―俺、何のために頑張ってるんだっけな...。

メガバンクのエリート銀行員・岩崎弘治(40歳)は、最近こんな疑問に駆られている。

仕事はイケイケでも、プライベートでは長年連れ添った妻に逃げられ、特筆すべき趣味もない中年男。

だが、いまいちパッとしない寂しい日々を送る彼の前に現れた美女によって、男の生活はガラリと変わるー?

これは、出世争いに必死に勝ち抜いてきた社畜オヤジに突如訪れた、新橋を舞台に繰り広げられるファンタジーのような純愛物語である。

理由は分からないが、美しい部下・秋月瞳(30歳)にやたらと懐かれた弘治。彼女に少々振り回されつつも、二人は逢瀬を重ねていくが...?




「おはようございます」と「おやすみなさい」のメッセージが、朝晩毎日届くようになった。

瞳とやり取りするようになって、LINEというアプリがこれほど心温まるものだとは知らなかった。かつての弘治が女性たちとやりとりしていたメールやSMSなんかよりも、ずっと親近感が増すのだ。

瞳がふざけて寝る前に「❤️」マークなど寄こそうものなら、弘治は1時間も2時間も不眠症に陥ってしまう。だが、そんな風に一人悶々とする夜も、やはり悪くはなかった。

よくイイ歳した男女のLINEの“スクショ”なるものが出回り、朝の情報番組を騒がせた記憶があるが、弘治は今更ながら、その気持ちが少しだけ理解できる。

LINEとは、男の心を緩ませる不思議な力を持っているようだ。

しかし、調子に乗って下手な文面を残し、もしも瞳に流行りの「#MeeToo」なんて叫ばれようなら、弘治の人生はその時点で終了する。

彼女を信用していないわけではないが、弘治はこの甘酸っぱい関係を楽しみながらも、慎重に瞳との距離を測っていた。

年頃の美しい女が、一体何が楽しくて自分のようなオヤジに懐いているのか、理由は未だに不明だったからだ。


近づく距離、キュンキュンの逢瀬。だが、弘治の頭に過ぎる一つの疑問とは...?


解けない謎


「ここのお鮨、本当に美味しい。私、きっとここが一番好きなお鮨屋さんだわ」

『新橋鶴八』のカウンター席にて、瞳はご機嫌で鮨をつまんでいる。




初めて二人きりで飲んだ夜、「また岩崎さんと新橋で飲みたい」と言われて迷った挙句、弘治はもともと馴染みのあったこの鮨屋に瞳を連れてきた。

『新橋鶴八』は、地元サラリーマンには通称“オヤジビル”と呼ばれる「ニュー新橋ビル」の一角にある。

ディープな空気を醸し出す建物に瞳のような若い美女を連れ込むのはかなり勇気がいったが、この鮨の味には弘治も自信があったのだ。

実際、瞳はこの店が大層気に入ったようで、ここに訪れるのはもう3度目になる。

弘治のようなサラリーマンが頻繁に通うほどリーズナブルな店では決してないが、そもそも他に金を使う用途もないわけだから、財布がそれほど痛むわけでもない。

もともとは、大きな仕事に区切りがついたり、残業が何日も続いたときなど、自分への褒美として一人この鮨を味わうのが弘治の密かな楽しみだった。

だが、美女を侍らせて闊歩する新橋は、これまで弘治が一人シンミリ虚しく飲んでいた“くたびれたサラリーマンの街”とは全くの別世界である。

もちろん銀座や六本木、麻布といったエリアと比べれば多少雑多で庶民染みているが、あまりオシャレ過ぎても緊張するし、色気のある雰囲気に惑わされ、この歳で無駄に男女アクションを取ってしまうのも弘治の本望ではない。

「岩崎さんて、真面目一本に見えても、意外とセンスいいんだもん。こんな不思議な場所で、こんな美味しいお鮨を食べさせてくれるなんて」

そう言いながら、瞳は“うにタワー”と呼ばれる迫力の軍艦を前に目を輝かせた。




― 一体、この子は何を考えているんだろうか...。

何度か二人で会うようになっても、相変わらず瞳の魂胆は全く分からずじまいだ。

だが、鮨の食べ方一つ見ても、彼女がこういった店に慣れているのは明らかで、贅沢な食事を提供した男が山ほどいるだろうことは容易に想像がついた。

―彼氏...とか、いるのかな...?

そして、何より一番の疑問はコレだ。

これほどの美貌と可愛げのある30歳の女が、まだ独身で恋人もいないなどとは、弘治にとっては信じ難い話である。

もっと単純に言えば、これほどの女を放っておける若い男たちが、自分と同じ生き物とは思えなかった。

だが、そんな風に心の中で若者をdisっているのも束の間、弘治は自分の不甲斐なさで瞳を怒らせてしまうことに、全く気づいていなかった。


調子に乗ったオヤジに、天罰が下る...?!


蘇る、オヤジのトラウマ


弘治が独身で、かつ瞳と同じように30歳前後であったら...と想像せずにはいられない。

きっと、目の前にとびきりのご馳走を差し出された獣のように、無我夢中で彼女に飛びつくだろう。

だが現実は、やはり弘治は40歳のバツイチオヤジだった。

しかも、二人の関係は会社の上司と部下。万一にも何か行動を起こしたとして、その先の重い現実やリスクを考えれば身動きなど取れるはずもなかった。

そもそも、愛だの恋だの、惚れた腫れただの、この歳でそんなエネルギーもないのだ。

そして、前回「他の女の話はするな」と叱られてからというもの、弘治は徹底して瞳の話の聞き役に回ることにしていた。

それは基本的に他愛のない話題ばかりで、ちょっとした仕事の相談や、瞳の趣味である読書の話が大半だ。弘治も古い名作や大半のベストセラーには目を通すようにしていたから、話は穏やかに盛り上がる。

だが......。

そんな風にお行儀良く「上司と部下」を装っている割には、二人はお互いに妙な色気を醸し出していると思う。

そして実は、この絶妙な距離感こそが、弘治にとっては刺激的で心地良かったのだ。




云わば、“上質な大人の関係”というものだろうか。

―美しい女性とこんな風に食事ができるだなんて、俺は幸せ者じゃないか。安易に男女の仲に陥るよりも、ずっと高貴な大人の官能が漂ってるんじゃないか...?

それに、この程度の食事だけの関係ならば、万一他人に目撃されたとしても、それほど焦ったり言い逃れを考える必要もないだろう。

「...岩崎さん、このあとはどうします?」

瞳の横顔をうっとり眺めながら妄想に耽っていると、彼女が小声で囁いた。

瞳は、何と言っても声がイイ。上品かつ色気があり、ときに不機嫌に低音になったり、弘治を誘うようにこんな風に小声で耳をくすぐったりするのだ。

彼女の白い腕が、ほんの少しだけ弘治のYシャツに触れている。酔いが回ったのか、いつもより距離が近い。

「そ、そうだね。君がこの前気に入ってた『バブル』か、『三笠バル』で軽く一杯飲んで帰ろうか」

「......」

すると、瞳は突然表情を曇らせ、視線を落とした。

「あっ...毎度同じ店じゃ面白くないか。そうだ、『Txiki Plaka』ってスペインバルもなかなか...」

「岩崎さん。今日は金曜日ですよ」

弘治の言葉を遮った瞳の声は、明らかに怒りを含んでいた。金曜の夜に二次会の店を手配していない不手際に腹を立てただろうか。

「ま、まぁそうだが、この時間なら大丈夫と...」

焦りながらも答えると、今度は強い眼差しで思いきり睨みつけられた。その頰が、ほんのり赤く染まっている。

「そういう意味じゃありません。私たち、いつまで新橋でダラダラ飲み続けるんですか?」

まるで時間が止まったように、弘治の身体は硬直してしまった。

瞳は何が言いたいのだろう。いや、言いたいことは心の底では本当は分かっているような気もする。だが、このオヤジに一体何をどうしろと言うのだ。

同じ職場、30歳という妙齢のやたらと美しい女、そして人生一周を終えている自分。そんな二人が、この新橋という場所で、どんな発展性を見出せばいいのだ。

「...私、岩崎さんが奥様に捨てられた理由、何となく分かりました」

弘治が何も言えずに黙っていると、瞳は静かに立ち上がった。

「結局、岩崎さんは自分のことしか考えてない。そういう男なんだわ」

心地良かったほろ酔いが、一気に冷めた。

ついでに、背筋までもが凍りつくように冷えた。

―自分のことしか考えてない男と、これ以上一緒に人生を送るのは嫌なのー

去っていく瞳の後ろ姿を呆然と眺める弘治の耳に、離婚を告げられた時、何度も醜くすがりついた自分に妻が無表情で言い捨てた言葉が蘇っていた。

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瞳にキレられ、撃沈するオヤジ。淡い恋は終わりを告げるのか?それとも...!