠動脈血栓症によりサリヴァン先生は当時ヘレンと住んでいたニューヨークの自宅で死去。その後ヘレンはコネチカット州に転居し、秘書のポリー・トムソン(1885〜1960年)と暮らしました。トムソン他界後は、看護師のウィニー・コ―バリーがヘレンと同居し、彼女がヘレン(享年87歳)を看取りました。

政治・社会活動にも取り組んだヘレン

ヘレンが世にでるきっかけとなったのは、まだ大学生だった彼女が1902年から『Ladies' Home Journal』誌で連載した『The Story of My Life(わたしの人生)』という自伝的読み物でした。この連載をまとめたものが1903年に書籍として出版されたことを皮切りに、多数の本を世に送りました。彼女は自分の職業を“作家”と語っていましたが、世界的な名声は講演活動によるものでした。講演スタイルは、ヘレンが話し、その後に通訳者が聴衆に再度話すというという方法でした。

口元に手を当て、人の会話を理解することもできました。1分49秒から、講演するヘレンと、通訳するトムソンの様子が紹介されています。

1906年には「マサチューセッツ盲人委員会」の委員に任命され、1913年ごろから障がい者権利のアドボカシー(擁護)を訴える講演を始めます。1915年には「海外盲人のためのアメリカ財団」の共同創設者となりました。

1930年にヘレン(当時50歳)はサリヴァン先生、トムソンと共に初の海外講演ツアー(イギリス、アイルランドなど)を行いました。戦争の時代を挟み、70代まで海外ツアーを続けました。

しかしヘレンは「障がい者のため」のことばかりしていたのではなく、政治・社会活動にも熱心でした。1909年に社会党(Socialist Party)に入党し、労働者階級のための運動に参加。女性参政権、戦争反対、公民権運動、産児制限の擁護、労働組合運動などにも積極的にに関わり、大統領選挙候補者の応援なども行っています。

ヘレンの恋

1916年6月、ヘレン36歳のときに経験した恋愛は、広く知られています。相手は『ボストン・ヘラルド』紙の記者であり、ヘレンの個人秘書業務も行っていたピーター・フェイガン。ヘレンとピーターは同じ政治信条を持つ同士であり、結婚を約束しました。

しかし、ヘレンの家族、そしてサリヴァン先生もさえ「盲ろう者にとって結婚や出産は選択肢にない」と考え、大反対しました。

ヘレンは彼らの反対を受け入れ、ピーターと別れた後、会うことはなかったようです。このときの経験についてヘレン自身も自著『Midstream: My Later Life』(1929年)の中で綴っており、「障がい者への結婚の平等がなかった時代」と表現しています。

「優生学」を支持していた意外な一面も

※ここからは、現在では差別的・不適切な表現を一部含みますが、当時の表現をそのまま表記しています。

障がい者ゆえの偏見や差別をなくすために先頭にたって戦ってきたはずのヘレンですが、ある事件にまつわる“意外”なエピソードが残っています。

1915年11月12日、シカゴの病院で形態異状(奇形)の男児が誕生。医師が救命手術を拒否したことが大きく報道されました。救命拒否の理由は、この男児が形態異状ゆえに「(将来的にも)精神的・道徳的に欠陥がある」と医師が信じたため。驚くことに、両親も医師の考えを受け入れました。

この事件が報道されると、アメリカ全土で議論が巻き起こりました。これに対し、ヘレンは新聞や雑誌で医師を非難する人々を「臆病な感傷主義」とコメントし、医師の行為を擁護しました。この男児の命は「価値がない」し、成長すれば「犯罪者になる可能性がほとんど確実である」とまで語っています。

実は当時、保守派の間では優生思想が支持されており、ろう教育先駆者であるグラハム・ベルもこの思想の支持者でした。ヘレンも、この流れをくんでいたと考えられますが…。時代とはいえ、このヘレンの発言は残念でなりません。ただし、1938年ごろまでにヘレンは優生思想に対する見解を変えたとされ、そうとれる発言もしています。

この出来事は「ヘレンが裕福で特権階級の白人であったこと」「自身の障がいについての考え方」と関係あることが指摘されています。彼女が障がい者のための活動をしていたことは事実ですが、政治運動の方が熱心であった時期もあります。

彼女は自分のことを「救われるべき側の人間」とは考えておらず、「困難を抱えつつもすでに克服した」と考えていたという分析もあります。障がい者関係団体の講演依頼を何度も断ったこともあったそうです。

3度の来日で日本でも人気に

7回の海外講演ツアーで39カ国を訪れましたが、特に日本で人気を博しました。1937年(昭和12年)に初来日を果たし、3カ月間滞在。戦後も1948年(昭和23年)、1950年(昭和25年)と、合計3度も来日し、日本中の誰もが知る有名人となりました。

3度目の来日の際、東京ヘレン・ケラー協会(点字など、視覚障害者支援事業)と日本ヘレンケラー財団(救護・障がい者用施設の運営)の前身団体が創設され、ヘレンが日本に残した“あしあと”を現在も見ることができます。

1961年に脳卒中に見舞われて以来、静かに暮らしていたヘレン。1968年にコネチカット州の自宅で87歳で亡くなりました。

ヘレンが140年以上も前に生まれた人であることを考えると、たしかに恵まれた環境にあったことで才能を伸ばすことができたことも事実です。彼女の人生は、当時としてはありえないほどダイナミックなものでした。しかし現代に生きる私たちが、ヘレンを見て「すごい人」「奇跡と努力の人」だけで終わりにしてしまうのは違う気がします。

誰もが平等に教育やサポートを受けることができる社会、差別や偏見のない社会が当時から存在していたなら、ヘレンの立ち位置は異なっていたかもしれません。残念ながら現在もそんな社会は実現してはいないものの、時代も世の中も、多様性やインクルーシブ(包括性)に対する考え方も大きく変化しています。

誰もが取り残さられることのない社会に向けた取り組みや運動に積極的に関わることの大切さ、そしてここから一歩進めるために何ができるのか――。読者のみなさんと共に考え、行動していきたい大切なテーマだと感じています。

参考文献


『Disability Studies Quarterly』(2005年、冬号)
『The Radical Lives of Helen Keller』(NYU Press)Kim E. Nielsen(著)
『ヘレン・ケラーはどう教育されたか―サリバン先生の記録』(明治図書出版)アン・サリバン (著)、槇 恭子 (翻訳)
『伝記 ヘレン・ケラー』(偕成社)村岡花子(著)
ヘレン・ケラー―目・耳・口が不自由という障害を乗りこえ、人々に愛と希望を与えつづけた運動家』(偕成社)フィオナ・マクドナルド (著)、菊島伊久栄 (翻訳)
<Psychology Today>
<Jane Addams Paper Archive>
<Helen Keller Foundation>
<Brittanica>
<New York Times>
<Time>
<American Foundation for the Blind> 他