地方出身の女性が東京に上京するタイミングは、実は3回あります。

第1の波:「ファーストウェーブ」地方の高校を卒業し、東京への進学。

第2の波:「セカンドウェーブ」地方の学校を卒業し、東京への就職。

この2つの波はよく知られていますが、第3の波が存在していることは、あまり知られていません。

第3の波:「サードウェーブ」それは、30歳前後で地方での人生に見切りをつけ、東京に新たな人生を求めて上京する独身女性達の潮流。

この波に乗り、30歳前後で地方から東京へ上京してきた独身女性達を『Suits WOMAN』では 「サードウェーブ女子」 と名付けました。地方在住アラサー独身女性はなぜ東京を目指したのか? その「動機」と「東京での今」に迫りたいと思います。

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今回お話を伺ったサードウェーブ女子、松田恭子さん(仮名・37歳)は奈良県奈良市出身。150センチ台と小柄で、きれいなストレートのロングヘアはやや明るめの茶色に染められており、Tシャツなどカジュアルな服がよく似合う20代の今時の女性のような若い印象を持ちます。彼女は今、出版社でデザイナーとして働いています。

――「東京」ってどんなところだと思っていましたか?

「なんか、冷たい人ばっかりだろうなというイメージがありました。そして勝ち組の匂いがする街というか……。みんなが仕事をバリバリしていて、その他のことは無関心でサバサバしているんだろうな〜と思っていましたね。遠くにある都会といった感じでそんなじっくりと考えたことはなかったですね」

恭子さんは東大寺や春日大社が徒歩圏内にあるような奈良駅から徒歩15分くらいの厳かな街で生まれます。自営業の父、保育園の保母さんをしていた母に3つ上の姉との4人家族で、しっかり者の姉と比べてややおっとりしていた恭子さんはとにかく甘え上手で、特に母親からは甘やかされて育ったといいます。

「姉がとにかくしっかり者で、私は勉強がとにかくできなかったんですよね。でも出来の悪い子ほどかわいかったのか、母親はとにかく甘々でした。父は厳しかったのですが仕事人間だったので、その厳しさは時折感じるくらいでしたね」

勉強が苦手な恭子さんはなぜか高校は商業科に進み、簿記や商法経済などを学びます。そして進路はほとんどの人が就職の中、デザインの専門学校に進学します。

「商業科に進んだのは……、そこしか入れなかったので……。お恥ずかしいですが、自分の頭ではそこが一番上の学校だっただけです。学校では簿記の資格を取りましたが、会計士などになりたいとも思っていませんでした。商業科は職業訓練校みたいなところだったので同級生のほとんどが高校を卒業後に就職していましたが、私はどうしても就職したくなかったんです。まだ18歳やし! と思っていて。

なので、スポーツ観戦が趣味だったので、スポーツの仕事に関わりたいなぁとぼんやり考えたんです。でも記事なんて書けるわけないと消去法でスポーツ雑誌のデザインをしたいとなり、思いつくままデザインの専門学校に進学しました。本当に申し訳ないですが、親のすねはかじりまくってましたね。勉強できなくても、お金さえ払えば専門学校は入れると考えていたので」

その後、2年間デザインの勉強をして就職した場所はというと……。

「証券会社の営業職として大阪で勤めました。なぜかというと、私が就職活動をしていた時期は就職氷河期で、行きたい出版社は何社かあったのですが、すべて新卒採用をしていなかったんです。そんな中、学校に求人を出していた証券会社をたまたま見つけて、応募の1社目でそこに決まりました。高校から2年追加で学校に行かせてもらったので、とにかく就職をしなければと思って。

その会社は個人の客を対象とした新規開拓営業でした。怪しい名簿を配られてひたすら電話営業をしていましたね。今思えばどこから手に入れた名簿なのか……。今はその会社は潰れているので、本当の意味でブラック企業だったのではと思っています。ここは10か月くらいで辞めてしまいました。全然仕事ができなかったし、やる気も無くて……。とにかくダメダメでしたね。そしてとうとう親に完全に見放されてしまうんです。必要な事務的なことしか会話がなくなりましたね。実家にも居づらくなったので、少しの貯金を手に無職のまま大阪で一人暮らしを始めました」

無計画のまま大阪で一人暮らしを始めた恭子さんですが、すぐにアルバイトを始めたといいます。

「大阪の印刷物などの出力センターで働きました。ここではスーパーのチラシなどのデザインを主に担当していました。仕事は一応デザインの仕事だったので、前職に比べたら楽しかったんですよね。ここで社員になってもいいな〜と思っていたんですが、上司から『アルバイトから正社員になる道はない』とキッパリ言われてしまって……。その一言で、このままじゃずっとアルバイトだと不安になって辞めたんですよ。結局3年くらい働きました。そして次をどうしようと考えた時、東京の出版社を目指したいと思うようになるんです。でも、今までやっていたのは簡単なデザインのみでまだまだ通用しないと思い、大阪のデザイン事務所に就職しました」

雪が降っても台風が来ても運行する近鉄線は、県民の信頼が高いとか。

その後、大阪で勤めたデザイン事務所の関係で東京に数か月滞在することになります。【サードウェーブ女子〜アラサー女子上京物語〜】奈良のデザイナー、親に見放されて東京へ〜その2〜に続きます。