この世には、生まれながらにして満たされている人間がいる。

お嬢様OL・奥田梨子も、そのひとり。

実家は本郷。小学校から大学まで有名私立に通い、親のコネで法律事務所に就職。

愛くるしい容姿を持ち、裕福な家庭で甘やかされて育ってきた。

しかし、時の流れに身を任せ、気づけば31歳。

「今の私は…彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ。どうにかしなきゃ」

はたして梨子は、幸せになれるのか―?

◆これまでのあらすじ
親友・紀香の姑を、偶然居合わせた職場の後輩・陸斗が思いもよらぬ方法で撃退。その後、梨子は、夢を語る陸斗に親近感と尊敬の念を覚える。しかし同時に、自分には夢がないことに気づいてしまった。

▶前回:「早く子どもを作ったら?」と騒ぎ立てる姑。機転を利かせた“ある一言”で、姑は沈黙し…




― 私、自分の夢が何かわからない。普通に生きてきたつもりなのに、恵まれたイージーモードの人生だったの?

家に帰った後、陸斗との会話が梨子の頭の中をぐるぐると回っていた。

夢を語る陸斗の姿は、梨子には新鮮に感じられた。

しかし同時に、自分には夢など何もないと気づかされる。

― 私はただ安全な環境で、穏やかに暮らしているだけ…。

梨子はベッドに横になった。

ぼんやりと天井を見つめていると、スマホが震える。

『安藤:梨子ちゃんが行きたいって言ってた鮨屋の予約枠、友達に譲ってもらったから来週どうかな?』

アンドリューからのLINEだ。

『梨子:うれしい!楽しみにしています』

即レスした後、梨子は少し考えてもう一通メッセージを送った。

『梨子:安藤先輩の夢って何ですか?』

『安藤:夢?とりあえずは今の会社で頑張って、昇進することかな?』

― 昇進して、その先にあるのは何?

『梨子:それって、ただの手段ですよね。昇進したら何かしたいことがあるんですか?』

『安藤:なになに?今日は論破系?そういえばこの前見た論破王の動画、すごく面白かったよ』

動画のリンクが送られてきたので、梨子は思わずそれをタップする。

動画をひとしきり見た後、アンドリューにLINEを返した。

『梨子:動画、おもしろかったです』

『安藤:でしょ!他にもいくつかあるからリンク送るよ。僕は仕事に戻るから、よかったら後で見てみて』

― 安藤先輩と話すのってすごく楽!今日はゆっくりお風呂に入りながら動画見ようっと。

部屋を出た梨子は、ふと思い立って、リビングにいた母・梨絵に聞いた。

「ねえ、お母さんの『夢』ってなに?」

「梨子ちゃんが笑顔でいてくれることがお母さんの夢よ。そうだ、この前ほしいって言ってたヘアパック、買っておいたから使ってみたら?」

― お母さんと一緒に家にいるのもすごく楽だわ。

梨子は、難しいことを考えるのをやめて、お風呂でヘアパックと動画を満喫することにした。


湯舟に浸かりながら動画を見てひとしきり笑った後、梨子はふと気がついた。

アンドリューから送られてきた動画に、梨絵が買ってくれたヘアパック。

― …他の人から与えてもらった楽しみで幸せを感じて満足している私って、まさに陸斗くんが言ってた「イージーモード」なんじゃないの?

梨子は今までの人生を思い返す。

進学先を決めてくれた先生、就職の世話をしてくれた父…いつも周りの人が『決めてくれたこと』で埋め尽くされていた、安全で幸せな人生。

決められたことに素直に従えば、周りの人が笑顔になった。それこそが自分の幸せだと、梨子は思い込んできたのだ。

― 周りの人の笑顔だけが、本当に『私の幸せ』なのかな?

決めてもらってばかりで、何も自分で決めてこなかったことに気づいた梨子はぼうぜんとした。

― 私も、何か自分で決めてみたい。今からできることって何だろう。

ヘアパックがカピカピに乾くのも気づかず、梨子は必死に考えた。



「安藤先輩、私、転職しようと思うんです」

アンドリューとの鮨デートで、梨子は突然切り出した。




「ええっ、いきなりなんで?」

「私、周りに決めてもらってばかりじゃなくて、自分で何か決断したいと思うんです。それで今の環境を変えたいんです」

一生懸命考えて出した結論に、アンドリューは笑いながら言った。

「また、突飛なこと考えたね。転職かあ…。今のご時世なかなか難しいんじゃないかな」

アンドリューは、自分の転職経験を語りだした。

「まずは転職エージェントに相談して、自分の市場価値を見極めて…」

アンドリューが話す転職は、梨子のイメージとは大きく違うものだった。

「事務職で転職するってなると、今の待遇よりいい職場は少ないと思うよ。お父さんも同じ会社にいることだし、転職より、部署異動とか相談してみたら?」

アンドリューの言葉に、梨子は自分の見通しの甘さを痛感する。

「あと、環境を変えたいっていうなら…まあいいや、この話はまた後にしよう」

「はい。私ももうちょっとよく考えてみます」

2人は転職話を終わりにすると、奥渋谷にある予約困難店のおまかせ握りを堪能した。



「あ〜おいしかった!安藤先輩、ごちそうさまでした」

何から何まで完璧だったコース料理も終わり、2人でタクシーに乗ると、突然アンドリューが梨子の方を向いた。




「梨子ちゃん、話があるんだ」

― あれ、このシチュエーション。デジャヴ?

そこで止めてください、というと、アンドリューは梨子にタクシーを降りるよう促した。

促されるまま夜道を歩くと、視界にSHIBUYA STREAMのシャンパンイルミネーションが飛び込んできた。

「わあ、きれい」

思わず梨子がため息をもらすと、アンドリューが言った。

「梨子ちゃん…環境を変えたいなら、僕と結婚しようよ」

思いもよらない言葉に梨子は固まる。

― 今、もしかして私、プロポーズされてるの?

完璧なデートのエスコートに、イルミネーションを前にしたプロポーズ。

突然訪れた少女漫画のようなシチュエーションに、梨子の心拍数は限界まで上がった。


アンドリューが続けた。

「つまり…僕たち、結婚を前提に付き合わない?」

― でも、待って。素敵なシチュエーションだけど…よく考えたらいきなりすぎない?

浮かれかけた梨子は、急に冷静になる。

「…今回は、何の思惑があってそんなことを言っているんですか?」

「思惑なんかないよ」

アンドリューは自分の額にかかった前髪を指で払いのける。

「僕は、梨子ちゃんと一緒にいると楽なんだよね」

「私も安藤先輩と一緒にいると楽ですけど…それだけで結婚?」

梨子が思わず聞くと、アンドリューはイルミネーションに目をやりながら答えた。

「僕たちは育った環境も似ているし、お互いの仕事のことも何となくはわかっている。梨子ちゃんのお父さんと話していると、ご両親ともうまくやれそうだなって思うよ」

そして再び梨子の目を見て言った。

「そういうの全部含めて『梨子ちゃんが好き』なんだ」




― それって恋愛感情とは別なんじゃない?

梨子の心の声を見透かしたように、アンドリューは続けた。

「たわいないLINEしたり、バカ話して笑ったり、梨子ちゃんとの時間も好きだよ。梨子ちゃんこそが、まさに『僕が結婚したい人』なんだって気づいたんだけど…ダメかな?」

「ダメ…じゃないと思います」

近いうちに返事ちょうだい、と言いアンドリューは優しく微笑んだ。



― どうしよう!私、プロポーズされちゃった!

梨子が、興奮冷めやらぬ様子で帰宅すると、遅い時間だというのに母・梨絵が出迎えてくれる。

「ごはんはもういらないでしょ?お茶でも飲む?」

大丈夫、と返事をして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、梨絵の言葉を思い出していた。

『いい子にしていれば、素敵な人がプロポーズしてくれるわよ』

― 私、いい子にしてた?安藤先輩は素敵な人?

「お母さん、私が結婚するとしたら、どんな人がいい?」

「そうねえ…お母さんはあのイケメンの彼が好きだったわ」

梨子が聞くと、梨絵は電子ケトルのスイッチを入れながら答えた。




「ほら、高校生の時にお母さんが差し入れのスイートポテトパイを作ってあげた、テニス部の…」

「安藤先輩?」

梨子はドキリとしながら答える。

「そんな名前だったかしら?遠くから見ていただけで、差し入れ渡せなかったって聞いたときは、お母さん泣いちゃったわ」

「そんなこともあったような…」

動揺を悟られないよう、曖昧に答える。いつの間にかお茶を入れていた梨絵が、ティーカップをテーブルに置いた。

何となく、2人でダイニングテーブルに座って向かい合うと、梨絵が聞いた。

「梨子ちゃん、結婚考えているの?」

まさに今日、その安藤先輩にプロポーズされたところだ、と言いそうになるが、梨絵が続けた言葉に絶句した。

「好きな人ができたらお母さんに会わせて。梨子ちゃんはまだ若いんだから、冷静な判断なんてできないわよ。お母さんが梨子ちゃんにふさわしい人かどうか、見てあげる」

― お母さん、私、もう31歳よ。自分で決断しないといけない大人なの!

「わかった。もしそうなったらお母さんに言うね」

初めて、梨絵に本音を隠して返事をした。梨子は気まずさに耐えきれず、部屋に戻った。

▶前回:「早く子どもを作ったら?」と騒ぎ立てる姑。機転を利かせた“ある一言”で、姑は沈黙し…

▶1話目はこちら:「彼ナシ・夢ナシ・貯金ナシ」31歳・お嬢様OLが直面した現実

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プロポーズに返事をする梨子。はたしてナシ子のままでも幸せになれるのか?