「キャプ翼」になれなくても…菊池康平が選んだ裏道の探し方。

写真拡大 (全10枚)

「『翼くん』に僕の気持ちは分からない」。戦歴は1勝15敗。プロサッカー選手を目指し続ける菊池康平は、じっとこちらを見つめた。Jリーグがダメなら海外へ。タイ、シンガポール、マレーシア…インドでは病に侵され死にかけたこともあった。自分は「翼くん」にはなれない。そう知りながら、負けを重ねながらもなぜ菊池は挑戦を続けたのか。

私たちと少し違った生き方をする人たちに話を聞き、これからの働き方を探る「アウトサイダーの労働白書」。第2回は海外で「道場破り」を続けてきた菊池に、諦めない生きざまを教えてもらった。

「アウトサイダーの労働白書」一覧
菊池 康平(きくち・こうへい)元プロサッカー選手、ライター、講演者。1982年生まれ。兵庫県出身。2001年明治大学入学後、海外プロサッカーリーグの練習に"道場破り"のような形で飛び入りで参加する挑戦を自費で繰り返す。05年に一般企業に入社するも、夏季休暇などを利用して挑戦を続ける。08年には、1年間休職して南米・ボリビアに渡航。現地のプロチームに挑戦し、念願のプロ契約を果たす。16年にサラリーマン生活に終止符を打ち、現在は16カ国で"道場破り"をした経験から得たものを伝えるべく、講演活動やライターなどで活躍している。
―(名刺を見て)いまは日本で、個人事業主としていろいろなお仕事をされているんですね……この「狂犬ライター」ってなんですか?
それはラオスに「道場破り」に行って、イヌに襲われたからです。
―イヌに襲われた。
はい。僕はこれまで16カ国でサッカーの挑戦を続けてきました。2014年に9年間勤めていた会社を辞めて、ラオスでプロサッカー選手になるための挑戦を再開したんですが、すぐにイヌに襲われてしまって。狂犬病対策のために緊急帰国するはめになったんです。そこで、ちょっと自虐的に「狂犬ライター」を名乗ってライター業をしていたことがありまして。かまれてるほうですけど。
■3カ月の不登校。再びの学校は「やっぱり怖かった」
―菊池さんの人生は、正直挫折の連続のように見えます。ちょっと経歴から振り返っていきたいんですけど。生まれは兵庫県ですか?
はい。3歳くらいには引っ越して東京の多摩にいました。幼稚園のころにサッカー選手を見て「カッコいい服を着てるから、あれやりたい!」って親に言っていたらしいです。

小学校にあがってからはずっとサッカー三昧で。小学5年生のときにJリーグが開幕して「Jリーガーになりたい」ってすごく思いましたね。
―しかし中学生では一度、目を悪くしてサッカーから離れたそうですね。
はい。もともと目が悪くて。あまり目が見えなくても走るだけならいけるだろうって、一度サッカー部から陸上部に移りました。でもやりたいことがやれないストレスもあったのか、その時期に3カ月くらい不登校にもなりまして。
―サッカーができなくて不登校になった?
うーん、いろんなストレスがあったので一概には言えませんが。とにかく学校に行きたくなかった。時間があるので、いろんなことを考えましたね。そこで「自分が本当にやりたいことがなんなのかな?」って真剣に考えたら「やっぱりサッカーだ」って結論になったんです。

たぶんそこがチャレンジの原点だと思うんですよね。
―不登校からまた学校に行くのも勇気がいりますね。
今でも初日の緊張感は覚えていますよ。「アイツ、いきなり来た!」って視線をビシビシ感じました。やっぱり怖かったですね。「どんなふうに言われるのかな」とか。
―実際にはどんな反応がありましたか?
おそらく教師が「来たときは普通に接しろ」と伝えていたんだと思います。実際はなにも言われなくて。逆に怖いくらいでした。

それからは、いまさらサッカー部には戻れないので、「地元・多摩市でJリーグを引退した人が教えてくれるスクールができます」という新聞の折り込みを見つけて「入れてくれ」って自分で電話しました。中2の終わりか中3のときです。

対象年齢は外れていたみたいですけど、熱意が伝わったのか「そんなにやりたいんだったらいいよ」って。これが“勝手に”自分で練習に参加する「道場破り」式の始まりですね。
■アポなしだろうと関係ない。「道場破り」のスタート
―いきなり連絡してダメでも熱意で突破する。
不登校が破れかぶれの原動力になったのかと。自分から電話して断られても痛くもかゆくもないって感覚でいましたから。
―それから中3の夏頃から、雑誌を見ていろいろなクラブチームのセレクションを受けたとか。
やっぱりJリーガーになるなら、部活よりユースのほうが早いと思ったので。中3のときにユースのトライアウトがあるのでどんどんと受けました。ヴェルディ、マリノス、浦和レッズ……でも、ことごとくダメでしたね。

中3の12月にFC町田ユースにギリギリ採ってもらえまして。寒い時期だからよく覚えています。入れたのは良かったですが、やはりそんなに甘くはなく、高1の1年間は試合に出ることができませんでした。
―誘惑の多い思春期の時期に、よくサッカー一筋になれましたね。
誘惑はありましたねぇ。みんなが楽しそうに部活をしたり、カラオケをしたりを横目に一番早いバスで帰宅する日々で。クラブチームの練習に間に合わなくなっちゃいますからね。

Jリーガーにもなりたいし、苦労して入ったチームなので「どうにかしがみつきたい」という思いもありました。

大学では、サッカー部の練習に半ば強引に参加していたんですが、実力差が激しくて練習にもついていけない状況でした。このままではJリーグ入りは厳しい。じゃあ、海外はどうかと。1年生のとき、業者を頼ってシンガポールリーグのセレクションを受けに現地まで飛んだんです。

でもこの業者が結構いいかげんで。結局自分で回って監督に「どうなのよ?」って聞いたり交渉したり。「ここがムリならほかに行くから。どうなの?」って聞いて回りました。
―なるほど。大学での英語の勉強が力を発揮したと。
英語分かんないです。ほとんど分かんないです。いまでも。
―失礼ですが、よくそれで行こうとしましたね。
拙い感じで、監督に「Can I Contract?」とか聞くレベルで。向こうが何言ってるか、意味不明なときもありました。
―怖くないんですか?
怖くはないですよ。まあ、呪文みたいなもので。向こうは日本と違って、受け入れてもらえそうと思わせる空気がなんとなくありますね。それぞれの国でサッカー協会に電話をしたり訪問して、練習場だけ聞いて、着替えて飛び込んで行くんですけど。これって、たとえば浦和レッズの練習だとムリだと思うんですよ。

いきなり知らないヤツが来て練習に混ざろうとしたら、「アブない野郎だ」ってすぐ警備員が駆け付けるでしょ。ある意味ちゃんとしているんですが、まあ、海外のほうが雰囲気的にはオープンですね。
―ウェルカムまではいかないけど「まあ、いいかぁ」って。
プロでも専門の場所じゃなくて、一般人が利用するグラウンドで練習していたりするので。とはいえ監督に「おまえ誰だ?」って驚かれますよね。僕、身長が185センチくらいあるのでそれっぽく見えたのがよかったのかもしれない。

日本人ではわりとデカいほうだと思うし、スパイク履いてバッチリ来られたら、向こうも「よく分かんないけど、今日だけならいいよ。もう着替えちゃってるし」ってなる。それで、その日がよければまた練習にも呼ばれて。「お前なかなかよかったから明日も来いよ! ここで4時にやってるから」と、次の日につながっていく。

チームとしても「そこそこ使える選手」が勝手に来たらラッキーじゃないですか。素性が不明だから怖いかもしれないですけど(笑)。本当にダメだったのはベトナムくらいですかね。「本当にウチはスカウト制だから。代理人通さないとムリ!」って。
■続く道場破り「それしか方法がなかった」
―ほかの国の人も含めてですけど、菊池さんのようにアポなし突撃の「道場破り」式で来る人っているんですかね。
うーん、あんまり聞いたことはないですね。だいたいはエージェントみたいは人がいるんですよ。「ウチの選手を見てくれ」みたいな。単独で「俺を見てくれ!」というのはほとんど……。
―世界的にもあまりないスタイル。
それしか方法がなかったですからね。僕は代理人を付けられなかった。普通は年俸の5パーセントとか10パーセントがエージェントの報酬になるんですが、僕にはそんな価値がない(笑)

Jリーグとかで活躍した実績があれば「こいつは売れるかもしれないから」って声をかけてくるんでしょうけど、僕の場合は仕事にならない(笑) だから自分でやるしかなかった。

それで大学時代からトータルすると全部で12カ国回りました。でも12カ国でことごとくダメ。

でもプロへの思いは捨てきれなかった。人材サービスの会社に入社して4年目に、会社を1年間休んでチャレンジした13カ国目のボリビアでようやくプロとして契約を結ぶことができました。

うれしかったですね。とはいえやっぱり言葉で苦労しました。スペイン語しか通じないですから。契約期間の1年間、もう大変でしたよ。
―あれ?英語も通じないんですか!?
調査不足でした。ワン・ツー・スリーもダメ、ウォーターって言っても分かんないんですもん。

お互い宇宙人としゃべっているような感じですよ。何言ってるか全然分からないから、毎日辞書を持って歩いてました。仲間に「これを叫んでみろ」って言われて、練習場の近くを歩いていた女子に向かって大声出したらとんでもない下ネタだったり。

翌日の練習時間も不明で。仕方ないから朝の8時から辞書を片手にずっとグラウンドに座って待っていました。ジュニアユースの若い選手がやって来て「お前は辞書を持ってずっと何をやっているんだ?」って驚いていました。
―「道場破り」をしてきて「これは良かったな」と思うことは?
異国の地に足を踏み入れたときは何も持っていないけど、帰るときには友達ができている。いろんなチームの関係者とも知り合いになれる。やっぱり自信につながりますよね。ゼロだったケータイのメモリーが、帰ってくるころには100件以上入っているのもうれしいですし。
■裏街道を進んだっていいじゃないか
―裕福さと幸福さは必ずしも比例しない、という話もあります。実際に外国と日本を見ていかがですか?
僕が行った国は、明るい人が多かった。カンボジアの貧しい地域でも、サッカーをしている人たちはすごく今を楽しんでいました。

サッカーに関しては、勝負に徹する人が多かった。上手だろうがヘタだろうがもうバッチバチ。でも試合や練習が終わると、怒鳴り合っていた者同士が大笑いして食事してるんです。とにかくカラッとしてる。

限定的な意見ですけど、日本ではそんなふうにどつきあったり、取っ組み合いには発展しないですよね。どちらかというと、グラウンドで起こった問題を外まで持って行っちゃうイメージです。
―なぜ、そんなことが起こるんですかね?
なぜですかね…。僕の持論ですけど日本人は「やることがいっぱいある」からかもしれない。仕事だったり、学校だったり。もちろん外国人もいろいろあるでしょうけど、抱えているものが少なくシンプルな気がします。
―日本では精神的なモヤモヤを持ち込んでしまう?
そうですね。ピッチの内外をつないじゃうことがあると思います。向こう(外国人)は裏表がなくハッキリしていて、言いたいことはその場ではっきりと言う。最後には仲良くなれることが分かっているから言えるんでしょうね。南米なんかは特にその傾向がありました。

だから、帰国したときには海外の気質になっているんで、いろんな人に話し掛けたものです。「いろいろ動こうぜ!」って、もうウズウズしてるんですよ。

でも反応がない。みんな自分のことに忙しくていっぱいいっぱいで、ちょっと元気がないようにも見えました。何かを提案しても「いや、そんなのムリでしょ」。全員がそうじゃないですけど、できる理由よりできない理由を並べられて否定されることが多かった気がします。

ただ僕もサラリーマンをしていた経験があるので、その辺りは分かるんです。日本のサラリーマンは働く時間が長いし、休日は疲れを取るためにずっと寝てしまったり。

なんかその…思考停止になるっていうか。「心の底では、本当はもっとこうしたいのに忙しいからムリだ」とか。面白い話があっても「いや、仕事があるので行けません」とか。
―現在そうした問題の改善のため、多くの企業が「残業をなくそう!」と取り組んでいます。
でも単純に時間を減らすだけでは昼間がむちゃくちゃ忙しくなるだけだし、家に持ち帰って仕事をすることにもなりかねない。あるいは土日に作業するはめになるとか。簡単な問題ではないと思います。
―ネット上ではいま、働き方についていろいろな討論がありますが「働く=楽しくない」は当然なんだ、という意見もあります。
「働くのはガマン代」なんて言葉を聞いたことがあります。僕もそんなふうに感じていた時期もありました。

この間、ベルギーに行ってきたんですけど、向こうの人たちはなんか「人生すごく楽しんでるな」って印象があります。ポカポカ陽気のなかで、オープンテラスで昼間からビール飲んで談笑してる。「なんかいいな」って感じました。それで成り立っているんですよね。
―私たちが日本で「裏表なく笑う」ためにはどうしたらいいと思いますか?
今はパソコンさえあればどこでも連絡がつく世の中じゃないですか。だったら、毎朝同じ時間に満員電車で出社しなくてもいい気がします。

これまでのルールを一度見直して「これおかしくない?」を洗い出して効率化すれば、もう少しみんなの気持ちにゆとりができるんじゃないでしょうか。

教育も大事ですよね。ちょっとでも定番のルートではなく裏ワザを使おうとすると「いや、それは違うでしょ」って言われちゃう。僕は昔から正攻法でダメなら裏技で練習に潜り込んだり、生きてきたのかもしれません。今だと「そんなのは違反だ!」って強く言われることもあります。親も子どもに正攻法しか教えない。

そうじゃなくて「面白い、そういう考えもあるのか」といろいろな考えかたを認めてあげることも大事。「ズルさ」を認めてやらないと発想が縮小していく。

個人的には、自分らしい考えかたで「裏道を探していく人」がどんどん増えたらいいな、と思いますね。
―裏街道を行く菊池さんを、周りはどう見ていたのでしょうか。
変わってるヤツだと見られていたでしょうね。でもね、大人になってからよく「なんだかんだでお前はやりたいことやってるよね」って言われます。海外に挑戦したときも「すごく遠回りして大変な目に遭ってるけど、でも夢を叶えてるよね」って。
―裏街道がダメだと思うから諦める夢もあるのかもしれません。
僕は「ズルい」んですよ。自分に力がないってことが分かっていたから、大学なり、会社なり、家なり、帰れる場所はきっちりと残していました。

サッカーだってちゃんとしたセレクションを受けてもダメだから「道場破り」という戦法を選んでいるわけですし。人生はいろんな道があって良いと思うし、袋小路で動けないようならズルい方法だってときには使っていいと思うんです。
■「明日死ぬかも。親を呼べ」異国の地で毒に倒れ…
―将来とか、お金の心配とか、人生に不安はありませんでしたか?
一番不安だったのはボリビアのプロ契約が終わって帰国して、また別の国でプロ選手になるために、思い切って会社を辞めたときです。そこまで不退転の覚悟でダメだったらヤバいじゃないですか。実際、貯金はドンドン減っていきましたし。

次の挑戦する場所にラオスを選んだんですが、現地でもとにかく安い食べ物を選んで。そんなときにイヌに襲われて病院送りで帰国する。悪夢でした。
―最初に言っていた「狂犬ライター」のことですね。
あ、ラオスもそうですけど、そこからカンボジア、インドに行って。インドでダニにやられて。僕、この短い間に合計2回緊急帰国してるんですよ。2回とも自力で帰りましたけど……。
―インドでも……。
なんか、人を殺しちゃうダニだかネズミだかにかまれて体内に毒がまわったらしくて。インドの病院で入院中にドクターが慌てちゃって。「すごく下がってる! 血小板の数値が!」って。

トドメは「このまま下がり続けたら明日死ぬ可能性があるから、日本の親に連絡して呼べ!」って言われました。
―えぇ……。
いろいろあって一命はとりとめましたけど、そのまま帰国です。カラダは弱ってるし、おカネもないのに入院代は掛かるし。帰国後は無職でパソコンもないので漫画喫茶でひとり「これはマズいんじゃないか」と戦々恐々としながら仕事を探してました。

誰も知らない土地で原因不明で死ぬって、そうとう悲しいことじゃないですか。サッカーしに行ってダニにかまれて死ぬって。
―それでもチャレンジを続けて良かったと思いますか。
そうですね。これだけいろんなことを経験したら嫌でも気が長くなりますよ(笑) 今は毎日楽しいし、ストレスがあってもやりたいことをやってるんだから納得できる。「しょうがねぇな」って。
■「翼くん」に僕の気持ちは分からない。それでも
―「キャプテン翼」の世代ですか? アニメは見ていましたか?
オンタイムではないですね。確か再放送で見てました。いろいろな国で放送していましたね、ボリビアでもインドでも。
―翼くんは活躍を重ねてプロになって、みんなの中心にいます。大変ぶしつけな質問ですが、菊池さんは「翼くん」になれなかったと思われますか?
そうですね。もちろんです。
―「キャプテン翼」は夢の物語で。多くの人が翼くんに憧れてサッカーを始めて、翼くんになれないと知ってやめていきました。でも菊池さんはやめなかった。
バルセロナの競技場で5万人の前でプレーするとか、僕も翼くんの人生が理想で夢だったかもしれません。でも、そうじゃなかった今の人生も、僕は「自分らしい」と誇らしく思っていて。

例えば、シンガポールで翼くんみたいに活躍していたら、もう満足しちゃって終わっていたかもしれない。いろんなところでプロになれなくて、あと一歩だってときもあって、満たされないものがあったから挑戦を続けてきたと思うんですよね。いまでも満たされないものがあるからまだ……。

偉そうに聞こえるかもしれませんけど、いろんな痛い思いをしてきたからこそ、同じ境遇の人の気持ちも分かる。翼くんはきっと、僕みたいなうまくいかない、試合に出られない気持ちを本質的に理解することはできないと思うんです。
―そうかもしれません。
だったら僕は、うまくいかなくても続けていれば得ることのできる何かを、これからも伝えていきたいんです。翼くんになれなかった人間として。

企画・インタビュー・文=森田浩明
写真=西田周平
デザイン=桜庭侑紀
「アウトサイダーの労働白書」一覧