日本の銅像の9割以上!?? を生産する、高岡の職人に話を聞いてきた

2018年、日本。私たちは「彫刻」に囲まれて暮らしている。へえ、そう? と、意外に思うだろうが、考えてみてほしい。町中には銅像がたくさんあるし、旅行や法事で仏像を拝む機会も少なくない。フィギュアなども彫刻に含めれば、目にしない日の方が珍しいかもしれない。だから、私たちはもっとよく知るべきだ、彫刻の楽しみ方を。

全10回にわたり彫刻の楽しみ方を考える本特集、今回のテーマは「銅像」だ。町中に裸の銅像が置いてあるのを、不思議に思ったことはないだろうか? 実は、そこには深い理由がある! 今回はそんな銅像の歴史を紐解きつつ、日本の銅像の"ほぼ全て"を生産すると言われる富山県高岡市を取材してきた。銅像職人にインタビューしてみて分かったのは、銅像にだって、豊かで味わい深い「個性」があるという事だった。

取材/飯田直人(livedoorニュース)
高岡市ってどんなとこ?

最初に、高岡市のことを簡単に紹介しておこう。高岡市は富山県の北西部に位置し、富山市に次いで県内では2番目に規模が大きい市だ。藤子・F・不二雄の出身地としても知られているが、銅器や漆器の生産が盛んな"工芸の街"である。国内の銅像はほとんど全てが高岡産と言われるほどの一大産地なだけあって、さすが、市内のいたる所に銅像が設置されている。

ⒸFujiko-Pro

こうした多種多様な銅像が、JR高岡駅の北側を中心とした1.5km圏内だけで、実に50体以上あるというのだから、その数の多さには驚く他ない。銅像の位置をマップで示すと下のようになる。

実際に街を歩いてみると、このマップから受ける印象以上に、銅像の多さが尋常ではなく感じられる。それはもはや、異常と言って良いレベルだ。その異常さを伝えるにはどうしたら良いだろうか。試しに、マップの点を全て本特集#1「ボディビルダーのロダン鑑賞会」で登場したロダン作品《ジャン・デール》に置き換えてみよう。

《ジャン・デール》の腰の位置がマップの点と一致するよう配置してみた。ちなみに中央の大きな《ジャン・デール》は、日本三大仏の一つ、高岡大仏の位置を示している。

いかがだろう。これで高岡の異様な銅像密度が、少しはお伝えできただろうか。さて、市内の様子が分かってきたところで、早速本題に入っていこう。

銅像の歴史をざっくり知ろう

この日の取材目的は、高岡の銅像職人に話を聞きに行くことである。しかし、筆者は銅像について全く詳しくない。いや、これまでずっと無関心ではなかった。裸体像の「股間」がどの程度ちゃんと形づくられているか(大抵は曖昧にぼかされている!)という下世話な関心を、昔から持ち続けてきた。とはいえ、銅像の歴史についてはよく知らない。「パパ、なんで銅像は町中に置いてあるの?」と子供の無邪気な質問を受けたとしても、銅像の股間のように曖昧な返答しかできない。こんな曖昧模っ糊り※な人間が取材に行っては、職人に対して失礼ではないか?そう、 絶対に失礼だ。だから、この日は彫刻史の専門家に同行して貰うことにした。まずは銅像の歴史について、少し予習をしてから職人の仕事場へお邪魔しよう。

※ 彫刻研究の大家・木下直之先生の著書『せいきの大問題 新股間若衆』(新潮社)より表現を拝借。木下先生は12/7〜2/28までギャラリーエークワッド(東京)で研究の集大成を展示するのでこちらも要チェックだ。
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小田原のどか(彫刻家/彫刻研究者)
1985年、宮城県生まれ。今年6月に上梓した『彫刻1』(トポフィル)が、この手の専門書としては異例の重版出来。アーティストにして気鋭の研究者だ。

――小田原さん、今日はよろしくお願いします!

小田原 
こちらこそお願いします。職人さんの話を直接聞くような機会は初めてなので、高岡銅器についての資料を読み込んで来ましたよ。

――それは本当に心強いです。さて、まずは銅像についてすごく基本的なことから教えて頂きたいのですが、どうして銅像は町中にこれほどたくさんあるのでしょうか?

小田原 
その理由としては、明治時代の「第一次銅像ブーム」が日本では最初の大きなきっかけになっていますね。まず、日本で最初に銅像が立てられたのは明治13年。この像は今も残っていて誰でも見ることができるのですが、どの像だか分かりますか?

――んー、上野公園の西郷さん?

小田原 
西郷さんは明治30年なので少し後ですね。正解は、金沢の兼六園にあるヤマトタケル像(明治紀念之標)です。ちなみに高岡の職人によって作られています。

――そうなんですね。それで、銅像ブームというのがその後起きるんですか?

小田原 
そうです。明治の中期以降、公共空間の銅像はまるで雨後のタケノコのように増えていきました。そもそものきっかけは、明治政府が近代国家の体制を整えるために「これが日本だ」と国民に視覚的に示せるようなものを求めていたということもあって、その手段の一つとして、銅像が町中に立てられ始めたのですね。そのため、初期の銅像のモデルとなったのは歴史・神話上の英雄や偉人が多かったようです。とはいえ、政府だけでなく、各自治体や民間人による設置もかなりの数が行われたので、明治33年には内務省が銅像の乱立を取り締まるために「取締規則」を発令するような事態にまでなりました。

――取り締まりですか。きっととんでもない勢いで増えてたんですね。そして明治のブームを第一次というからには、第二次ブームもあったんですよね?

小田原 
次のブームは1950年以降ですね。今私たちがよく目にする「自由」とか「平和」とか、ぼんやりとしたタイトルの男女の裸体像は、戦後のものがほとんどです。この背景には、第二次大戦中に、町中の銅像の多くが失われたという事情があります。戦況の悪化に従い、武器の製造に必要な材料として金属製品を国中からかき集める“金属供出”というものが始まり、この一環で1942〜43年あたりから銅像も戦争のための資源として回収されていきました。さらには戦後、回収を免れた銅像もGHQによる日本の軍国主義を一掃するという名目のもと、かなりの量が撤去されました。
こうして銅像が置かれていた“台座”だけが町中に残っているような状況が生まれ、第二次ブームはこうした空の台座の上に戦前の体制とは異なる"平和な""新しい日本"を示すもの、軍国主義からの脱皮を象徴するものとして裸体像を設置するところから広まっていきました。

――つまり、偉そうに着飾った偉人像や軍人像の対極にあるものとして、裸の像が日本の町中に作られてきたということですね。意外と重い理由で驚きました…。これは、股間がどうのこうの、そんなこと言ってる場合ではないですね。

小田原 
いえいえ、彫刻自体を楽しむことが大事なので、そういう観点はとても有益だと思いますよ。

――じゃあちょっと、あそこの銅像に同化してみて貰えますか?

こちらの適当すぎるオーダーにも応えてくれる小田原さんは、本当にいい人だ。

小田原 
そのほか、戦後から現在までの銅像設置には大きく見て3つほどの大きなファクターがあります。1つは「彫刻のあるまちづくり」という野外彫刻設置事業が行政主導で実施されたこと。2つ目は、「彫刻のあるまちづくり」事業とパラレルですが、フランスやアメリカの公共彫刻事業を参考に、1970年代ころから抽象彫刻も含むパブリックアート設置の機運が高まったこと。そして3つ目は2000年頃からアニメキャラクターの銅像設置が全国で増え始めたこと。
ざっくりした銅像史の説明としては、こんなところでしょうか。ちなみに、女性の裸体像を無造作に街頭に置くことや、アニメキャラクターの銅像を設置することは他の国では見られない日本に特有の現象ですね。

――ぎゅっとコンパクトな解説ありがとうございました!これで胸を張って職人に会いに行けそうです。

いざ、銅像の製造現場へ

この日取材に伺ったのは、銅像など大型銅器の鋳造・原型製作を専門に手がける梶原製作所。社長の梶原さんは、高岡市内の銅器関連会社200社以上が加盟する職人組合の理事長でもあり、いわば銅像界の首領(ドン)である。

敷地の中に一歩足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。大日如来、親鸞、日蓮、空海……。宗派の違いを超え、日本仏教界のスーパースターたちがずらりと並ぶ。お寺では絶対に見られないフォーメーションだ。少し脇では、職人さんが菩薩様の“耳かき”を行っていた。三人がかりでケアされて、菩薩様も気持ちがよさそうだ。

実際には耳かきではなく"研磨"をしている。

しかし、今回は仏像がテーマではないのだけど、来る場所を間違えたかな? 少し不安になってきたので、早く社長のところに行ってみよう。

――お邪魔します。梶原さん、今日はよろしくお願いいたします!

梶原 
どうも、梶原です。よろしく。

――(そ、想像以上にコワモテだ...!ヘタな質問をしたらシバかれそう。ここは小田原さん、私の代わりにインタビューお願いします…。)

なぜ高岡は銅像の一大産地になったのか

小田原 
本日は貴重なお時間をありがとうございます。さきほど工場の入り口で、仏像や高僧の完成した像が並んでいるのを拝見しました。

梶原 
あれはカタログに掲載している仏像や高僧たちですね。このあと着色などの加工が必要なので、完成品ではないです。途中まで作っておいて、注文があり次第完成させていくような段取りです。

小田原 
ブロンズ製の仏像にカタログがあるんですね!

梶原 
ゼロから作ると1体につき2〜3ヶ月はかかっちゃうので、とても納品に追いつかないんですよ。

小田原 
仏像がそんな仕組みで作られているとは知らなかったです。ちなみに、梶原製作所では仏像以外にも、モニュメントやアニメキャラクターの銅像なども制作されていると、HPに書いてあるのを拝見しました。そうしたものはカタログ受注ではないですよね?

梶原 
そういうのは一品製作ですね。鋳造だけでなく、依頼によっては原型制作なども自分たちでやっています。

小田原 
なるほど。伺いたいお話は色々とあるのですが、まずは、そもそもなぜ高岡が現在のような銅像の特別な産地になったのかを伺ってもよいでしょうか。私が読んだ資料では、高岡が一大産地として全国的に知られるのは明治以降だと書いてありました。そしてその要因としては、いち早く薄型・軽量の鋳造に成功したことや、高度な着色が可能だったことなど、ずば抜けた鋳造技術の高さが挙げられていました。

梶原 
それはいい話だ(笑)。もちろん技術の高さはあると思うけれどもね、私の感覚としては、高岡では明治、大正期に問屋が中心になって"分業制"を取るようになったことの方が大きいですよ。工芸の世界というのは今も昔も、一つの製品を一つの工房が最初から最後まで手がける"一貫製作"が基本です。でも、実際は工程ごとに必要な技術が全く違う。鋳造の技と塗装の技、彫金の技は、それぞれ全然別。高岡ではそれをいち早く分業化したんです。

小田原 
分業したからこそ高い技術力が得られたということですね。

梶原 
それだけじゃないです。分業化して仕事を小分けにするということは、2〜3人程度の会社でも仕事を引き受けられるということで、小規模な工場が存続しやすくなるということでもあるんですよ。工場の数が多ければ、それだけ技術の裾野も広くなる。つまり、一つの産地として対応できる仕事の幅が広くなるんです。
それに、分業すると工房同士のやりとりが多くなるでしょう。すると、職人のプライドがぶつかり合って、いい意味で競争意識が強くなるという面もあります。

梶原製作所の作業場には銅像の原型が保管されている。一番手前に見えるのは広島の宮島フェリー乗り場にある《舞楽・蘭陵王》

梶原 
私の若いころの話だけども、着色職人のお爺さんにひどく怒られたことがありました。その日は会社の先輩にうちで鋳造したものを持たされて、「お前これを着色屋さんに持ってけ」とお遣いを頼まれてたんですね。「いい色をつけて貰えるよう頼んでこい」と。それで私は着色屋さんのとこに行き、先輩に言われた通りに伝えました。そしたらね、帰る前にお爺さんに「お前ちょっと来い!」と引き止められて、「お前のう。生地が良かったらなんぼでもいい色がつくわい!」、「お前の今回の鋳物は汚い。いい色つけて欲しいなら、いいもの持って来んかい!」と、こっぴどく怒られたんです。

梶原 
当時まだ子供だった私は驚いたけど、これはある意味当然なんですよ。着色の職人は着色の職人同士競い合ってるから、よそよりもいい色を出したいと思っていて、だから私ら鋳物職人には厳しく言うんです。
で、そうするとこっちはこっちでまた頑張るわけ。文句言われたくないし、着色職人の所には他の鋳物屋で作られたものが集まるから、並べて「あそこはうまい。お前のところはヘタや。」とか、絶対に言われたくない(笑)。分業制には、そうやって地域全体がいいプロ集団になっていくという効果もあるんです。

高岡は挑戦し続けている

――(空気が和らいできた。もう喋っても安全かな…?)ところで梶原さん、銅像の生産量に変化はありますか?増えているのか、それとも減っているのか、少し気になります。

梶原 
銅像だけで言えば、そりゃ減ってますよ。私らも一度作ったものは何百年とこの世に残すつもりでやってるもんで、建物が壊れても、火事があっても、銅像は残る。非常に悔しいけどね、我々の作ったものはそうそう壊れないんですわ(笑)。

――(!! この人、実はお茶目だ!)

梶原 
銅像の注文は減ってますけど、新しく色々な依頼がきますよ。つい先日も福島の復興モニュメントの設置に行ってきましたし、今は国宝を含め、様々な文化財修復の仕事もやっています。
新しい仕事の度に色々と実験しながらやっていくので、仕事の幅は広がり続けてますね。例えば川崎大師の山門や浅草寺の宝蔵門にある提灯、あれもうちで作ったものです。皆さん提灯だから紙製だと思うだろうけども、実はぜんぶ銅合金で出来てるんですよ。

――へえ、全然気づかなかったです!

川崎大師、山門の提灯

梶原 
なぜわざわざこういうことをしたかというと、大きな提灯を紙で作り続けるのが難しくなってきたからなんです。あの提灯の書体を書ける人も減ってきてますからね。そこで紙ではなく金属にして長持ちさせたいと、寄進している方々から相談があったんですよ。
最初は鋳造で全部やろうとしたんだけど、重すぎて吊るせないと途中で判明しまして、最終的には骨組みをうちで鋳造し、紙の部分は鍛金(金属を叩いて成型する技法)の職人に頼むという形で実現しました。鍛金は厚さ1.5mmとかの世界だから、圧倒的に軽い。これは紙の表情を金属で表現するという、誰もやったことのない挑戦でした。

小田原 
先ほどのお話と繋がってきますね。技術の裾野が広いから、市内で様々な協力が得られる。これは産地としてかなりの強みですよね。

梶原 
まさにそうです。鋳物屋さんは全国にありますけど、こういういろんな技法の集積地は、あまりないんじゃないかな。本当にいろんな引き出しがありますよ。もし高岡にできないものがあれば、それは他でも絶対できないものだというくらいの自信はありますね。

小田原 
難しい挑戦という関連で、キャラクターの銅像制作についても少し伺ってよいでしょうか。《ドラえもん》や《サザエさん》、《両津勘吉》など、たくさんの有名なキャラクター像が高岡で制作されてきましたが、私はいずれも原型制作が非常に巧みになされていると感じます。二次元のものをどう立体に起こすかというのは職人の技術が詰まっている部分だと思いますが、その辺りいかがでしょうか。

梶原 
いや実際ね、キャラクター像を作るっていうのは簡単に見えて、とんでもなく難しい仕事ですね。フィギュアのサイズ感覚で可愛いものも、そのまま銅像のサイズまで拡大すると頭部が大き過ぎたりして、全然可愛くないんです。だから、既存のフィギュアを基にしつつ、何度も何度も、繰り返し手作業で修正していかないといけない。しかも、子供たちのイメージを壊さないように、版元のチェックもすごく厳しい。造形的にはシンプルでも、実は非常に緻密な作り込みが必要なんですね。

小田原 
チェックが入るということは、版元や原作者スタッフなど担当者が何度もこちらにきて、確認しながら進めるのですね。

梶原 
そうです。形だけでなく、色の指定も厳密だし、安全性にも配慮が必要。本当に大変ですよ。新しい挑戦という意味では、今は組合の青年部の若い人が色んなことをしているので、そっちも是非注目してみてください。私は古い人間だからよく分かりませんけども、海外で活躍している者も結構いますから。

高岡市内の「まちなかアート散策マップ」を見ながら、色々と教えてくれた。
楽しい銅像の見かた

――プロから見て「これはすごい」と唸ってしまうような銅像はありますか?一応今回の特集は“銅像の楽しみ方”がテーマなので、銅像の見方についても伺えたら嬉しいです。

梶原 
やっぱり明治期のものはすごいですよ。それこそ上野公園の西郷さんとか、皇居外苑の楠木正成橡とか。ああいうのは、私らから見ても「いい仕事してるな〜」と思う。とんでもない彫刻家がリーダーにいて、腕のある鋳造家がいて、助手も何人もいて、何年も掛けたんだなというのが見て分かります。

小田原 
どちらも仏師出身の彫刻家・高村光雲が主導したものですね。東京美術学校(東京藝術大学の前身)の教員がかなり関わっています。楠木正成橡については、高村は頭部を、身体部は山田鬼斎と石川光明、時代考証は川崎千虎、刀剣は鑑定家の今村長賀、馬は後藤貞行、原型完成後の鋳造は岡崎雪声というように、高度な技術と知識を持った専門家がチームとなって制作されました。

梶原 
本当はね、私らもそういう"名を残す仕事"を多くやっていきたいと思ってます。けれども職人の仕事というのは、基本的に黒子の世界。納品の段階で名前が消えて、誰が作ったか分からなくなってしまう。川崎大師の提灯なんかは特例で、施主の方が「梶原さんの名前もちゃんと入れてよ」と言って下さったので、名前を入れております。けれども、そういうことはあまりないですね。

川崎大師、山門の提灯の側面部分

梶原 
まあ、職人の仕事というのは、細かいところを見てもらえれば面白い世界だと思いますよ。銅像に関わる職人と一口に言っても、牛が得意な人がいれば、騎馬が得意な人もいる。花鳥が得意な人も、文字が得意な人もいるし、「この茶色、この丹色はアイツにしか出せねえ」と皆がそう思うような人もいる。
職人の技っていうのは、言葉でいくら説明しても完全には伝えられない。だから、皆それぞれ実験して、失敗を重ねて、技を磨いていく。そのため、実は作品には全部個性があるんですね。そういう風なことを気にかけてもらえると、銅像も少し面白くなるかもしれません。

――そういえば、銅像に作者の個性を見ようとしたことって、私もあんまりなかったですね。今度から見る目が変わりそうです。さて、そろそろ取材を終えようかと思いますが、最後に何かメッセージなどあれば。

梶原 
んー、銅や鋳造に関わることで何かあれば、私らにいつでも相談して欲しいなと思ってます。こういうものが作りたいでも、銅像が痛んでるからメンテナンスしたいでも、なんでも対応できますから。困ったらいつでも相談してください。

取材後、帰りの車中で1日同行してくれていた市役所の若手職員がボソッと言ったことが印象的だったので載せておこう。

「梶原さん、取材中に『自分は古い人間だから新しいことは分からない』とか言っておられましたけど、あんなの嘘ですよ。本当はあの人こそ、新しい挑戦しか考えてないんですから。」

そんな…。
梶原さん、シブ過ぎるよ…!

撮影/金川晋吾
取材・編集/飯田直人
デザイン/桜庭侑紀

次回は、人形編として「羽生結弦のプーさんの《生きてるみ》」をテーマにした記事をお届けします。