―あの頃の二人を、君はまだ覚えてる...?

誰もが羨む生活、裕福な恋人。不満なんて何もない。

でもー。

幸せに生きてるはずなのに、私の心の奥には、青春時代を共に過ごした同級生・廉が常に眠っていた。

人ごみに流され、都会に染まりながらも、力強く、そして少し不器用に人生を歩む美貌の女・里奈。

運命の悪戯が、二人の人生を交差させる。これは、女サイドを描いたストーリー。

派手な女子大生生活の後、総合商社での理不尽な社会人生活に疲弊した里奈は、7つ年上の直哉との結婚し、裕福な人妻となった。

しかし、夫との愛情格差に打ちのめされ...?




「また急に出張が入っちゃったよ。金曜の夜からバンコクだけど、火曜には戻るから」

30畳の広々としたリビングに、夫のやや明るすぎる声が響く。

直哉は目を合わせようともしないが、私はシンプルに「はい」と笑顔で答えた。

仕事もあるのだろうが、きっとまた女連れだろう。でなければ、わざわざ金曜夜に出発する必要もない。

今さら、腹が立つこともなかった。

怒りや嫉妬、悲しみといった感情はエネルギーを消費するため、私はそれをコントロールする術をすでに身につけているのだ。

わずかに感じるのは、小さな落胆だけ。そうして私の心は、ただただ冷えていく。

―そいつのこと、結婚するほど好きなわけ?―

何年も前に廉に投げつけられた言葉が、今になって再び耳に蘇る。

夫の常習的な浮気に冷静でいられるのは、やはり彼の指摘が正しかったからだろうか。

そして今、私は廉に逆に問いただしてみたくなる。

―結婚を決めたのは、駐在のためでしょ?それともー。

私に何の報告もなしに、急に結婚してシンガポールへ駐在に行ってしまった廉。

彼が何と答えるのかを想像するのは、夫がバンコクでどんな風に過ごすのかを考えるよりも、ずっと胸が痛むような気がするのが不思議だった。


浮気常習犯の年上夫に対し、若妻のささやかな抵抗とは...?


男に“飼われている”女


直哉には、目下お気に入りの女が二人いる。

でき上がった夕飯をダイニングテーブルに並べるついでに、私はそこにポルシェの鍵と共に並んでいた彼のスマホを手に取った。直哉はシャワーの真っ最中だ。

電話番号の下4ケタを入力すると、呆気なくロックが解除された。

夫は、自分の妻がこういった下衆な行為をしないと信じきっていると同時に、私への警戒心がまるで薄いのだ。そうなるように、私自身が日頃から敢えてそう振舞っているお陰で。

彼のスマホを盗み見るのは、嫉妬に駆られているとか、万一の時のために証拠を集めているというわけではない。

自分の生活を平穏に保つために、私はただ状況を把握しておきたかった。男のスマホなど盗み見て良いことはないというが、見ないで悪いことが起きるよりもずっとマシだと思う。

-直哉さんの言った通り、『カゲロウプリュス』のパスタ、本当に美味しかった!さすが『エクアトゥール』の系列店ですね。でも...もっと一緒にいたかったな。また会えるの楽しみにしてますー

こうした女とのやりとりには、もはや何の感情も湧かない。

相手は、言ってしまえば昔の私のような女で、若い肉体と贅沢な時間を交換するような男女関係を楽しんでいるだけだ。

しかし、この『カゲロウプリュス』は私が最もお気に入りのイタリアンであることだけが、少しだけ気に障った。




-直哉さんに紹介いただいた若月社長の講演会、すごく参考になりました。起業って一筋縄でいくものじゃないけど、女性が可能性を広げて自己実現できる社会を目指すためにも、もう一息頑張ります!ー

さらに画面をスクロールしていると、私が一番嫌いな女のメールに辿り着く。

この聡美という女は、おそらく私と同年代の30歳少し手前の女だが、どうやら人材系の会社を立ち上げたばかりの女社長のようだ。

最近のメールを見る限り、直哉は自分の所属している経営者グループの会に彼女を連れて行ったり、ビジネス繋がりの人脈を提供したりと、わりと熱心にサポートしている。

そして、夫が単に恋愛ごっこを楽しんでいるだけでなく、こうして対等に仕事の話をしているのが伺えると、私の心は否応無くザワついた。

この種の女が自分の夫と関係を持つのを目の当たりにすると、社会と縁の切れた「専業主婦」という立場の弱さを嫌というほど実感させられるからだ。

彼女も他の女や私と同じく、直哉の提供する贅沢なパフォーマンスを享受しているには違いないが、少なくとも、男に“飼われている”側の女ではない。

「カチャ」

廊下の奥で、バスルームの扉が開く音が聞こえた。

私はやや乱暴に直哉のスマホをテーブルの隅に投げつけると、顔に穏やかな妻の笑顔を貼り付け、夕食の支度を続けることにした。

-...仮面夫婦、上等じゃない。

そしていつものように、心の中でそっと悪態をついた。


夫婦生活に不満が募る里奈。廉とのまさかの再会が待ち受ける...?


人妻に芽生え始めた、“嫉妬”という醜い感情


「ほら、廉くんの結婚相手、この子!」

未祐はグランドハイアットの『フィオレンティーナ』で再会するなり、嬉しそうに私にスマホのFacebook画面を見せてきた。




彼女も大学の同級生で、私と同じような浮ついた学生時代を過ごしてきた友人だ。卒業からしばらくの時間が経っても、こうして二人で定期的に会うのは唯一の未祐だけだ。

もっとも彼女は未だ独身で、楽しそうに港区の最前線で活躍しているが。

「3歳も年上だって。ねぇ、30歳越えてるんだよ。それであの廉くん捕まえるなんて、やり手だよね。あー、結婚式楽しみ」

その画面に映っていたのは、おそらく以前『茶禅華』で見たのと同じ女だった。

0.5カラット、あるかないか。30歳を過ぎて小ぶりのダイヤモンドをわざわざSNSに写真を投稿するなんて、やはりその程度の女である。

私は荒んだ気持ちでその投稿から目を逸らし、真昼間から白ワインをオーダーしてしまう。

「でもさ、廉くんもイイ男になったよね。30歳前に結婚してシンガポール駐在なんてザ・王道だし、悪くないじゃん。こんなことなら、若いうちからもう少し仲良くしておけば良かったなぁ」

未祐の言葉を聞き流しながら、私は胸がチクリと痛むのを無視できなかった。

先日、突然廉から届いた結婚式の招待状。それを手にしてから、私の心は常に小さく波立っている。

そのうえ、未祐のような男慣れした女が廉を「悪くない」なんて品定めするのを聞くと、何とも言えない不快感が芽生えた。

「そうかな。商社マンが良い暮らしできるのなんて、駐在中だけでしょ?」

思わず嫌味を口にしたのは本心を隠すためだが、かえって胸に刺すような鋭い痛みが走る。

このときは認めようもなかったが、私の中で、徐々に“嫉妬”という醜い感情が育っていたのだ。



未祐と別れたあと、私は六本木ヒルズをあてもなく歩き回っていた。

週末だというのに特に予定もなく、家に帰っても一人きり。そんな惨めさを紛らわすべく、私は次から次へと直哉のクレジットカードで大量の買い物をする。

ふと魔が刺したのは、エストネーションで会計を待たされている時だった。

-久しぶり、元気?結婚式の招待状、ありがとう。楽しみにしてます。シンガポールは楽しい?

気づくと、廉にこんなLINEを送りつけていた。

多少の緊張感はあったものの、しかし私のメッセージには既読がつき、すぐに返信が返ってくる。

-おう、久しぶり!ありがとうな。シンガはなかなか楽しいけど、今は仕事で一時帰国してるよ。

-そうなんだ。じゃあ、今夜会えない?

廉が、東京にいる。

そう思うだけで、私は言いようのない衝動に駆られた。

一体、どうして今さら新婚の廉に会いたいなどと思ったのだろう。

でも、これは本当にただの出来心で、会って何がしたいとか、明確な理由があったわけでもない。

―OK。19時には行けると思う。里奈、どこにいる?

そして私は、これほど急な提案にも関わらず、返事を受け取る前から、廉がこの誘いに応じることを確信していた。

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セレブ妻・里奈と久々の再会。そのとき廉が感じる思いは、恋か友情か。